【香水】傾国の美女 TIAN DI

    魅惑の果実、桃。噛んだ瞬間につぶれて広がっていくうっとりしたあまさ。舌に残る繊維。つやりとした蜜が唇を濡らす。
 初夏の夜、薄暗いリビングで桃を剥く。わたしはグレーのスウェットを着て、髪の毛を緑のバンドでとめて、鼻からずり落ちる眼鏡を何度も手首で押し上げていた。薄く毛の生えた柔らかい果実を右手で握る。爪を立てて
皮をべろりと剥がすと、指の腹がさっそくぬるくべたついていた。しゅるり、しゅるりと繰り返す。向き終わったらまな板に横たえて、果実にナイフを入れる。じゅん、たしかな手応え。ひらいていくにつれてあまくあまく、艶やかに満ちていく香り…。

    桃の香りに誘われるわたしは女の子。
 かわいいわたしになりたいし、かわいいわたしが好き。そうして、「すれ違ったふとしたとき、桃の匂いがする女の子ってめっちゃ美少女じゃない?」なんて。それで、桃を纏いたくなったのだ。馬鹿っぽい理由である。香水を好きになってから日が浅かったろう、18の頃だろうか。桃の香りを調べては、いつか買おういつか買おう…を繰り返す。優柔不断。いよいよ決意が固まったのは、一本の瓶との出会いによる。
 Tian Di(ティエンディ)。どこかの誰かの最愛の桃香水。

    ティエンディに出会ったのはSNSだ。今どきなにも珍しくないかたちでの遭遇、マッチング。もぎたてというよりも、熟れた桃であるというレビューに、私は心を掴まれた。なんて素敵。砂糖を煮詰めてできる鼈甲色の粘りを想像した。あの瓶に入っているのは、琥珀色に輝くフルーティーなときめきなのだ。
    出会ったことのない相手に焦がれ、私の桃香水デビューはティエンディに捧げようと決めた。フラッサイがNOSE SHOPに追加されたことも契機である。そんな、諭吉4枚のプリンセス。

雲間を突き抜け、天と地を繋ぐ宇宙のはしご。古代中国の伝説上の山岳、崑崙山。神々や仙人、天女が住むこの世の楽園。3000年に一度だけ実る不老長寿の桃の結実を祝い開かれる豪華絢爛の宴。神秘的な香りの儀式。

NOTE|ジンジャー、ガルバナム、スターアニス、フランキンセンス、ピーチエリクシール、赤い菊、アイリス、サンダルウッド、チャイニーズインセンス、トンキンムスク

パフューマー:オリビエ・ギロタン

(NOSE SHOPより)

    以上は、NOSE SHOP公式通販より引用した、ティエンディのプロフィールだ。なかなかオリエンタルなロマンチストである。王朝時代の美人を想像する。国さえ傾けかねない、絶世の美女である。

    紅茶色の艶やかな長髪を高い位置で結い、金の桜をあしらった櫛と赤い簪をつけている。着物は山吹色、もしくは金色で、大ぶりの模様が描かれている。鳥、花、軽やかな風…。描かれているのは桃源郷であろう。袿は柔らかなピンク色。唇はうるんだフィグの色。切れ長な瞳には、紅色が差し色となるアイシャドウを塗っている。偏光ラメをしっとりと瞼におとし、まばたく度に藍色の睫毛がそよぐのだ。
    そんな美しい女性が私に微笑む。形のいい爪先が優雅に差し伸べられて、汗ばむ手でとると、無機物のように冷たい。口元を緩ませて、囁きかける。その声が重たく、低く、私は驚く。

    ティエンディは私の手を引いて軽やかに駈ける。彼女は自分が高貴であることをごく自然に思わせる見た目をしていた。重たいガラスに琥珀の水がゆらめき、木製の蓋がそれを閉じ込めている。目をひくような装飾は無い。生粋の美人には飾りはいらない。

    纏うと重たく、空気を溶かすように香った。手放しの「いーにおい」ではない。あまく淑やかで、奥行のある香り。飴のようで、ムスクのようで、果実のようで。全てに霧がかかっていた。
ちがう、ただの女の子の香りじゃない。
溶かされる。
これが香水。
麗しのTIAN DI。

    夢枕。私の首元は、まだ彼女の香りがする。一緒にお眠りましょうと笑う彼女に手を伸ばし、今夜も桃に誘われる。


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