俺が積んでる本

読むのが遅かったり飽きっぽかったりするので、本を買っては大半を積んでいる。最後まで読み切った本なんか本棚の2,3割もないと思う。ただ積んでるだけでも無意味ということはないけど、せっかくなので積んでる本のいくつかについて書いてみる。誤りがあっても許してほしい、なにせ読んでないので。

ちなみに「積んでいる」も全くの未読から多少は読んでるまで幅があると思うけど、厳密な定義はせず、俺が「積んでる」と思った本は俺が積んでる本です。

不思議の国の論理学

不思議の国のアリスの作者であるチャールズ・ラトウィッジ・ドジソン(ルイス・キャロル)は数学に明るく、パズルや論理ゲームを考案しては知り合いの女の子と遊んだりしていたらしい(楽しそうだな〜)。その関連の作品がいくつか掲載されている。
彼が考案したゲームの中でも有名なのがダブレットというやつらしい。それはこんなものだ。ある英単語から同じ文字数の英単語に向けて、一文字ずつ文字を変えていく。一文字ずつ変えた途中の単語も単語として成立していなければならない場合、最短何手でゴールとなる英単語に向かうことができるか。なんか Wordle みたいに、スマホでサクッと遊べるやつがあったら楽しそう(4,5文字くらいだったらどの英単語をとっても必ずクリアできるんかな?)。

自分は頭が固いのか、この手のゲームや思考実験は(楽しいから好きではあるんだけど)少し苦手意識があって、真正面から取り組んでみることはできるんだけど、ひらめきというか発想の転換みたいなのがなかなかできない。脱出ゲームとかでも、小謎はけっこう得意だけど最後の大謎にたどり着くとわりとポンコツになることが多い。ひらめきというのはインプットを増やさないと生まれないよなあという予感はある(ひらめかないので確信がない)ので、繰り返し続けていくかという感じはある

どうでもいいけど、彼はそんな感じでつくったゲームを女の子と遊んだり、写真を撮ったり、その女の子をモデルにした小説(不思議の国のアリス)を書いたりしていたら少女愛者、いわゆるロリコンと呼ばれるようになった。その事自体には別に何もないんだけど、たしかにモデルとなった少女(アリス・リデル)のこの写真はめちゃくちゃ可愛いんだよな〜

おっぱいの進化史

おっぱいは好きか嫌いかで言うと好きなので買ってみたんだけど、目次だけ読んであとは未読。目次的にはどちらかというと生物学的な観点でのおっぱいや乳の解説がメインらしい。帯に「哺乳類ならおっぱいのことをもっと知るべきである」って買いてて「そうだよね」となっている。たしかにあまり深く考えてなかったけど、おっぱいというのは「哺乳類」という生物のいち大カテゴリーに共通するすごい特徴なんだよな。

自分としてはおっぱいの生物学的な話というよりも、おっぱいが人類史のなかでどう捉えられてきたのかというほうが気になる。具体的に言うと「なぜ人(特に女性)は公衆の場でおっぱいを出すのがタブーになったのか」という話が気になる。性器も同じくタブーなんだけど、昔の絵画だと股間は隠されてるけどおっぱいは出てるとか、男はまあ水着とかだと上半身ハダカだよねとかで、その扱いには差異があるように感じる。その差異がどこから出てきたんだろうとか、そもそもなぜそういったものを隠すようになったのか(聖書とか読めばいいのかな)というのが気になる。

関係ないけど、よく「猥褻物陳列罪」みたいな言葉を聞くことがあるけど、実際そういう名前の罪というのはなく、あるのは「公然わいせつ罪(刑法174条)」と「わいせつ物頒布等罪(刑法175条)」らしい。エロ動画をネットにアップするのはわいせつ物頒布等罪で、不特定多数に向けてエロライブ配信をするのは公然わいせつ罪らしい(参考)。おもしろい。

西洋美術研究 No.9 特集 パレルゴン:美術における付随的なもの

学生時代に修士論文の参考になるかなと思って買ったけど結局ほとんど読んでない本。タイトルにもあるように、パレルゴンというのは美術における付随的なもの、つまりある美術作品において、その作品の本体部分(絵画で言うと描かれているモチーフだったりその構図であったり)ではなく、それに付随する各要素、たとえば絵画を飾っている額であったり、作者の署名であったり、作者がその作品について記した説明文だったり、そもそも作品のタイトルだったりといったものである。

この本の表紙に映されているのはある絵画をひっくり返して裏から見たキャンバスを映した写真、というわけではなく、キャンバスを裏から見たところをキャンバスに描いた「裏返されたキャンヴァス」(コルネリス・ノルベルトゥス・ヘイスブレヒツ作)というなんともモダンな感じのだまし絵である。が、驚くべきことにこの絵が描かれたのは350年も前なのだ。それほど前から付随的な要素に対しての客観的な視点というものが存在したという事実が、めちゃくちゃ興味深い。

自分はそういうメタ的な視点が大好きで、修士論文でも、18世紀の考古学者兼版画家兼建築家だったジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージの版画作品の、モチーフはどうでもいいので使われているだまし絵の構成の変化とかを調べて、それを彼が論じていた建築論に照らし合わせたりした。「何を描いたか」ではなく「それをどう描いたか」「描いたものにどう署名したか、どんなタイトルをつけたか」とかからその人の考えとか当時の社会情勢とかが垣間見えるの、めちゃくちゃ面白くないですか(そういえば昨日行ったソース・スタインバーグ展では「夢見る立方体」っていうタイトルの作品がよかったですね)?
まあ、この本読めてないんだけど。

光と私語

詩集・歌集を「積む」と呼ぶのはもはや正しくないのかもしれない。それはお気に入りの蒸留酒のようにとっておいて、すこしずつすこしずつ味わいながら読んでいくので、もしくは「常に積んでいる」と呼ぶのが正なのかもしれない。

そんなわけでこの歌集もちびちびと味わい進めている。タイトルと装幀が良すぎて、ネットで見かけて気がついたら決済が完了していた。最近自分と同世代の歌人の歌集をときどき買っていて、この吉田恭大さんも自分とひとつ違いの歌人さんである。同世代だからか心にスッと入ってきて、情景がイメージしやすい。

いつまでも語彙のやさしい妹が犬の写真を送ってくれる

吉田恭大『光と私語』

こういう歌集って装幀というか製本自体もめちゃくちゃ良くて、そのへんの文庫本とは「ページをめくる体験」が一線を画している。同じく同世代の歌人、千種創一さんの『砂丘律』『千夜曳獏』も、乱暴に扱ったらそのまま崩れて砂に還っていきそうな製本になっていて、めちゃくちゃ良い。いろんな本を Kindle で買うようになったけど、こういうのが物理本の楽しみのひとつになってる感じはある。

書いてて気づいたけど、この記事で挙げてる本、全部紙で買ってる本だった。 Kindle 本には紙本ほどの積みパワーがないのかもしれない。

パン屋再襲撃

ただの逆張りクソ野郎と思われるかもしれないが、自分は村上春樹をほとんど読んだことがない。厳密に言うと一作だけ読んだことがある。それが『パン屋再襲撃』だ。それを読んだ結果、俺は村上春樹のその他の作品を読まなくなった。

『パン屋再襲撃』は、中学校くらいのときに学校の授業で読まされた。一冊丸ごとではなく短編のパン屋再襲撃、しかもその一部だったように思う。それが初めての村上春樹だった。
そのなかに、今でも覚えているが、「シナイ半島のように大きなーー」といういちフレーズがあった。今でも覚えていると書いたけどもう20年近く前の話なので一字一句覚えているわけではないし、実は記憶が再構成されててそんな一文はなかったとしてもおかしくはない。とにかく、その文を読んだ瞬間に俺はその作者に「こいつは意味のない単語をだらだらと並べてそれっぽく見せてるだけの、読者を馬鹿にしてる作家だ」という烙印を押してしまった。当時の俺は地図を見ていろんな国の首都を覚えるのにハマっていたので、シナイ半島がエジプト大陸とアラビア半島の間にあるというのを知っていたし、地図を眺める俺の視点ではシナイ半島は小さかった。それを「大きな」の比喩として使うことの意味がわからなかった。ただただマイナーな(って言うとよくないけど)半島を使ってなんか文章を知的なように見せてるだけなんだなという気持ちになってしまった。そこから、どれだけ村上春樹が話題になろうとも絶対に読まないという意思を固めてしまった。

ただのこじらせなわけなんだけど、そんなわけで、村上春樹が圧倒的な人気を誇るこの世の中で、そういう強い意思を持ってこの年まで生きてきてしまった。いまはおじさんになったので「まあ読んでみてもいいかもしれない」くらいには軟化してきたのだけど、もう一度あの絶望を味わったらもう立ち直れないかもしれないので慎重になっている。そこでとりあえず『パン屋再襲撃』を買ってみることにした。あらためてこの短編を読んでみて、あのとき整理できなかった憤りを自分の中でうまく落ち着けることができたなら、俺は村上春樹を読み始めることができるかもしれない。
けれど、読んだ結果やっぱりダメでしたとなったらもう取り返しがつかないことになってしまうようにも感じられて、俺はまだこの本を開けないでいる。


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