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闇は悪ではない それを許容することが悪である

天下、みな、美の美ることを知る、これ、悪なるのみ
皆、善の善為ることを知る、斯、不善なる巳。
まこと有無相生うむあいしょうじ、難易相成なんいあいなし、長短、相あらわし、高下こうげ相傾け、音声相和し、前後相したがう。
これを以って聖人は、無為むいことり、不言ふげんの教えを行なう。
万物はつかわれてしかも許せず、生じて有せず、して而もたのまず、功成って而もらず、ただ居らず、これを以って去らしめられず。

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天下すべての人がみな、美を美として認めること、そこからみにくさ(の観念)が出てくる。(同様に)善を善として認めること、そこから不善(の観念)が出てくるのだ。まことに「有と無はたがいに(その対立者から)生まれ、むつかしさとやさしさはたがいに補いあい、長と短は明らかにしあい、高いものとひくいものはたがいに限定しあい、音と声はたがいに調和を保ち、前と後ろはたがいに順序をもつ」のである。
それゆえに、聖人は行動しないことにたより、ことばのない教えをつづける。万物はかれによってはたらかされても、(その労苦を)いとわないし、かれは物を育てても、それに対する権利を要求せず、何か行動しても、それによりかからないし、仕事をしとげても、そのことについての敬意を受けようとはしない。自分のしたことに敬意をうけようとしないからこそ、かれは(到達したところから)追い払われないのである。

『老子』上篇第二章 小川環樹訳

「葦原の瑞穂の国は神ながら言挙げせぬ国」(柿本人麻呂)

我が国が「言挙げしない国」というのは、なるほどその精神性の高さを伺い知ることができますね。形而上学的な世界をこの世でも維持することが美風とされたわけです。
事実「悪」を悪だと指摘することから、「悪」は力を得るわけです。
まるで量子もつれのような世界。
周囲を見渡せば、あれも悪、これも悪、それも悪かもしれないと、そんなことばかりがやけにかまびすしいのには驚かされます。
それが果たして「目覚めた」ことなのか?
それについて書きます。


2025年が地球世紀、銀河世紀のターニングポイントともなると、何というかあらゆる事象に煮詰まってきた感があります。

ここにきて、自然環境から社会現象にいたるまでますます異常な様相を呈している。それに伴い、いわゆる人心の荒廃や狂気の沙汰がいや増してゆく様が表面化して来ていることはみなさまお気づきのとおりです。

私自身はわりあい呑気に構えていまして、というよりも、神経が摩耗してしまったのか、大概のことには動じなくなって久しいのです。
日々のニュースなどは別段驚くには値しないし、むしろ「あからさますぎて芸がないなあ」といった類のものばかりと感ずるのは私ひとりでしょうか?

「どーせ、偏向報道をするなら、もっと婉曲に、狡猾にやってはくれまいか?」

などと、仕舞いにはあちら側の肩入れをするような目線まで湧きだす始末。

それほど報道機関というよりも、プロパガンダのメッセージ性の貧困さにはあきれ返って言葉もない。


正義やモラルを振りかざした平準化の罠

ほんの一例を挙げれば、
昨今のマイノリティだか弱者だかトランスジェンダーだかへの過敏な対応は、自治体のマスコットキャラクターにまで及び、性差うんぬんで腐心しているとか。
やれやれです。

それが大昔の自由・平等・博愛的な、裏に人民の平準化をはらんだスローガンと何ら変わらないことに大衆は気づかない。まして、その先にあるNWOのディストピア社会への布石だなんて知る由もない。

そもそも、やれ差別だ、人権だと騒いでいる側は、床をパンパン叩いて、そこらに散り積もっている埃をまき散らしているに過ぎない。
差別がないというのは、差別に対してではなく両者の違いを認識できて初めて言える。
逆に両者の違いを許容できないという偏向が差別である。
女が男に
闇が光に
悪が善に
見えなくてはならない・・・・・・・・・・という狂気・錯乱。

どこまでも冷めているようですが、その通りで、言う以上に冷めきってしまっている自分がいます。
(だってそうでしょう? どんなにしたり顔できれいごとを言おうが、お茶の間的な正義を振りかざそうが、目の前にいる凶悪犯罪者であるお偉いさんについては一切口を閉ざし、幇助ほうじょさえしている報道機関はもはや犯罪組織と変わらないでしょ? そんな小学生でもわかる茶番をいったい誰に向けて垂れ流しているのでしょうか? どんな方々がそれを「ごもっとも」とばかりに受け入れるのでしょうか?)

そんな次第で、以前にも書きましたが、わたしはほぼ巷間で騒がれているような事象や、いかにも共感を呼びそうなツイートなどにまったく揺さぶられなくなってしまったわけです。

いつかむかしにも同じようなことや、感慨があったなぁ、、。

あれほど情動的に熱いハートを持っていた(?)若い時分の自分が嘘のようです。

それはデジャヴにも似た、
というか、既に経験済みのような
「何も新しくないな」という感慨。

困ったことだ。

しかし、同時に、そんな目で世界を眺めると、明らかに闇側の焦燥感や、破れかぶれで後先構わない初期異常(プライマリーアノマリー)の正体が見え隠れするかのようだ。

明らかに連中は追い詰められているからだ。

しかし、ここまでに至るのに、いったい何万年、何百万年の年月を要したのだろうか?
なんというしぶとさだ。
そして、強靭さだ。
敵ながらある意味感服する。

聞くところによると、この地上の闇(亜量子異常)のおびただしさは、光側ですら想定外の量で、それは自らの重さのせいで、つづら折りのように折りたたまれて地表の物理面に堆積しているという。

こいつはまずい。
単に悪いということにとどまらず、その裏まで悪いという事態。
汚染され切っている。
なぜなのだろうか?

闇側が悪いのではない。
もっと言えば、「悪」が悪いのではない。

というと、何やら禅問答のようですが、闇や悪が発生した淵源は初期異常という偶然性であり、私たちが漠然と「神」と呼んでいる「絶対」とかかわりのないというか、それとは対局の存在である。
それが、自由意志を持ったものが「悪」というわけ。



悪に向かって悪と称賛してどうする?


なんでも闇側が悪いと思っておられる方に、一言申し上げたい。

あなたは、悪魔に向かって、「お前は悪い奴だ」と言いますか?
悪に向かって「お前は悪だ」と言ったところで、それは悪への賛辞か応援歌のようなものでしかない。

わたしが悪魔だったら、多少謙遜して「いや、それほどでも」と答えるに違いない。

なぜなら、悪を振りまくことこそが(彼らの中では)「善」だからだ。
それを心底良かれと思っているのだ。

では何が悪いのかと言えば、それはわれわれ人類が悪いのだ。
では、人類の何が悪いのか?
それは悪を許容してきたという事に尽きる。
そう、悪を許してきたことが人類の最大の罪ともいえる。
なぜ、悪を許容してきたのか?
それは自らの内側の「悪」を斬る勇気がなかったからだ。
だから、外部の「悪」に目をつぶる。
悪に浸潤されてしまった。

そこには、宗教理念という(もちろん闇側が仕立て上げた)狂った(というか歪んだ)判断力があった。
それは猫なで声で近寄ってきては、人を骨抜きにするうえ、とんでもない偽善者に仕立て上げる。
薄気味悪く、べとべととまとわりついてくる。

そこには崇高な理念を笠に着るという連中のお家芸が存在する。
西側でいえば、「隣人愛」「博愛」「無償の愛」・・・
東側でいえば、「万物斉同」「一視同仁」・・・
そこに巧みにもぐりこんだものだ。


重なり合うようにして堆積する悪。
想像するだに満腹ではないか?

それは、Aが悪ならばBこそは善だろう。
Aが偽物ならBこそは真実に違いない。
というレトリックをかぶせて偽装してくる。

それが、大方は見抜けない。
教示を垂れるもの、口寄せするものが、単に善人に思えてしまう。

現代では、残念ながら、ライトワーカーと言われる人々のなかの一定数がそれに当たる。

この世のマトリックス構造に気付き。我こそはそこを脱却したと自認するもの。

常識から何から、ギアをひとたびニュートラルに戻したまでは正しいとして、残念なことにその先でおかしなことを唱え始める。

フラットアースしかり、〇〇教は悪魔教だから危険だとか。
どこかの白人の大統領こそが、救世主だとか。

そこに、もっとも彼らが忌み嫌うはずのカルトが誕生する。
自分たちは実は世界や宇宙の真相を知っていて、哀れ群衆は無知ゆえにそれを知らないのだという選民意識。
わたしが、いわゆるスピリチュアル系が嫌なのはここにある。
いうまでもなく二元論だからだ。

悪の裏側まで悪である。
だからこの世の三次元的な経験値が及ばない。
さながら、目をさましたという夢をエンドレスに見させられているように。
いったいどこで何に目覚めたのか?

あなたにも経験あるかと思いますが、信じ、時には崇拝さえしていた人士が、とてもお話しにもならないような輩であったなどは、むしろ日常茶飯に見られる光景で、彼にどっさり授業料を持っていかれたとすれば、あなたにとって彼は天使の存在かもしれません。
気づきを与えてくれたのですから。



東洋哲学に触れて40余年。すべては同じという価値観で、関心の対象が多岐にわたるため「なんだかよくわからない」人。だから「どこにものアナグラムMonikodo」です。現在、いかなる団体にも所属しない「独立個人」の爺さんです。ユーモアとアイロニーは現実とあの世の虹の架け橋。よろしく。