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自己紹介改め回顧録②〜小学生〜

続いて小学生編である。

物語調で幼児期は書いてみたが、なかなか大変だったので、やり方を変えよう。目次の使い方を覚えたので、項目ごとに書いていこう。

もはや自己紹介ではなく、私の回顧録だ。

こんな感じの経験をした男がこんな感じになったよって流れで今に繋がれば良いかなと思う。

ではいってみよう!!

嘘つき百叩きの刑

やはり私の小学生を振り返る時に、この話は外せない。
「百叩き」とは本当で、ほっぺたを往復ビンタで100回数えながら叩かれるというものである。
私の名前には「誠」と言う文字が入っている。父親にもその字が入っている。私の知る限り父はとても誠実な人だ。母も職場の方々からの信頼も厚いと言っていたし、名は体を表すMAXみたいな人間なんだと思う。
だから私にもそのように育ってほしくて「誠」の文字を入れたのだろう。
ただその親の思いとは裏腹に、私は嘘つき少年になってしまった。どんな嘘をついていたかまでは覚えていないが、うっすらと記憶にあるのは、小学校一年生の時友達の親からお菓子をもらったのに、もらってないと嘘をつい他ことで百叩きをされた。しかも一度だけの記憶ではないので、こんな小さな嘘を頻繁についていたのであろう。今思い返すと、怒られるかもしれないと言う恐怖でその場を取り繕うために嘘をついていたと思う。
この癖は年齢とともに治ったが、咄嗟にピンチを迎えた時には、防衛本能的に笑ってしまうこともあった。嘘をつくのも良くないが、笑うのもどうかしている。
令和の虎というビジネス系エンタメをYouTubeで見た時も、ちょっとした嘘をついていたり、笑って誤魔化す志願者がいて、なんかいつかの自分を見ているようだった。

嘘をつかない、笑って誤魔化さない。

めっちゃシンプルだけど、めっちゃ大事。
信頼無くす。
無くしてきたからわかる。
ピンチを迎えた時に、とにかく言い訳せず謝ることを、肝に銘じ続けたら改善された。

つぎ。

生徒会会長になった

生徒会会長とは生徒の学校代表みたいなもので、私の通った小学校では4年生以上の生徒に賛成権のある選挙で選ばれる。ちゃんと選挙運動期間もあり、給食の時間には各クラスを回って、公約を掲げ「清き一票をお願いします!」と頭を下げ回ったり、校内放送による政見放送も行われた。確か私は”昼休みに全校生徒が交流できる遊びのイベントを定期的に企画して、楽しい学校LIFEを提供する!”的なことを言った覚えがある。さらには選挙当日に全校生徒が体育館に集まって立候補者の最後の演説を聞くと言う会では、スピーチ前の一礼の際、演説マイクの置いてある机にわざと思い切り頭をぶつけて、笑いをかっさらいそのままダントツの得票で会長になった。
この時、推薦人として私のことを聖人君主のように褒め称えた演説を行なってくれた村上浩平君にも23年の時を超え、この場を借りて改めてお礼を言いたい。

実はこの選挙の前の年、小学校5年生の時にも初出馬にて副会長に選ばれている。現職が有利なのは規模が違えど今も昔も一緒のようだ。

さぁ、実際にこの公約を果たすことはできたのか?
記憶が薄れすぎて曖昧だが、高学年で「遊び隊」という徒党を組んで、低学年と一緒に遊びまくると言う企画を何度かやった覚えがあるので、公約は果たしたのだろう。

なんと言うかただの目立ちたがりのひょうきんな小太りでした。

つぎ。

太りすぎてユニフォームが入らずバスケ部をやめる

文字通りのそれ。

私は幼稚園時代から肥満児で、小学校一年生の頃には33kg体重があった。
太りすぎて日本ヘルスケアセンターみたいな名前のところから、「肥満解消教室に行きなさい」という通知までもらった。夏休みの朝、母と二人で施設に行き、私のような可愛い子豚ちゃんたちと一緒に栄養の勉強をしたり、プールで歩行運動をした。もちろんそんな短期間で痩せるわけないので、私は小学生の間、ずっと目立ちたがりのひょうきんな小太りでした。(2回目)

時は平成初期、バッシュ、AIR MAX、Jordan、コビーブライアント、スラムダンク、桜木花道、大黒摩季、DEEN、ZARD、FIELD OF VIEWが流行っていた。ちなみに私はDEENの「このまま君だけを奪い去りたい」が1番好きな曲だった。なんておませな子豚ちゃんなんだ。

話は逸れたが、目立つ!かっこいい!と言えばバスケ一択だったのだ。
小学校4年生から学校の部活に入れるので、それまでは近所の寿荘に住む藤井のお兄ちゃんがバスケットの練習をしてくれていた。

4年生の入部当初、少し他の4年生よりボールを扱うことが上手かったため、比較的早めに練習試合に出してもらえることになった。その練習試合は、近所の小学校を集めて行っていたものなので、目立つにはうってつけの舞台だった。しかも他の4年生が黄色の蛍光ビブスを着ている中、一人だけ
青色のテカテカの生地のユニフォームを着れるのである。

私は興奮した。
興奮を抑えきれず鼻がなった。

気分はもうスラムダンクだ。
「ユニフォーム着てこい」
「はい!」
威勢よく走り出し、肉汁を飛ばしながらコールドスプレーの匂いが立ち込める部室に入りユニフォームを取り出し、袖を通した。


笑い声が聞こえた。


土方先輩だ。

我が小学校のバスケ部、いや、学校内でトップを争うほどのイケメンである。身長はさほど高くないが素早く、ボールのハンドリングがうまい。
気づいたら後ろにいるような隠密機動も得意で、まさに宮城のようなガードだった。

「肉はみ出すぎだろ!!!」

先輩の笑いは止まらない。
笑いが止まらなくなり、いよいよ他校の高学年も集まってきた。

みんな私の姿を見て笑った。
「肉がやばい!」
全員が口を揃えてそう言った。

当時鏡で自分の姿を見ることができなかったので、
あくまで想像だが、紐で縛られたお歳暮のハムみたいになってたんだと思う。

ただただ恥ずかしかった。
急いでユニフォームを脱いで白Tに着替えた。


その後の記憶はない。

本当にすっぽり記憶が飛んでいる



母ちゃんごめんな。
ASICSのバッシュじゃなくて、わがまま言ってNIKEのZOOMなんとかっていうやつ買ってくれたのに。


私は体育館を去り、そしてバスケ部を去った。



兄と同じ野球とドッジボールを始めた

バスケ部を去ったあと、一つ上の兄の影響で野球を始めた。
兄は野球をやりながら友達と一緒にドッジボールチームを組んでいて、野球部がない日はドッジボールの練習をする、とにかく充実しまくりの小学生生活を送っていた。
そんな兄が眩しかった。
兄は痩せていたし、足も早く、色も黒くて彫りも深く端正な顔つきで、友達もたくさんいた。常に集団の中心でウィットに飛んだギャグをかまし、周囲を楽しませていた。鬱陶しかっただろうが私は兄について回った。兄の友達も私を可愛がってくれた。

ところで野球に関しては、持ち前の体のデカさを買われてキャッチャーとして訓練を受けることになった、太ってる割に動きが俊敏で、肩も強かった私は、レギュラーとして野球部のキャプテンを務めるまで成長した。

ドッジボールでは、県で3位になったりと野球よりも成績を残すことができて実際野球よりも楽しかった覚えがある。休みの日にみんなで、少し離れた体育館に自転車で移動して、加藤先輩のお父さんが監督として指導してくれていた。思い返すと、酒飲みながら教えてくれてたな。
よく北斗晶さんに似た奥さんから「飲みながらやるな!!」って言われていたような気がする。顔が赤くなり、下ネタを言い、なんでも麻雀で例える。

自分の父親と違いすぎて、大人ってこんな人もいるんだ、とカルチャーショックを受けた記憶がある。

小学校のスポーツといえばこんな感じで、兄と一緒に色々とやっていたので、交友関係も広がったし、どちらも自分に合っていたので、自分の居場所が見つけられた安心感が大きかった。

はい次。

クリス・ムーンさんに会った

クリス・ムーンさんとは、地雷根絶を唱える社会活動家の方で、マラソン選手でもある。自身のNGOの地雷撤去活動の際に、地雷の爆破に巻き込まれ、右手右足を失う大きなダメージを受けたにも関わらず、長野冬季五輪の聖火ランナーも務めていた。その開会式をリアルタイムに学活の授業中見ていた私は、とても大きな勇気をもらったことを覚えている。


その時から、何か社会的意義のある活動をしている人にはすごく興味を持っていたと思う。現在ダンススクールをやっていることも、ダンスを通して自分らしく生きることの喜びを広めたい、さらに、ダンスに限らず、音楽やエンターテイメントの力を通して、関わる人たち、がそれぞれの幸せの中で生きていける世界を広げたい、という思いでやっている。


その開会式を見た後、なんとなくクリスさんの存在がずっと気になって地雷のことや戦争のことを図書館で調べていた。冬が終わり、春を迎えたその年の5月、クリスさんが来日され、子どもたちと一緒にランニングをするというチャリティイベントが私の地元で行われる情報が耳に入った。すぐにこの情報を母に伝え、参加の許可をもらった。クリスさんに影響を受けた私はどうにかこの思いをクリスさんに伝えたいと思い、日本語で手紙を書き母が英語に直してくれた。母も英語をNativeに扱える人ではないので、辞書とかを引っ張り出しながら、夜な夜な英訳してくれていたことを思い出す。

さぁイベント当日だ。なぜか友達の大輔と兄の三人で行った。二人がこのイベントに興味あったかは知らない。目の前に登場したクリスさんは片腕がなく、義足で立っていた。そのデカさと澄んだ青い瞳は優しくも力強く、何もかも見透かしてしまうような眼差しをしていた。私はとにかく、一緒に走って近づきたいとしか思っていなかった。スポンサー企業の偉い人の話や、どっかの団体の講話など一切聞いていない。

いよいよ一緒に走る時間になった。

公園の芝生の上に設置されたコーンとロープで作られた一周100メートル程度の簡易的なトラックをクリスさんが左回り、子どもたちが右回りでハイタッチしながら走るというものだった。

一瞬しか近づけないことにとても落胆したが、ハイタッチの時は全力で「イェーイ!!!」と声を出した。

その後イベントが終わり、秘書みたいな人と、クリスさんが控えテントのようなところに居た。

今しかない。

私は手紙を持って近づいた。
あまりの大きさと存在感に圧倒され、ゴリゴリの日本語で挨拶をすませると、秘書っぽい人に手紙をさっと渡して逃げるようにその場から離れてしまった。

その後、どれくらい時が経ったか忘れたが、ご本人から手紙の返事が返ってきた。こんな肝心なこと忘れるなと思うが、内容は覚えていない。

ただ、Chris Moonと筆記体で書かれたサインのかっこよさと、異国の人から手紙をもらった高揚感だけは残っている。

この経験あたりから、どんな人とも隔てなく友達になろうと考えて生活するマインドに切り替わった気がする。

さぁ次。

飼っていた文鳥が逃げた

親の仕事の都合上、自宅でのペットの飼育は禁止されていたが、小鳥の大きさであればいいだろうとお許しが出た。それは小学校3年生の頃だった。ご存知の通り(?)私は鳥が好きで、喋るインコよりも手に乗る文鳥の方が奥ゆかしいと常々思っており、飼うのであれば文鳥の雛を、と心に決めていた。手乗りの文鳥になるには、雛からの飼育が必要だったため、東バイパス沿いのミスターマックス近くのペットショップに行った。文鳥ならば灰色と黒だと思っていたが、成長したら真っ白になると店員に言われた文鳥の方がレアっぽい感じがしたので、白の文鳥を購入し、名前ぶんちゃんにした。その日から私は親鳥になった。低音で温められるプレート状のヒーターの上に藁編みのカゴを載せ、火傷しないように入念に温度管理を行った。決められた時間に、鳥用の粟をお湯でふやかし軽くすりつぶし、親鳥の鳴き声を真似ながらスポイトで餌やりをした。フンをしたら、すぐに敷いてあるティッシュペーパーを替え、快適に生活できるように配慮した。自分が育てる責任感と、成長した後の様子を早く見たいという期待感のみに突き動かされ、日々の飼育に励んだ。何ヶ月経っただろうか、ぶんちゃんは立派なふさふさの白い毛が生え揃い、スリムで端正な顔つきをした文鳥に育った。もちろん、手乗りもお手のものである、お腹を人差し指で二、三回撫でてあげれば、そのまま人差し指にぴょんと飛び乗る賢さである。私は文鳥をちぎれるほど愛でた。

そんなかわいがっていたにも関わらず、ある日弟の一人がぶんちゃんをポケットTシャツの胸ポケットに入れて遊んでいるではないか。

その時4〜5歳だった弟は、遊んであげている感覚だったのだろうが、文鳥のか細い足が変な方向に曲がったようで、骨折をしてしまった。

私は怒り狂った。

この瞬間から弟のことが世界一に憎くなり、2年は恨み続けた。
病院で手当をしてもらったが、そもそも細い文鳥の足は骨折が治ったとしても元のようにならず伸びきったままになってしまうそうだ。

ぶんちゃんは片足での生活を余儀なくされた。
そこからというものぶんちゃんとうまくコミュニケーションが取れなくなり、すれ違いの毎日を過ごすようになった。

そして別れは突然やってきた。

いつものように外でカゴ掃除をしようと、ぶんちゃんをカゴに入れたまま外に出た。粟の食べかすをきれいにしようと、扉を開けた瞬間、待ってましたと言わんばかりの勢いで外へ飛び出し、か弱い声で泣き続けながら、青い空に向かって飛んでいった。

私は泣き叫びながら追いかけた。
しかし相手はいくら飼われてたといえ鳥だ。
あっという間に見えなくなってしまった。

「白いぶんちょうを探しています」

そんな張り紙を作って近所のスーパーに貼ってもらった。

何日待っても見つからなかった。

私は探すのを諦めた。


自分で書いてて思うがこのままの勢いでいくと恐ろしく長くなってしまう。
とにかく私は百叩きの刑を喰らわまいと頑張るも、友人の住むマンションのエントランスのガラスを割ったり、女の子を殴った男子の近くにいただけで私が殴ったことになって謝罪文を書かされたりした。
また、大便を漏らしたり、50円カツアゲされたり、毎朝7時前に登校し教頭先生よりも早く学校に来たり、普通の小学校生活を送った。

クリスさんとの出会いと、生徒会長になったことは小学校の思い出の中でもかなり上位に入る。

あとは、小学校6年生の時に生徒会会長ながらも、いつも遊んでた3人組の残り二人からハブられたり、女の子からは黒板消しをしている時にズボンを下げられたり、ズボンもろともパンツごと下ろして下半身をあらわにさせようとする猛者もいたり、適度に嫌がらせも受けながら学校生活を送った。

好きな女の子もいたけれど、基本太ってひょうきんなキャラは小学校ではモテないので、女子たちからはOUT OF 眼中だった。

こうやって細かく振り返ると自分の今やっていることや、現在の考えに通じることが見つかって面白いな。次は中学生編だが、このシリーズは自己紹介的回顧録は一旦休みにして、今のことを書き進めていくことにしよう。

一つのことを継続できないのは相変わらずか。

ではまた次の記事で。





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