中篇「詩人の恥」

電線に吊られた鴉がゲゲゲゲイと啼いている
中空を無数の魂が泡となり漂い、弾けて、消える、のを俺はじっと見ていた
まるで自分には関係のない人達
顔も名前も知らない群集の中の誰かが
無造作に死んでいくのを

 けたたましくアラームが鳴ってカーテンの隙間から漏れ出た光がフローリングの床を舐めていく、逆立つ毛を舌で整える猫の背中を掠め壁に掛かったリキテンスタインの色彩をぼやけさせる、テーブルの上には壊れたリモコン、山積みになったビールの空き缶、女が残していったスペアキー、爽やかなはずの目覚めの気分が途端に曖昧になっていく、猫が大きなあくびをして小刻みに尻尾を振る、俺はベッドから起き上がり時間が一秒ずつ確実に過ぎるのを認識しながら部屋の隅々を観察する、女の痕跡はすっかり消え去ってしまっていた、青いガラスの花瓶、年代物のレコードプレーヤー、欠けたコーヒーカップ、長く艶やかな髪、貝殻で装飾された写真立ての中身は抜き取られ、猫の首輪も外されていた、けだるい喪失感はあったが、だからといって何かが決定的に欠落したようには思えなかった、全ての物事はあなたの表面には存在していないってことよ、女は最後にそう言っていた、美しい顔をこれでもかと歪ませて、失望と憎悪と憐憫をごちゃ混ぜにした甲高い声で、遠い国の戦争とか、所縁のない土地の天災とか、そういったものと同じように考えてるのよ、胸を痛めているように見せかけて本当は無関心なの、自分のことも他人のことも今まさにこの場所で起こっていることでさえあなたとは別の次元にあって、交わることもないし触れることもしないわ、たとえ私がここで手首を切ってもあなたは何もしないでしょ、ただ見てるだけ、絶対そうよ、そうに決まってるわ、そして実際に女はカッターナイフで手首を切って、滴る血の一粒一粒を俺は黙って見ていた、カーペットに染み入る赤い液体が意味するものを俺は知らずにいたし、女が少しだけ安堵したような表情を浮かべた理由もわからなかった、冷たい空気が部屋の中に滞留していて俺は二度くしゃみをする、貼り付いた体温を求めてシーツの上で丸くなっていた猫が俺を凝視している。
 カーペットの赤黒いシミが昨夜の光景をフラッシュバックさせ居心地が悪い、だが俺は既に女の名前も思い出せずにいたし、ピアスの穴の数や、歯並びや、匂いや、乳房の感触といったものは脳から急速に消去されつつあって、数日もすればこの赤黒いシミの正体すら忘れてしまうのだ、例えば俺は母親から送られてきた荷物の中にワインの瓶を見つける、ラベルに書かれたフランス語の発音もわからず、安い缶ビールしか飲まない俺には分不相応な高級感がある、母親は電話で、お父さんがどっかから貰ってきたんやけど、肝臓悪なってから飲まれへんやろ、あの人、しょうがないから仏壇のとこにずっと置いてたんやけど、ほんなら文句言うのよ、なんや、当てつけか、おれが飲まれへんの知っててわざとこんな仕打ちすんのんか、って、ほな貰ってけえへんかったらええのになあ、その日の気分で思考も変わるし、自分の都合のええように記憶も改竄するし、最終的には全部お母さんのせいにするんよ、あの人は、結婚してからずっとそう、俺は無言で母親の愚痴を聞きながら、コルクを抜くために工具箱からドライバーを取り出す、無理やり突き刺して回してみるが、ぼろぼろとコルクが砕けて床に散乱していくだけだ、それを餌と見間違えた猫が鼻先をむずむずとさせている、結局コルクは半分が割れ、残りの半分は瓶の中に沈んでいく、俺はキッチンでワインに合うグラスを探すが、もちろんそんなものが見つかるはずもなく、母親が陶芸教室で作ったという奇抜な湯呑みを取り出して、コルクの浮いたワインを注ぐ、苦味が舌で弾けるだけで美味いのか不味いのかよくわからないまま、ちびちびと喉の奥に流し込んでいく、母親はまだ電話口で嘆いている、目を離した隙に猫が湯呑みを倒してカーペットに赤い液体が滴り落ちていく、意味のない象形文字を模る様を呆然と見ている、そういう風に自動的に記憶が置き換わる、女はそれを逃避だと言った、何をそんなに怯えているの? 醜いものや汚れたものだけがこの世界に溢れているわけじゃないのよ、美しいものだって無数に溶け合ったエーテルの海の中を私達は泳いでいるの、それが生きるってことなのよ。

 玄関を出るとこのあたりでは珍しく雪が舞っていた、意地の悪い冬の気まぐれ、電線に止まった鴉が世界を睨みつけている、ブーツがいつもより硬質な音を立てる、青白い息を吐きながら俺は街を歩いていく、建設中の高層ビルから立ち昇る砂埃、ティッシュ配りの若者の舌打ち、捨てられたコンビニ弁当の容器、中華料理屋の油のにおい、皺だらけのホームレスが段ボールを抱えたまま眠っていて、その横を黄色い帽子の子供たちが風に揺れるビニール袋を追いかけていく、郵便局の壁に描かれた卑猥な落書き、信号の規則的な明滅、公園のベンチに放置された犬の糞、地下鉄の唸り、目障りなパチンコ屋の電飾、吸い殻、軍手、ぶち撒けられたゲロの跡、読み方のわからないバス停の時刻表、スーパーの自動ドアが開くたびに軽快なメロディーが鳴り、いらっしゃいませー、に重なって不思議な和音が生まれる、俺はこの雑多な都市の様相が好きだった、自分とは全く関係を持たない人々や事象がごちゃごちゃと混ざり合う中を俺はすり抜けていく。
 細くうねった路地に足を踏み入れ、ありきたりな名前の表札が並ぶ家々を過ぎていくと、古びた喫茶店があった、いかにもなレンガ調の壁、枯れたゼラニウムの鉢、日焼けした窓ガラスからは中の様子は窺えないが、微かに聴こえる音楽と僅かに匂うコーヒーの香りから営業しているらしいことはわかる、少しだけ躊躇しながらも錆びた鉄製の扉をゆっくり開ける、リンとドアベルが一度だけ鳴って、カウンターの奥で読書をしていた老主人が目配せをする、薄暗い店内に響くカウント・ベイシー、俺はウレタンのはみ出たアンティークなソファに腰掛け深く息をつく、頼んだ覚えのないコーヒーがいつの間にかテーブルの上に置かれていて、気配というものがまるで感じ取れないさっきの老主人が傍に立っていた、コスタリカです、と謎の言葉を残し、またカウンターの奥に潜っていく、俺は小瓶に入ったミルクで真っ黒な水面にマーブルを描きながら、約束の時間までをぼんやりと過ごした、今日俺が会う予定の男は関西の田舎の方では有名なアル中の詩人らしい、これまで四冊の詩集を上梓し、そのうちの一冊を俺も読んだことがあるが、依存症らしいイメージと神経質な文体には好感が持てた、何度となく更生施設に入所しては、アル中ってのは病気ではなく生き様なのだと宣うばかりで、酒から距離を置くつもりはないようだ、というのは誰に聞いた話だったか。
 いやあ、すまんねえ、朗らかな表情でありながら目の下にはどす黒い隈を蓄えた男が闖入してきたのは、それから一時間も後だった、俺はコーヒーを三杯おかわりして、さらにはトーストとナポリタンを注文して、ハービー・ハンコックとセロニアス・モンクをリクエストして、さすがに飽き飽きとしながら老主人の顔のホクロの数をカウントし始めたタイミングで、サヤカちゃんから聞いてるとは思うんやけどね、突然で申し訳ないんやけどね、ああ、遅れたことも謝らなアカンね、ホンマにごめんやけどね、君の書いたモン読ませてもろたんやけどね、面白いと思ってね、興味持ってね、ちょっと協力してもらわれへんかなと考えたんやけどね、どうかなと、男はナカムラという名前で、肩までの長い髪を執拗に掻き上げている、ペラペラの手作りの名刺がテーブルに置かれたグラスの水滴に溺れている、吹き出物だらけの赤茶けた顔に薄い眉、早口なせいで口角に唾が溜まり何度もおしぼりを顎に当てている、おっちゃん、ウイスキーある? なんでもええねんけどね、ボトルのまんまでちょうだい、うん、ほんでね、サヤカちゃんから聞いてるやんね? 聞いてない? いや、僕ね、今度ね、こっちでイベント打つんやけどね、知り合いのミュージシャンとか舞踊家とか映像作家に声を掛けてね、もちろん詩人も呼ぶんやけどね、朗読会というか、最近ではポエトリー・リーディングって言うらしいんやけどね、そこに君も出てもらわれへんかなと、どうかなと、計画してるわけなんやけどね、ホンマに聞いてない? サヤカちゃんという名前に聞き覚えはなく、そもそもなぜ俺はこの男に会うことになったのかという経緯が思い出せない、ナカムラはウイスキーをぐいぐい飲みながら、警戒しているのか単にそういう癖なのか、ボトルを傾けるときでさえ俺から視線を外さずに、言うべきことは何であろうが全て言い切ろうという姿勢で一気にまくし立てた、まあ、聞いてないなら聞いてないで別にええねんけどね、今こうして伝えてるわけやし、そこはあんまり重要なことではないねんけどね、ほんなら僕のこともちゃんと聞いてないんちゃうの? 僕がどういう人物かもわからんとここに来て、一時間以上も待ちぼうけして、一方的に喋るのを黙って聞いて、君はお人好しなんかな、それともちょっと変人なんかな、いや悪い意味じゃないんやけどね、詩を書いてるような輩は大なり小なり変わっとるもんやからね、褒め言葉でもあるんやけどね、おっちゃん、ごめんやけど、もう一本ある? お酒やったら何でもええんやけどね、アルコールやったらガソリンでも飲めるのよ僕は、って冗談やけどね。
 結局ナカムラは俺が一言も発さないのを良いことに、生い立ちから性癖まで一通りの身の上話をしながら計四本のボトルを飲み干し、企画しているというイベントの件には言及することなく、もちろん俺の返答も聞かず、流れるように店を出て行った、取り残された俺は老主人に最後のコーヒーを注文し、いや、俺もウイスキーを一杯貰おうと考え直した時にはテーブルにしっかりとロックグラスが置かれていた、茶色い液体に反射する自分の顔が妙に美しく見える、酒に取り憑かれる男の気持ちがなんとなくわかる気がした、ナカムラは溢れ出す憂鬱で頭がおかしくなりそうな自分自身をアルコールで麻痺させているのだろう、あるいは彼が詩人という職業を選んだのも同様の動機なのかも知れない、俺は店を出て冷たい突風に街が揺れる光景を見た、潰れた空き缶が地面を練り歩き、住宅の庭先で金柑の実がざわざわと鳴る、タバコを咥えてみたが、一向に発火しようとしないライターを投げ捨てて、俺はただ立ち尽くしていた。

 繰り返す朝、連続する点、遠雷と猫のあくびのコントラスト、昨日の雪は雨に変わって窓を打つ粒が幾何学的な模様を描く、カーペットに謎の赤黒いシミがあって不気味だが、どうせ酔っ払ってワインでも零したのだろう、改めてナカムラから電話があって、とりあえずどういう感じか把握しといてもらってから返事が欲しいんやけどね、知り合いが主催するイベントが今日の午後からあるんやけどね、僕も顔出すし、ちょっと観に来えへんかと思ったんやけどね、都合悪かったら別にいいねんけどね、どうかなと、俺は行くとも行かないとも返事をしないまま通話終了のボタンを押す、実際のところ俺は詩の朗読――ポエトリー・リーディングなんてものにはまるで興味がなかったし、人前で自らの詩を披露するなんて正気の沙汰とは思えなかった、俺にとって詩とは自傷であり、自慰であり、自己の投影でもあった、つまり大勢の観客の前で手首を切り、オナニーをしながら、告解し、懺悔し、誰かを呪い、愛を叫ぶようなもので、そんな醜態を晒してまで安心を得ようとするほど俺は孤独ではなかった、そもそも自分が詩人であるという認識すらなかった、俺は親の仕送りと週三回のアルバイトをしながら日々を漫然と過ごす一介のフリーターでしかなく、たまに頭の中に溢れる言葉の羅列をノートに書き記して、精神を正常に保つ作業が必要なだけだった、それはある種のオカルト的な儀式でしかなく、文学性や芸術性からは遠く離れたものだと俺は考える、承認されるためのメッセージでもないし、どちらかというと機械的な、そう、リモコンを操作するとテレビが映るような、俺だけのシステム、なのではあるが、手元のリモコンは壊れていてテレビは闇に埋もれたままだ。
 俺が詩を書き始めたの十六歳の暑い夏のことだ、間もなく夏休みに入るという時期に転校してきたウエハラという男のことを思い出す、端整な顔立ちに細いフレームの眼鏡をかけ、東京訛りのハイセンスな喋り方がたちまち女子生徒たちの心を掴んだ、お陰で田舎の芋臭い男子生徒たちの嫉妬の対象となり、イジメに発展するほどではないが、少なからずクラスで浮いた存在になっていった、ウエハラはいつも教室の後ろの席で難しそうな文庫本を読んでいて、近寄りがたい雰囲気もあったのだろう、そういう俺もわざわざ彼と交流するほどの糸口が見つからず、一言も会話を交わさないまま夏休みを迎えた、その夏は世界中の熱気を寄せ集めたような猛暑で、部活やアルバイトや夏期講習や不純異性交遊といった学生生活の充実した予定が皆無の俺は、エアコンの効いたリビングでテレビを観るだけの毎日を過ごすはずだった、しかし神様は堕落しようとする少年に相応の罰を与えようと、我が家のエアコンを壊すという暴挙に出たのである、俺は涼を求めて街を探索しなければならなかった、一日目はスーパーの食品売場を練り歩き、二日目はファミレスで一杯のドリンクを頼りに長時間の籠城を決め込んだ、三日目にウエハラに出会わなければ俺は毎日ふらふらと彷徨っていたことだろう、ウエハラは白い小さな犬を抱きかかえて駅前のパン屋の庇の下で絶望感を漂わせていた、男の俺でも疚しい欲望を感じるほど、その表情には美しさと儚さを蓄えていた、眼鏡のレンズが乱反射して犬の額を焦がしている、俺はこの機会に声を掛けるべきかどうか悩みながら、離れた場所から陽炎越しにウエハラを見ていた、どれほどそうやって陶然と佇んでいたのかわからないが、首筋の汗が鎖骨を伝ってTシャツの色を変える程度には時間が過ぎていたようで、頭が朦朧とし始め、視界が一回転する感覚を味わったところで、顔を上げたウエハラと目が合った、俺はぎこちなく片手を上げ、彼はぺこりと会釈をして、確か同じクラスの、えーと、まだ全員の名前を覚えていなくって、すみません、こうしてお話しするのも初めてですよね、今からお出掛けですか? 殊更に他人行儀な振る舞いが彼との距離感を表していて、多少の後悔と、同じくらいの好奇心が芽生えた、ウエハラは俺に質問しているにも関わらず、犬の腹にできた瘤を撫でるだけで決して俺の方を見ない、面倒臭そうでもあるし、はにかんでいるようでもある、図書館に行くんですが一緒にどうですか?
 俺はウエハラの自転車の荷台に乗り、緩い坂道を下る時には彼の肩をぎゅっと掴む、細く、脆く、冷たい触感に危うさを感じる、近道なのか遠回りなのかわからないが、前カゴに入れた犬の鳴き声に合わせてウエハラはハンドルを切る、シャッターで塞がれた商店ばかりのアーケードを抜け、同じ踏切を二度わたり、街路樹が青々と茂る一本道を巡回するバスの後ろを追いかけた、俺が生まれた頃に住民の要望を受けて新設された図書館は期待外れなほどに閑散としていて、当時から蔵書は一切変わっていないという噂があった、夏休みの間は毎日ここに来ることにしているんです、人気もないし、涼しいし、犬を連れて入っても咎められないですしね、なかなか快適なんですよ、僕の好きな本もたくさんあって、例えば、と言ってウエハラが棚から取り出した黴臭い本は外国の古い詩集で、ぱらぱらとページをめくって読んではみたが、堅苦しい翻訳に頭がついていかなかった、君はきっと馬鹿げていると思うでしょうけれど、僕は自分をランボオの生まれ変わりだと信じているんです、ああ、ベトナム帰りの傭兵のことじゃないですよ、早熟の天才と呼ばれたフランスの詩人のことです、その証拠に僕はあの犬に「地獄の季節」と名付けました、家族は「チロ」って呼んでますけどね、凡庸でセンスの欠片もない名前です、僕が試しにそっちの名前で呼んでも反応しないですから、やっぱり「地獄の季節」なんだと思います、僕は詩人の生まれ変わりだから、当然のように詩を書きます、こんな話をするなんて不思議ですね、誰にも言わないようにしていたのに、あなたなら聞いてくれそうな気がしてしまったんです、一度だけ親しい友人にそのことを告白したら、これでもかと侮辱された苦い思い出があります、ノートに書いた自作の詩をみんなの前で面白可笑しく朗読されました、気持ち悪いと罵られました、僕はその時になって初めて、詩を書くということの恥を知ったんです、あなたはどう思いますか? 詩人の僕を軽蔑しますか? 俺は何も言わなかった、「地獄の季節」が本棚の陰で小便をしている。
 それから俺は毎日図書館に通った、必ずウエハラも来ていた、簡単な挨拶をするくらいで、それぞれが別々のことをしていた、ウエハラは大抵の場合、窓際の椅子に座って小難しい本を積み重ね、一冊一冊を丁寧に読み込んでいた、時折天井をじっと見上げて、そのまま一時間ほど微動だにせず、誰も解き明かしたことのない世界の謎について考えている様子だった、また、何かを思い付いて、ひたすらノートにペンを走らせることもあった、おそらく詩を書いているのだろう、机の上に眼鏡を置き、肘をついて瞑想する姿は、印象派絵画の美しさを具現化していた、俺はというと、昼寝をするか、「地獄の季節」の腹の瘤を撫でるか、たまに思い立って棚に並べられた本の中から暇潰しになりそうなものを取り出し、ウエハラの真似をして考えに耽ることもあった、だが世界の謎と対峙するための有意義なアイデアは何一つ思い浮かばなかった、夏休みも終盤になって、とうに自宅のエアコンは新しいものに取り換えられていたが、俺はなんとなく図書館に通い続けていた、相変わらずウエハラとは軽く世間話をする程度で、例えば彼はどこに住んでいるのか、どんな音楽を好むのか、転校してきた理由や、童貞なのか体験済みなのか、そういった一歩踏み込んだ話題にまで発展することはなかった、興味がないわけではなかったが、友人関係において必須の情報共有であるとも思わなかった、その日は珍しく、いつもの窓際ではなく今にも電球が切れそうな蛍光灯の下、つまりは俺の定位置にウエハラがいた、来週からちょっと来られなくなるかもしれなくて、せっかくの縁ですし、是非あなたに僕の詩を読んでもらえないかなと思ったんです、そして率直な感想をお願いします、意味がわからないと言うならそれで良いし、何か少しでもあなたの心に響くものがあるなら教えてください、気持ち悪いと思えば遠慮なく批判してくれて構いません、あなたがそう感じるなら僕は受け入れなくちゃならない、「地獄の季節」がこんなにも誰かに懐くなんて初めてなんです、だから僕はあなたを信用しているんです、渡されたノートにはびっしりと文字が書き込まれていて、俺は戸惑いながらもページを捲っていった、

生きてるよ
息してるよ
絶望のイルカが泳ぐ
僕のイズムの海で

死んでるよ
沈んでるよ
欠乏のポルカを踊る
僕のリズムの庭で

この世は回転する棺
次々と殺される仔羊
つぎはぎの魂の行き場は
沈殿するゼラチンの底

ウエハラが何を表現したかったのかは俺には到底わからなかったが、夏休みの最後に彼が自殺した理由がこの詩に隠されているような気もする、なぜかウエハラのノートは俺の手元にまだ残っていて、それらの複雑な運命が俺を詩に縛り付けているのかもしれなかった、ウエハラの遺志を継いで、というような三流の青春映画で描かれる使命感などではなくて、もっと原初的な、言わば呪いのようなものだった、俺はウエハラがいなくなった後も図書館に足繁く通うようになり、ランボオの著作を片っ端から読んでいったし、自分も詩を書く羽目になった、それが詩と呼べるほどの確かな輪郭を持っているとは未だに思えなかったが、詩を書くということの恥は知っていた、つもりだ。

 結局俺はウエハラのことを思い出しているうちに、ナカムラの知人が主催するというイベントを観覧するために、わざわざ電車を乗り継いで、知らない街の知らない路地に足を踏み入れていた、会場は一階がギャラリーカフェになっており、狭い階段を上がるとこじんまりとした空間がある、奥の壁にスクリーンが垂れ下がり、その前に一本のスタンドマイク、両脇にフェンダーのパワースピーカー、天井には大小のスポットライトとミラーボール、壁はコンクリート打ちっ放しで、多種多様なフライヤーが貼られている、ご出演の方ですか? ご観覧の方ですか? 「受付」と書かれたネームプレートを平たい胸に留めているショートボブの女が、不器用に作り笑いを浮かべて首を左右に揺さぶっている、不健康な黄色い歯茎は別として、しっかり化粧をすればそれなりの容貌になる可能性を秘めていそうだが、長く伸びた爪の黒さから察するに、そういうものとは無縁の女なのだろう、開演時刻よりかなり早めに着いてしまったようで、何人かのスタッフらしき人々がパイプ椅子を無作為に並べている最中だった、俺がナカムラの名前を告げると女は急に固い表情になって、とりあえず一階でお待ちください、まだ準備もありますし、オカザキさんもまだ来てなくて、私もよくわからなくて、その、本当によくわからないんです、昨日突然オカザキさんから電話があって、おまえは受付してろって、私そういうのわからないし無理だって言おうとしたんですけど、したんですけどね、よくわからなくって、俺は仕方なく一階に下りていって、カフェ・カウンターでハイネケンを二本貰って、少しずつ喉を潤していった、既に来たことを後悔しつつあったが、今さら帰るのも億劫な気がして、なんとかそのジレンマを酒で誤魔化すしかなかった、ナカムラは細長い顔の若い男と一緒に談笑しながらやって来て、俺に気付くや否や笑い声を消し、やあやあ、よう来てくれたね、来てくれへんと思ってたけどね、この人が今日のイベントの主催者のオカザキ君ゆうてね、男前やろ? 僕もこういう顔やったら人生もうちょっと楽しかったんちゃうかと、アル中にもならんかったんちゃうかと、思うけどね、言うてもしゃあないけどね、俺は一応頭を下げてみたが、オカザキという男は数回まばたきをしただけで、ありとあらゆるものを拒絶して生きてきたことが推察できるほど、俺に対しても無関心を装っていた、太い眉尻と顎の無精髭、右耳だけに連ねたピアス、齢は俺とさほど変わらないと思うが、ベテランの傭兵だと紹介されても納得のいく体躯が極端な威圧感を放っていた、ナカムラの話によると、オカザキは月二回のペースでポエトリー・リーディングのイベントを主催する若手詩人の先鋭で、詩人であるという自覚すらない俺からするとカリスマ的存在だ、と思われたいがために横柄な態度を取って他人を圧迫するタイプの器の小さい男なのだろう、ここだけの話やけどね、君が女の子やったら誘えへんよ、彼が精力的に活動してるのは評価してるし、あの顔やからファンも多いみたいやけどね、実力は伴ってへんからね、あの雰囲気だけよ、中身はスカスカ、でも詩を書いてるような夢見がちで世間知らずの女の子はそんなん関係あらへんからね、ちょっと口説かれただけですぐオマンコ差し出すからね、オカザキ君も見境ないから、どんな女でも唾つけよるからね、ある意味ではバランス取れてるんかもしらんけどね、ちょっと羨ましいなんて思ったりもしたり、しなかったり、いや、羨ましいけどね、オカザキはカウンターの隅でホットミルクを飲んでいる。
 再び二階に上がると、いつのまにか二十席ほどの椅子は埋まっていて、俺とナカムラは壁沿いの角に背中を預けて開演を待った、オカザキは「受付」の女の耳元で何かを囁いている、女は頬を紅潮させながら何度も小刻みに頷いているだけだった、観客はそのほとんどが女で、オカザキの為に用意された椅子も四つん這いになった女の手足のような形をしていた、人熱と強すぎるエアコンの温風によって蒸し暑さが広がり、俺はコートを脱いで女の形のトルソーに引っ掛ける、照明が落とされ、窓には暗幕が張られ、観客それぞれが手に持ったキャンドルに火が灯される、曖昧な輪郭の女たちの顔が浮かび上がり、まるで新興宗教のミサを彷彿とさせる演出に俺は身震いしてしまった、エリック・サティに女の声をミックスした不協和音の旋律がスピーカーから漏れ聞こえる、突然女たちが裸になって馬の頭蓋骨を叩きながら踊り狂う祭が始まっても俺は驚かなかっただろう、中央に置かれた一本のスタンドマイクの前でオカザキが両手を広げ、みなさん、よくお越しくださいました、またお会いできて至極光栄でございます、後ろにナカムラ先生もいらっしゃっております、ありがとうございます、先生とは若い頃から親しくさせてもらっています、本当に素晴らしい方です、皆さんもご存知かとは思いますが、先生の作品には私には到底思いつかないような情熱的な比喩と優美な描写があり、老若男女すべてが共感し得る普遍的なテーマが秘められています、先生を尊敬するあまり私はこうして詩の世界に飛び込んだわけです、さて、今日の出演は三人ですが、いつものようにオープンマイクもあります、奮ってご参加ください、それでは始めたいと思います、オカザキは予想通り大仰な喋り方だが、高いキーの声と心を伴わない上辺だけの言葉のせいで全く内容が伝わってこない、次に登場したのは黒い眼帯をした金髪の女で、花畑に舞う妖精についてのメルヘンな詩を朗読し、代わって太った中年のサラリーマン風の男が演劇的な口調で社会を風刺する内容の長い詩を詠じた、当然といえば当然のことだが、マイクの前の詩人のパフォーマンスを一言も聴き漏らさないように観客はひたすら静寂を保っていた、各々が目を閉じ、作品世界に自らも入り込み恍惚な表情を浮かべる者もいた、咳払いもタブーとされる雰囲気の中でナカムラだけはお構いなしにゲップを繰り返している、俺はこの状況が異常なものであることを肌で感じていた、詩を読みたい者が、詩を聴きたい者に、詩を届ける、というのは真っ当なことなのかもしれない、俺がとやかく言う資格もないし、理由もない、だがこのどうしようもない気持ち悪さ、胃から込み上がってくる酸っぱい感情の正体は何だろう、最後の出番はオカザキだ、耳鳴りが止まらない、俺には何が何だかわからない、会場は一層静まり返り、もはや自分の激しい鼓動の音しか聞こえない、オカザキは大袈裟な身振りで口をパクパクとさせているようにしか見えず、それは鰓呼吸を知らないナマズだ、死を目前に控えた今際のナマズだ、ぬるぬるとしていて、実体のない、グロテスクな、ナマズ。
 一通りオカザキのパフォーマンスが終わると、観客たちはキャンドルの火を吹き消し、一斉に照明が点灯する、無理やり現実に引き戻される感覚、けたたましく鳴るアラームで叩き起こされる朝は、必ず昨夜の忌まわしい出来事を引きずるものだ、ナカムラは腕組みをしたまま難しい顔で、な? ひどいもんやろ? あれで詩人を名乗ってんのも失礼な話やし、僕を引き合いに出すとこも卑怯やし、何よりそれでモテてるゆうのが一番腹立つけどね、とはいえオカザキ君が現代のリーディング・シーンを引っ張ってるとこもあって、一概に否定もでけへんけどね、クソみたいなもんでも、ないよりはマシっちゅうことやね、あくまで悪い例やと思といてくれたらええよ、ほんまに君に見てもらいたいのはこれからやから、この後オープンマイクゆうてね、出演者やなくても誰でも好きにマイク使ってパフォーマンスできる時間が設けられとるんやけどね、観客も真剣に聞くわけやないし、やる方も自由なことできるし、本来のポエトリー・リーディングゆうのはそういうことやと僕は思うんやけどね、とにかくもうちょっと我慢して見といてくれたら面白いことになるから、まだ帰らんといてね、オカザキの朗読が終わると数人が席を立ち、信者たちがこそこそと話す声、雑多な音が一つのノイズとなっていき、もはや誰も詩に興味のない、正常な世界に戻りつつあった、まず手を挙げたのは「受付」だった、マチコと申します、よろしくお願いします、オカザキさんにやってみろと言われて、初めてのことでよくわからないんですが、まだお時間ございましたら、恥ずかしいですけど、聞いてもらえたら嬉しいです、本当によくわからなくって、どうにもお聞き苦しいとは思うんですが、頑張りますので、どうか、あの、などと言っている間にも続々と退席していき、残った連中もわざと「受付」を無視してお喋りに興じている、彼女は今にも泣きそうな顔でオカザキを探すものの彼の姿はどこにもない、生まれたての雛鳥くらいの細い声で「受付」は詩の朗読を始めたが、ものの一分もしないうち心が折れたようで、誰にも注目されないまま、絶望の亡霊を纏って一階に下りていくのを俺はずっと見ていた、そんな状態なものだから、一人また一人と会場から観客は去っていき、終演のムードが漂い始めたが、ナカムラは何かを期待するように腕を組んだままマイクの方だけを注視していた、ふわりと空気が動くのを感じて視線を戻すと、マイクの前には腰のあたりまで伸びた黒い髪が印象的な少女が立っていた、大きな瞳に宿る憂いと、幼さと可憐さが同居した佇まいに目を奪われる、こんな美少女が座っていたのなら気付きそうなものだが、俺は全く認識していなかったようだ、リユといいます、中学二年生です、お願いします、

生きてる人と
死んでる人が
混ざり合って
わたしの小さな身体を
犯します

指先は枯れ
下腹は溺れ
脳みその全体を切り刻んで
アスファルトの隙間で
花となります

だからわたしは
どちらでもない世界

生きてることと
死んでることを
終わりにして
わたしの小さな心を
愛撫します

街並は暮れ
電線は捩れ
三日月の一部をもぎ取って
やわらかい仕草で
夜となります

だから世界は
どちらでもないわたし

彼女の詩は俺には抽象的すぎて理解しがたいが、少なくとも俺やナカムラ、まだ帰らずにいた数人の観客たちの動きを止めて、その透き通る声を聞くために沈黙せざるを得なかった、リユという名前の少女にはどこか現実感がなく、二次元のキャラクターのような、そこに魂のない容れ物だけの人形、電子で作られた偶像、といった表現が似合う存在に見えた、それは前触れもなく自殺したウエハラに俺が抱いていた印象に似ていた、俺が生きているこの世界とは常に一定の距離があって、交わることも触れることもできず、予測不可能で、ふとした瞬間に混沌に飲み込まれてしまう、危うくて、だからこそ美しいもの、ぺこりと礼をして立ち去ろうとするリユ、恍惚とした表情のナカムラ、と俺。
 しばらく俺たちはそのまま余韻を楽しむように、後片付けを始めたスタッフに煙たがられながら、互いが正気を取り戻すまで幾分かの時間が必要だった、たまにああいう子がぽっと現れるから僕は詩の世界から離れられへんのよ、僕は君に今のリーディング・シーンの憂うべき現状と、それを打開する本物の詩人の存在を見てもらいたかったんやけどね、僕からするとリユちゃんも君も同じニオイがするんよ、唯一無二の詩人としての本質的なもんやと思うけどね、一階に下りるとオカザキを中心に数人の関係者らしき人々がテーブル席で打ち上げを始めていた、さっきパフォーマンスをしていた金髪眼帯女や中年デブ親父もいた、「受付」は端の方でオカザキの顔色を窺っているが誰もそれに気付かず、ハイネケンの瓶を片手に何度も乾杯しては、中身のない芸術論なんかを熱弁している、リユの姿はない、オカザキはイベントの成功(と自分では思っている)に気を良くしたのか初対面の時とはまったく別人のフランクな態度で、あ、ナカムラ先生、それにご友人の方、是非ご一緒しましょう、お二人にも感想を聞かせて頂きたいんです、さあ、座ってください、大したものは用意してませんが、おいマチコ、お二人にビールだ、わかるだろうが、すいません、気の利かない奴なんです、せっかく来て頂いたのに、こいつの下手糞なオープンマイクでがっかりされたでしょうね、申し訳ないです、おいモタモタしてんじゃねえよ、早くしろよバカ、「受付」ことマチコはオカザキの怒声にいちいち身体を震わせ、手渡されたハイネケンはほとんど泡になっていた、オカザキの隣に座っている金髪眼帯女は既に酔っ払っているのか、それとも何か目的があって演技をしているのか、甘えた声でオカザキに寄り添っている、マチコは女を睨みつけているが誰も意に介さない、オカザキはここぞとばかりに自分語りを始める、こう見えて私は学生時代ずっと一人で詩を書いているような暗い人間だったんですよ、周りの友人はバンドとか、サッカーとか、何組の誰々が可愛いとか、そんな話ばかりで、詩のことなんか誰も興味がないんだと思っていました、私はひたすら孤独で、ひたすら自分の詩だけを追求していきました、ある時インターネットで詩の投稿サイトを見つけて、たくさんの人が詩を書いていることを知りました、そこでは常に詩の話題が持ち上がっていました、私は興奮しましたね、世界は詩で溢れていたんです、周りの友人が少数派なだけで私は別に孤独なわけでなかったんですから、とはいえ自分も作品を投稿しようとは思いませんでした、馬鹿にされるんじゃないか、手厳しく批判されるんじゃないか、つまり自分を表現するのが怖かったんですね、今でこそ楽しさや充実感、こうして仲間と詩を共にできる幸せを得ていますが、当時の私はまだそのことを知らなかったし、知ろうとも思いませんでした、そんな折に私は知人に誘われてナカムラ先生が主催する朗読イベントを観に行ったんです、自分の中で扉が開いたのを感じましたよ、一人で閉じこもって鬱屈としたまま詩に向き合うより、たくさんの人と詩を通じて繋がっていくことの方が健全だし、有意義だってことがわかったんです、ナカムラ先生に出会わなければ私は詩人になれなかった、心の底からそう思っているんですよ、おいマチコ、ツマミがなくなってるぞ、ちゃんと気を配れって言ってんだろうが、このブス、恥かかすんじゃねえよ、おまえマジで、もう帰れよ、何にもできねえならいる意味ねえだろ、頼むから、早くこの場から消えてくれよ、クソが、でね、あれ? どこまで話しましたっけ? マチコは俺が今まで見た人間のあらゆる表情の中で最も醜い形相をしていた、それは怒りや哀しみや嫉妬や自己嫌悪といったすべての負の感情を合成したキメラの成れの果てだった、マチコは誰の目にも触れないように静かにその場から消えてしまった、俺もトイレに行く振りをして、そのまま挨拶もせずに帰ることにした、ナカムラは気付いていたみたいだが引き留めようともせず、また電話するわ、というジェスチャー。

 俺はリユという少女のことを考えながら駅までの道を歩いていた、オカザキのイベントは吐き気がするほど不快なものでしかなかった、閉鎖的で、宗教的で、これが詩の現在を象徴する姿なのだとしたら、俺は今すぐ詩を書くことなど辞めて、パンケーキとかスキューバダイビングとかブラジル音楽とか、そういったありきたりなものに興味を持つべきなのだと思う、自分があの異様な雰囲気の中で詩を朗読する光景を想像すると発狂しそうになる、しかしリユという存在だけは特別だった、彼女が美しい子どもだからだろうか、それともあの透き通る声がもたらす清涼感か、あるいは放たれるオーラ、難解だが純粋な詩の世界観、瞳の奥に潜むのはこれまでの絶望とこれからの希望、そういったものは生まれながらにして彼女に備わる才能なのだろう、なぜ俺は彼女に声を掛けなかったのか、なぜ俺はもっと彼女を目に焼き付けなかったのか、今さら後悔してしまうが、心地良い夢から覚めた現実の俺に必ず訪れる憂鬱に似て、取り返せないからこそ胸にしこりを残すのだろう、途中タバコを買おうとコンビニに寄ると、雑誌コーナーで女性向けの下世話な週刊誌を熱心に読んでいるマチコに出会った、オカザキに侮辱された後とは思えない平然とした佇まいで、あの、先ほどはすみませんでした、本当によくわからなくって、私、全然気も利かないし、オカザキさんには怒られてばっかだし、得意なわけでも情熱があるわけでもないのに詩なんか書いたりして、そのせいで色んな人に迷惑かけちゃってますよね、私、よくわからないですね、すみません、俺たちはそれから特に会話をするわけでもなかったが、同じ方向の電車に乗り、同じ駅で降り、マチコはなぜか俺の部屋まで付いてきて、いつのまにかお互い裸になって、そのまま三回セックスをした。
 次の日は朝からアルバイトがあって、俺はマチコを残して部屋を出た、事前に契約された企業や個人宅にオートバイで弁当を配達する仕事だ、基本的には決められたルートで、何度か店に戻って弁当を積み直し、近隣のオフィスを巡回していく、冷たい風が渦巻いて俺の頬を凍らせていく感覚が妙に快適で、冬の時期の配達も苦ではなかった、昼のピークを過ぎればほとんどやることもないので余り物の弁当を貰って帰る、マチコはもういないかもしれないが、とりあえず唐揚げ弁当を二つ持って部屋に戻ることにした、今日は随分と気温が低く、吐く息は霧になって俺を包み込んでいく、街の色も暗いトーンで俺を彩っていく、玄関の扉を開けると、マチコは毛布と猫にくるまりながら裸のままで、まだ俺の部屋の真ん中で眠っていた、一度起きてシャワーを借りて、服を洗濯しちゃったんだけど着るものがなくって、寒いしテレビのリモコンも壊れてるし、何もやることがないからまたうとうとしちゃって、よくわかんないよね、どうしてあなたとこんなことになったんだろうね、私ね、オカザキさんに憧れて、でもそれはあの人に群がるたくさんのバカみたいな女の子たちとは違って、純粋に愛してるんだと思ってたの、だから何をされても何を言われても我慢してたし、いつかは振り向いてくれると信じてたの、でも結局は私も同じだったんだって、バカみたいな女の子のうちの一人なんだって、ようやく気付いたの、あなたのキスとか、愛撫とか、おちんちんとか、私が必要としていたものは全部あなたが与えてくれるんだもの、ねえ、あなたは詩人じゃないよね? 傲慢で、世間知らずで、下らない妄想に執着するような、詩人っていう名前の落伍者じゃないよね? マチコは箸を錫杖を持つように握りしめて唐揚げに突き刺している、付け合わせの煮豆とはだけた毛布から覗く彼女の乳首が交差する、俺はクローゼットから縮れたセーターを出してやったが、マチコはそれを着ることなく、猫が寝床にしてしまった、弁当を半分くらい食べたらまたセックスをする、そして眠る、マチコはもう自分の家に戻ろうとはしないのだろう、あるいはオカザキと暮らしていたのかもしれず、仮にそうだとしたら余計にマチコは俺の部屋から出ていく理由を失ったのだろう、何日か経てば彼女のコーヒーカップが用意され、彼女の趣味を反映した花瓶が置かれたりする、猫に名前をつけ、首輪を買ってきたりする。

使者は手を取り合って世界から飛び降り
新しいブルーの色彩で翻る
俺はまだここで留まっている
キラキラと蒸発していくそれらを見上げれば
いつのまにかセンチメンタル
いつのまにかセンチメンタル
いつのまにかセンチメンタル
と、三回唱えて終わり

 ポットの湯気が部屋の空気を湿らせ、猫が急いで顔を洗う、新しい首輪は窮屈そうだが斑らな模様との相性は良く、マチコの意外なセンスに感心してしまう、あれから一週間ほど経つが、仕事に行く時以外はほとんど裸で生活していて、それはいつでもセックスを期待しているという彼女の無言の主張である、マチコはフリーのライターをしていて、出版社から原稿や取材の依頼が来れば出掛けていく、情報ソースの乏しい芸能ゴシップとか、主婦が喜びそうなグルメや生活の知恵みたいな記事ばかりで嫌になってくるけどね、たまにアート系の執筆も任されて、インディーズで人気のメタルバンドのインタビューとか、小さなギャラリーで行われるアマチュアの写真展の紹介とか、私あんまり詳しくないけど、お願いされると断れないタイプだから、渋々受けちゃうのよね、オカザキさんともそういう感じで出会ってしまって、よくわからないまま、彼の手伝いをすることになっただけで、詩とかそういうのは、本当によくわからなくって、俺はマチコに化粧と爪のケアを勧め、求められるとすぐにセックスにも応じた、だが基本的に彼女は部屋の中では特に何もしようとはしなかった、使ったカップを洗うとか、自分用のバスタオルを干すとか、必要最低限の行動だけで、大抵は毛布の中で一日をぼんやりと過ごしている、執筆をしている姿も見なかったし、本を読んだり音楽を聴いたりもしなかった、会話することも実際は稀で、この女はなぜ俺なんかと一緒にいようと思い、なぜ俺から離れようとしないのか不思議だった、誰かと共に暮らすことは苦痛だ、マチコは猫に「ナンシー」と名前を付けた、俺がシド・ヴィシャスに似ているからだとマチコは言った、だが、こいつは確かオスだ。
 ナカムラから連絡が来たのは、それからさらに一週間ほど後のことで、やけに早口で喋るものだから俺は内容を理解できず、とりあえず例の喫茶店で落ち着いて話そうということになった、マチコは珍しく一緒に行くと言い張り、ナカムラとも知り合いだろうし問題ないかと連れてきたが、果たして良かったのかどうか、時間通りナカムラが来るとも思えなかったので俺たちは約束の三十分後を目処に喫茶店に向かった、二人で街を歩くのは初めてだった、マチコは腕を組んだり手を繋いだりしようとはせず、俺の少し後ろを俯き加減で付いてくる、街は日々寒さを増し、まもなく訪れるクリスマスのために赤い色のヴェールを纏っている、サンタの帽子をかぶったおばさんが銭湯に入っていくのを不思議な気分で見ていた、例の喫茶店でさえ扉には柊のリースが飾られ、フランク・シナトラの軽快な「ジングル・ベル」が延々と流されていた、案の定ナカムラはまだ来ていなかった、俺たちは淹れたてのシナモンティーが置かれた奥の席に座る、老主人の手際の良さには感嘆させられるが、頭にはトナカイの角を付け、鼻に赤く塗ったピンポン玉を載せているのはどうかと思う、ナカムラが来たのは結局それから三十分経ってからで、既にかなりの量の酒で満たされた様子の赤い顔、ヨレヨレのコートの肩には鳥の糞、申し訳ない、別にわざとやないんやけどね、飲まずにはおられへん深い事情があってね、嬉しい時も悲しい時も、病める日も健やかなる日も、僕はいつでも飲むんやけどね、ん? え? オカザキ君とこのマチコちゃんやんね? こんなこと言うたら失礼やけど、どこのべっぴんさんかと思ったわ、ん? え? なんで君とマチコちゃんが一緒におるわけ? あ、お世話になってます、私にもよくわからないんですけど、色々と理由があって、今日はお邪魔させてもらいます、でもオカザキさんには黙っててもらいたいんです、すいません、ああ、ああ、そういうことか、君も隅におけへんなあ、となると、あれやな、先週オカザキ君に会うた時めちゃめちゃ機嫌悪かった原因はマチコちゃんやったんやね、あ、やっぱり怒ってました? 先生にもご迷惑お掛けしちゃったのかな、すいません、でもしょうがなかったんです、もうオカザキさんとの縁は切れたと思ってください、いや、僕は別に構わんけどね、男と女なんていつだって流転するもんやからね、せやけど昨日電話した時は意気消沈してたかな、心ここにあらずというか、それもマチコちゃんが原因なんやろうけどね、え? オカザキさんがですか? 私のせいで? 有り得ないですよ、そんな、ああ、こういうこと言うたんはまずかったかな、ほんまのところはわからへんけどね、僕は恋だ愛だっちゅうのはさっぱりやからね、ナカムラとマチコは俺とは無関係な話を繰り広げており、俺は何十回目かのシナトラの美しいビブラートに耳を傾けていた、老主人にオムライスを頼み、卵の上にケチャップで「カレーライス」と書いてもらって、その誤差を楽しんだりしていた、食べ終わる頃には話もすっかり終わって、マチコの姿もなくなっていて、いつものように俺は自分の知らないところで物事が取り返しのつかないほど変わっていくことに戸惑っていた、風が吹くことで桶屋が儲かるなら喜ばしいことだが、悠然とオムライスを食べていたら世界のあらゆるものが瓦解するのだとしたら、それはあまりに理不尽ではないか、僕がいらんこと言うてもうたんやろうけどね、君、追いかけたりせんでええの? そんな大層なこと忠告できるような立場でもないけどね、それにしても君は意外とプレイボーイなんかな、羨ましい限りやけどね、いや、ちゃうねん、今日はそんなこと話しに来たんとちゃうねん、イベント出演のことは考えてくれたんかっていうのもあるけどね、リユちゃんって覚えてるやろ? あの子をね、今回の僕のイベントに引っ張ってこれるかもしれんのよ、どう? 興味出てきたんちゃう? 俺はあの日のリユを思い出すが、茫洋としていて上手くイメージができなかった、ただはっきりと彼女の声だけは耳に残っていた、とはいえリユが出るなら俺も出ると二つ返事するほど短絡的な思考は持ち合わせていなかったし、未だにナカムラがどうしてここまで俺に執着するのか判然とせず、俺に恥をかかせるために現れた物好きな悪魔なのではないかとさえ疑いを持っているくらいだった、俺は自分の書いたものが優れていると思うことなどなかったし、リユのように誰かの心を動かせるほど完成された芸術品と呼べるはずもなかった、そもそもナカムラは俺の詩をどこで読んだのだろう、俺の言葉はどこを彷徨い、どこで発見されたのだろう。
 思い当たることが一つだけあるにはあるが、あまりはっきりとした記憶がない、俺は高校を卒業した後、これといった目的もなく地元を離れてこの街で生活を始めた、自分探しと言えば聞こえはいいが、要はモラトリアムから脱却できずに藻搔き苦しむ青年が、環境を変えることで身の丈にあった生き方を模索しようとしただけだった、実際のところ俺は机や鞄の中すら探すこともせず、早々に諦めて夢の中でダンスをする気分で、なんでもない毎日をなんにもせずに過ごしていた、退屈を埋めるために俺は詩を書いた、それは少なくとも意味のあることだと自分に言い聞かせ、一つの言葉のために一日を消費することもあった、そうやってどんどん堆積していく俺の言葉たちは行き場のないままノートに地層を形成し、ウエハラのように自殺する決心がついた時に俺の亡骸と共に灰になっていくのだと思っていた、弁当屋のアルバイトを始めて間もなく、オートバイで街を右往左往する中で、自宅からそう遠くない場所に図書館があることに気がついた、地元のそれとは違ってモダンな外観で、都会に見合った規模と活気に満ちていて、俺は仕事が終わるとすぐに覗きに行くことに決めた、ペット同伴禁止の案内に鼻白むものの、高い天井に伸びる棚には色とりどりの本が詰め込んであり、大小のテーブルが整然と並び、一つとして電球の切れていない照明と、朗らかに挨拶する若い司書たちに、居心地の悪さは感じられたが、それでも俺は退屈の逃げ場を見つけて心を躍らせたのだった、真っ先に詩集のコーナーの前に立ち、生き別れた兄弟に合間見えたくらい大袈裟に一冊一冊を手に取る、俺はランボオの新訳と、ボードレールの評論、ギンズバーグの伝記、ナカムラの詩集などもあったと思うが、数点の本を脇に抱えて貸し出しカウンターに向かった、ランボオいいですよね、と声を掛けてきたのは若い女の司書で、首からネームカードを垂らしていたが名前は覚えていない、美人だったのは確かで、後ろで束ねた艶やかでセクシーな髪と、両頬のホクロが生む愛嬌、食事に誘えば簡単に籠絡できそうだが、頑なに貞操を守るタイプにも見える、その絶妙なギャップが男心をくすぐる、しかし流石に俺も分をわきまえて、こっそり電話番号を渡すとか、耳元に息を吹きかけるとか、そういった刹那の衝動を抑えて本だけを持ち帰った、ランボオの新訳は酷い出来だった、彼の繊細さは凡庸な描写に置き換えられ、フランス語を覚えたての大学生が辞書と首っぴきで書き上げたような味気ない詩集として再構築されていた、俺はその冒涜とも言える行為に憎悪すら抱き、やり場のない想いを詩という形に置き換えてノートに言葉を書き連ねていった、大抵の感情はそうやって自浄するのが平穏な日々を送るためのテクニックだ、いつしか若い女の司書への溢れ出るリビドーの奔流も詩になっていき、深夜四時の狂気が込められたパラノイックな超大作に仕上がってしまった、翌日の昼過ぎに目が覚めてからはそんなことすら忘れて、またいつも通り変化のない日常に停滞し、沈殿し、発酵していくだけだった、三週間ほど経った朝に図書館から電話があり、返却期限を過ぎているので至急ご来館くださいとのことで、アルバイトに行く前に図書館に寄った、あの若い女の司書はおらず、新たに本を選ぶほどの時間と心の余裕がなかったので、俺はもう自分の記憶から図書館というキーワードを消去し、無為なる言語の墓場に埋葬してやった、おかげで仕事で致命的なミスをして、配送中に鳩の死骸を踏んで、大きなニキビが額に発現し、急に古い虫歯の跡が痛み出し、これはランボオの呪いか、それとも俺が俺自身の運命に課した試練なのか、とにかくツキの回らない一日だった、極めつけには夕方になって再び図書館から電話があって、返却した本の間に俺の門外不出のノートが挟まっているとの連絡を受け、俺は慌ててノートの回収に向かった、手遅れかもしれないが中を覗かれていないことを祈った、それは俺の恥の結晶を詰めたパンドラの匣だ、しかしよりにもよってあの若い女の司書は、ほんの少し確認するだけのつもりだったんです、他人が興味本位で読むようなものじゃないっていうのも理解していたんですが、大事なものだったらすぐにお返ししないとダメだし、ご本人のものなのかどうかも判別しておかないと余計なトラブルになることもあって、やむを得なかったっていうのは言い訳ですよね、あの、実はわたしも大学の頃、詩の研究をしていたんです、近代のフランス詩専攻で、だからあなたのことも、ランボオを読む素敵な方だってことを覚えていて、なんというか、悪いことなのは承知の上で、読みたい気持ちを我慢できなくって、本当に申し訳ないです、でも一つだけお伝えさせてください、あなたの詩はとても素晴らしいと思います、誰かの詩を読んでここまで心がざわざわとしたことはありません、あなたの痛みとか欲望とか大切にされているものとか、そういうのを感じてしまって、なんというか、こんなにも言葉を愛しく思ったことはないんです、もしあなたさえ良ければ、このノートを少しお借りしてはいけないですか? 本をお貸しする立場のわたしがこんなこと言うのもおかしなことなんですけど、あなたの詩を読ませて頂くことはできませんか? そこに邪な気持ちが俺になかったとは言うまい、初めて他者に自分の詩が読まれて予想外の賛辞を受け、それを否定する理由も拒絶する正当性もない場合、しかもそれが気になる女性からのものであり、互いのインスピレーションが通じ合っているという紛れもない事実を知った場合、誰がそのチャンスを逃そうとするだろうか、俺は若い女の司書にノートを渡し、代わりに彼女の電話番号を貰った、だが俺は今になって、それからの記憶がすっかり欠落していることを告白しなければならない、俺のノートの所在も、若い女の司書との関係も、どうなってしまったのかわからない、きっと良くないことが起こって、俺はそれらの思い出を棺に詰めて焼いてしまったのだと思う、俺はいつもそうやって過去を跡形もなく消去して、気付いたら一人きりで部屋のベッドの上で呆然としているのだ、目を閉じてイメージする、俺は世界から飛び降りる。

 ナカムラと別れた後、俺はわざと街を迂回して部屋に戻った、マチコはいなかったし、猫の首輪も外れていた、ノートはナカムラが持っているのかもしれないが、そのことを確認するのをすっかり忘れていた、結局俺はナカムラの誘いを断ることにした、やはり自分が朗読するなんて考えられないし、読むべき詩も手元にない、せやけどイベントにはおいでな、オカザキ君みたいな、あんな下らんもんにはなれへん自信はあるし、なによりリユちゃんは観ておいた方がええと思うけどね、君のためにもね、クリスマス当日やから予定あるなら無理強いでけへんけどね、女の子と楽しく過ごすんも、キリストさんに願いを込めるんも、それはそれで君のためかもしれんし、こんなオッサンの戯言にいつまでも付き合う義理もないんやけどね、でも僕は君の詩を評価してるってことは覚えといてね、それだけは、ホンマに、冬の夜は長く、一人で何もせずに過ごすには残酷なものだ、テレビも見られず、ノートもなく、女の温もりもない日々が俺をひたすら憂鬱にさせた、これが本当の地獄の季節なのだろうか、ほとんど電話などかけてこない父親から着信、全く面識のない叔父が亡くなり、明日の通夜に出るために帰郷するかどうかの確認だった、俺は叔父がいることすら知らなかった、何かの事情があって教えてもらえてなかったのか、自分で記憶を消去したのかはわからなかった、少なくとも血の繋がっていた親類なわけだが、悲しみなどあるわけもなく、どこかで一つの魂が失われたという事象が俺の外側にあるだけのことだった。
 年の瀬が近づくにつれ、契約している企業の休みに合わせるように弁当屋のアルバイトは仕事が少なくなり、街の忙しなさに反比例して俺は堕落するばかりだった、同窓会を兼ねたクリスマス・パーティーをしませんか、と書かれた葉書をクリスマス当日に見つけるくらい俺は社会から切り離されていた、俺はとうとう自殺する決心をつけ、ホームセンターでロープを買って、部屋のどこに吊るすべきかを思案したが、引っ掛ける場所もなく断念した、死ぬならばひっそりと死にたかった、屋上からの飛び降りや、列車への飛び込みは以ての外だ、痛いのや苦しいのはなるべく避けたいところで、睡眠薬や練炭を用意する気力もなかった、ただ死にたいという欲求だけが頭の中を支配していて、具体的なことはあまり考えられなかった、募りに募ったメメント・モリがある日突然俺を殺してくれるのを待つくらいだった、ただ一つだけ必ず処理しなければならないことがある、ノートだ、俺の詩で埋め尽くされたノートは俺と共に消滅させなければならなかった、そのためにはナカムラに会わなければならず、今日の彼のイベントに行くことは絶対条件としてあった、俺は伸ばしっぱなしの無精髭を剃り、新しい靴下を履き、誰かに貰った長いマフラーを巻いて、何日かぶりに部屋を出た、外の景色はキラキラとしていた、穴ぐらで暮らすモグラの目を眩ませるほどに、あらゆるスペクトルで光っていた、俺はなんだか惨めな気持ちになり、その感情は反転して全てへの憎しみになっていく、俺は詩を書くべきだった、新しくノートを買って、溢れ出る言葉を思うがままに書くべきだったのだ、駅までの道のりがやけに遠い、枯葉が敷き詰められたアスファルト、自動販売機の電子音、結露で濡れた家々の窓に浮いた幼児の手形、ケーキ屋の駐車場は混雑し、二人の男が口論している、溶けた雪だるまの残骸と、それを踏む三輪車の轍、病院の赤い看板は血の色、ウイルスの舞う北風と咳払い、冷たい爪先の感覚、街は浮足立っているが、俺は底なしの混沌に沈み込んでいる、電線に集うカラスが俺の魂を狙っている。
 ナカムラが用意した会場は、百人程度が収容できるライブハウスで、しっかりとしたステージがあり、各種の機材も準備され、脇にはバーテンの控えたドリンクカウンターもある、BGMはミック・ジャガー、既に観客で騒然としていて、フロアに落としたマフラーは一瞬で無数の靴に踏まれ見失ってしまった、これではナカムラを見つけることも困難だろう、俺はバーテンにビールを貰い、壁面に張り付くように開演を待った、傍で聞き覚えのある声が聞こえて振り向くとオカザキがいた、隣にはショートボブの女が俺をちらちらと窺いながらバツの悪そうな顔をしている、誰だったか思い出せないが、記憶の隅の方でもやもやと揺れている感覚もあって、近所の牛丼屋とか、歯科医の待合室とか、そういうなんでもない場所で見かけたことがあるような顔でもあった、ああ、あなたも来られていたんですね、ナカムラ先生にはもう会われました? 今は楽屋にいるんじゃないかな、私もまだ挨拶できてないんです、直前の打ち合わせとかでお忙しいでしょうから、お邪魔するのもどうかと思ってね、今日は私の妹も急遽出演することになりまして、いやはや、私ですらお声を掛けてもらったこともないのにね、まあ若い子が好きなんでしょう、先生は、この前の私のイベントでもちょっとやらせてみたんですけど、ご覧になられてました? リユって覚えてませんか? 私とは血は繋がってないんですけどね、詩人の性分ってのは似るんですかね、おい、マチコ、お前いつまでそこで突っ立ってんだよ、早く席を探しに行けって、マジで使えねえヤツだな、それでよく戻って来れたな、マチコと呼ばれた女は俺に救いを求めるような視線を送っているが、人間関係の細かな機微にまで気を配れるほど俺は他人に興味がなかった、女はそそくさと立ち去り、その後をオカザキは大仰な態度でゆっくりと歩いていった、リユがオカザキの妹だという事実には意表を突かれたが、よくよく考えてみると随所にヒントはあったのかもしれない、そうこうしているうちにナカムラが登壇すると、会場を埋め尽くす百人弱の観客が一斉に歓声を上げる、前方にいくつか設置されたテーブル席には有名な文芸評論家の姿もあった、オカザキは結局どこにも座れずに端の方で不貞腐れている、まず最初にステージに現れたのは坊主頭のひょろ長い男、マイクの前に立ち、バッハのチェンバロ協奏曲に合わせて全身をベージュのタイツで包んだ舞踊家が奇妙なポーズを繰り返し、それに呼応するように坊主頭が詩を読む、ベトナム戦争を動物の交尾に喩えた奇妙な物語で、すべてがアンバランスなそのパフォーマンスは、オカザキのイベントで見た「意味のないものを意味のあるものにする」儀式のような類のものではなく、「意味のあるものを意味のないものにする」エンターテインメント性が感じられた、本来のポエトリー・リーディングの形ではないだろうが、少なくとも観客は楽しんでいたし、俺もあの居心地の悪さ、言い様のない拒否感までは生まれなかった、続けて出てきたのは男女のペアで、女はアコーディオンを抱え、男はクラシック・ギターを携えて、即興演奏に乗せて詩で対話するというものだった、朗読する内容は下らない恋愛のやり取りではあったが、予測不可能な音階が独特な雰囲気を作っていて、聴く者の耳に重厚で複雑なサウンド体験をさせる、という意味においては革新的なものに思えた、次々と色んなアプローチで詩を表現する者達、口元の動きをアニメーションで描いた映像にアテレコするもの、何人もの役者が入れ替わり立ち替わり芝居がかった口調で朗読する演劇的なもの、観客から与えられたキーワードを盛り込みながら会場全体を歩きながらその場で詩を作るものなど、ナカムラが宣言していた通りの面白さはあって、もし俺がここに出演するならどんなことをしようか、どんな詩を読もうか、と自身の信念や恥の意識を黙殺してしまう程度には興味を持たされた、ということは隠さずに告白しようと思う、だが俺には他人の詩を全面的に受け入れるほどの余裕もなく、音楽や映像で誤魔化されてはいるとはいえ、観客に課せられた使命、つまり言葉が言葉としてフロアに放たれ、それを漏らさず自分の身体にフィードバックしなければならないという暗黙のルールが俺を束縛していた、耐えられなかった、俺の精神はどんどん摩耗して、立っていることも困難だった、俺はライブハウスの二重になった扉を開け、外の空気に、街の冷たい静けさに、自分を連れ出していった、ナカムラには悪いが、早く部屋に戻って首を吊りたかった、ノートのことは忘れよう、たとえそれがこの世に遺されたとして、誰が気に留めるだろうか、俺は死に、俺の詩も死ぬ、きっとそんなもんだろう、駅に向かう道はどっちだ、ここはどこだ、ふらふらとよろめきながら朦朧とする意識の片隅に彼女はいた、リユだ、俺と同じように頭を抱え、弱々しくしゃがみこんだ姿ですら特別なオーラが滲み出ている、時に中空を見上げて透明な妖精が舞うのをじっと眺めている、その横顔の美しさに俺は心を奪われる、たかだか十四歳の少女に抱く感情としては異常な志向があるのはわかっているつもりだし、例えば彼女を自分のものにしたいとか、セックスの対象として拐かしたいとか、そういう欲求は微塵もない、と自分を信じたい、彼女はようやく俺の存在に気付き、戸惑いながらも微笑を向けて、どうして世界ってこんなにも生き辛いんでしょうか、幼い頃に両親が離婚しました、父の暴力とか浮気とかが原因だって言い訳していたけれど、母と共にこの街に移り住むとすぐに新しいお父さんと新しいお兄さんができました、義父は優しく、義兄も歳は離れていましたが、わたしのことを本当の妹のように可愛がってくれて、だからわたしは特に自分の境遇が不幸だなんて思いませんでした、学校も楽しいですし、心を許せる友達もいるし、母とも良好な関係を築けています、でもなぜかそれを幸福だと思ったことは一度もありませんでした、外国では何日もご飯が食べられない子供がいます、テロに巻き込まれて死ぬ若者もいます、そういうのと比べたらわたしは何の不自由もなく、平穏で、それなりに刺激もあって、恵まれた人生ではあるけれど、それは相対的な話でしかなくて、わたし自身が考えるわたし自身は、ちっとも充実していないし、なんにも生き甲斐がないなって思うんです、ナカムラさんに誘われて今日は朗読することになったんですけど、わたしは自分のつまらない詩を読みたいわけじゃない、もっと意味のある、その言葉が世界を一変させるような、そんな詩でなくちゃいけないって、そしたらナカムラさんに一冊のノートを渡されたんです、と言ってリユが俺に示したのは見覚えのあるノート、紛れもない俺のノート。
 俺たちはどういうわけか二人で駅前のファストフード店のテーブルに腰掛け、リユに至っては出番を無視してしまっているわけだが、こういうのって駆け落ちって言うんですか? と悪びれることもなく、甘いココアに砂糖を追加している、俺はノートを返してもらう代わりにお茶を奢るという、因果関係の乏しい取引をリユに持ちかけた、今の今まで陰鬱としていた彼女の表情はぱっと明るくなり、俺の腕に身体を巻き付けてきた、その無邪気さと狡猾さは天性のものなのか、彼女なりの処世術なのかはわからない、店内では至る所で恋人達が愛を囁き合っていて、初対面の女子中学生と会話もなくただ座っている男など俺くらいしかいない、冷静に考えると奇妙な状況だが、リユは終始ニコニコしていて、俺を不審にも思わないし、言葉のない時間さえ噛み締めるように楽しんでいる様子だった、なんだろう、同じにおいがするって言ったら失礼ですよね、勝手にノートを読んじゃったっていう罪悪感とか、こんな詩を書く人はどういうことを考えてるんだろうっていう好奇心とか、まあ、色々です、不思議な感じ、例えばサンタクロースって、流石にわたしもあんなのまやかしだって理解してますけど、子供の頃は大人が用意したファンタジーをどこか疑いながらも信じちゃうじゃないですか、それは世界の広さを知らないから、現実の果てを見たことがないから、お化けや魔法や宇宙人が存在しないっていう論理的な証明ができないからですよね、でも物心がついて、化学や物理や社会の仕組みを学んでいくと、それが夢物語でしかないことに気付く、それはとても辛いことだからわたし達は別の夢物語を作ろうとするんだと思うんです、だけどある日、本物のサンタクロースに出会ったら? 本当の本当はちゃんと存在しているって事実が、リアルに、そこに触れられる距離に、目の前で息づいていたら? あなたって、そんな風に現れたわたしのサンタクロースみたいなんです、ね、せっかくだし、これからどっか行きません? ね、ね、俺たちは店を出て、ちょうど到着したばかりのバスに乗り込んだ、行先はどこでもよかった、リユは初めてバスに乗るらしかった、乗客はおらず、眠たげな運転手のクラクション、流れる街のざわめき、リユの長い髪は車体の振動に合わせて揺れる、どうやら海に向かうようで、リユは冷たい空気などお構いなしに窓を開け放ち、段々と強くなる潮の香りにうっとりとしていた、わたし、海も見たことがないの。
 終点は海のそばの公園の入口で、人気もなく、強い海風がぽつんと佇むブランコを蹂躙していた、枯れた松の木の残骸で足の踏み場もない遊歩道を行き、ちょろちょろと勢いを殺した噴水や、赤茶色に錆びたベンチに群がる雀や、捨てられたエロ本の卑猥な表紙に、リユはいちいち過剰に反応し、俺は乾いた唇を舐めながら彼女の表情を楽しんだ、堤防を越えて砂浜に下り立ち、荒れる波が作る幾何学的な飛沫と、耳の奥まで鳴り響く轟音、リユはずっと大事そうに胸に抱えていた俺のノートを開き、俺だけのために、俺の詩を、彼女は朗読する、

海がまだ俺達の命だった頃
酔いどれの蒸気船が灯台に突き刺さり
鯨の親子を巻き込んで
みんな死んでしまった

しかしそれは哀しむべきではなく
ただひたすら世界が真っ当な自我で
変化するルーティンで
俺達を導いているだけ

空がまだ私達の体だった頃
気狂いの熱気球が雷雲に飛び掛かり
祭の太鼓になぞらえて
みんな死んでしまった

しかしそれは喜ぶべきではなく
ただあたかも自我が真っ当な世界に
進化するリフレインで
私達を殺しているだけ

リユの声は暴れる風にかき消されることなく、空間に反響して美しいメロディーになっていく、俺の言葉はリユの言葉となって、宙を舞い、泡になって、弾けて消える、俺はその様子をじっと見ていた、リユがはにかみながらペロリと舌を出し、瞳に浮かんだ涙の意味を問い掛けようと手を伸ばしても触れることはできない、交わることもない、魂の形が曖昧になっていくのを感じる、砂の一粒一粒が渦巻き、不意に降る雪、リユの手から飛ばされたノートが海面に着地し、幾重にも織り成す波に絡み取られて行方がわからなくなる、俺は無意識のうちに凍える水の中に潜り込んでノートを追う、足をばたばたと動かすほど沖に流されていき、ノートも、リユも、遠くなっていく、肺の奥に海水が浸食していくのがわかる、呼吸をすることも忘れている、リユの寂しそうな顔だけが脳裏に焼き付く、美しく、危なげで、儚い、その表情。

 けたたましくアラームが鳴ってカーテンの隙間から漏れ出た光がフローリングの床を舐めていく、逆立つ毛を舌で整える猫の背中を掠め壁に掛かったリキテンスタインの色彩をぼやけさせる、テーブルの上には水に濡れて開かなくなったノート、誰かが置いていった銀色のコーヒーカップ、首吊り用のロープが二本、カーペットには謎のシミ、ベッドで眠る黒髪の少女、正体不明の頭痛が襲いかかり、身体が火照るように熱い、体温計を探そうと思って立ち上がるが、視界は霞み、上手く歩けない、そもそも体温計なんてものがこの部屋にあるのかどうかもわからない、少女は眠っているようにも、死んでいるようにも見える、もうすぐ新年を迎えるというのに、俺の世界はあまり変わることなく、同じような日々が続いていく。

(原稿用紙74枚)

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