中篇「化物どものシ」

 左手首に見知らぬ穴が空いている。
 傷、と呼ぶべきなのかもしれないが、皮膚の表面に直径一センチほどの黒い点があって、ホクロのようにも見える、だが指で触れるとその部分だけが陥没しているのがわかり、爪の先を穴に差し込むとどこまでも埋まっていく感覚がある、痛みや腫れはないので虫に刺されたとか針で突いたとか、そういう類の瑕疵ではなさそうだった、むしろ本来そこにあるべき肉の残骸、血の通った細胞の痕跡すら見当たらず、ただ一点のみが消失していると考える方が妥当だった、穴を覗くと奥深くまで闇が続いていて、俺の周りの空気がすべて吸い込まれていくように思われる、この穴はいつから俺の手首に現れたのだろう、生まれた時からある気もするし、今しがたシャワーを浴びている間にじわじわと侵食されたのかもしれなかった、確かなことは何もわからない、ひとつだけ言えるとするならば、耳や鼻や肛門のようにどこかに繋がるものではなく、果てしない深淵だけの穴が俺にはあるということ。

 俺は身体に付着した水滴をバスタオルで念入りに拭きながら、洗面台の鏡に反射する自分の顔がひどくやつれていることを知る、だらしなく膨らみ始めた腹の脂肪を摘み、いつだって余計なものばかりが生産され、肝心なものは必ずどこかに消え失せていく現実を知る、女が用意した新しい下着を履き、ベッドルームに戻る、女は裸のまま複雑なヨガのポーズでテレビを観ている、古い映画の中で顔にペンキを塗りたくる男優の厭世的な表情を真似ながら細長い煙草を燻らせる、俺には上手く発音できない名前の外国産の銘柄で、苺の甘酸っぱいフレーバーがする、換気が悪いせいか女の吐き出す紫の煙は天井に滞留していく、女は俺より十歳は年上のはずだが幼い顔立ちで、黒縁の丸眼鏡が余計に子供っぽさを演出していた、小さい乳房を覆う長い髪は艶めいて、腰に浮いたトカゲのタトゥーが蠕動している、女の手首には無数の傷跡があって、それは俺の手首の穴のように抽象的な意味合いのものではなく、何本もの赤く爛れた直線が幾重にも交差し、生々しいテクスチャーを描いている、女は毎朝六時に目覚め、歯を磨いたり、化粧をしたり、猫に餌をやったりする日常のルーティンの中で、必ずリストカットをするらしい、自分がちゃんと生きているっていう確かな証拠が欲しいと思ったことない? 漠然と毎日を過ごしているとさ、ふとした瞬間に自分の意識がどこかに追いやられていく気がするのよね、例えばあたしはジャガイモの皮を剥いているの、誰に食べさせるわけでもないのに丁寧に芽を取ったりしてさ、延々と同じ作業を繰り返していたりすると、あたしという自我が世界から乖離していく感じがするの、あたしという容れ物からあたしという中身が零れ落ちて、あたしの意志、あたしの欲求、あたしの目的、そういうのがどんどん蒸発していくのがわかるの、空中に飛散していくあたしは、そのうち跡形もなく消えていって、あたしという存在はなかったことになっていくの、それは悲しくて、憂鬱で、とてつもない絶望が押し寄せてくるんだけど、その感情さえ絵空事なんじゃないかって思ってね、気付いたらあたしは手に持っていた皮剥き器で手首をざくざく切っていて、血塗れのジャガイモがシンクに転がっているってわけ、あたしは痛みとか、流れていく血の色とか、あたしそのものの感覚を確かめて、ようやく自分がちゃんと生きているってことを認識したんだと思うの、だからあたしのやっていることは別にネガティブなことじゃなくて、毎日を生き抜くための本能的な儀式なのよ、鯨だってそうでしょ? 時折水面に上がって呼吸をする、大きく息をして、また潜っていく、あたしも同じ、鯨と同じ、そういうものよ、ね、女はにやりと俺を見る、ベッドの上に倒れて両足を揺らしながら波打つシーツに沈み込んでいく、淫靡で挑発的な歌を唄い始める、俺は女の美しい髪を掬い取って耳朶を強めに噛んだ、女は短く高い声で喘ぎ、俺に委ねるように全身の力を抜いていく、首筋から鎖骨にかけて舌を這わせていくたび女は半音ずつキーを上げて啼く、部屋がじっとりと湿っていく、俺の手首の穴に空気が流れていく、足りない酸素、鯨の呼吸、俺の本能は女の思惑通りに導かれているだけで、俺の意識はどこかに追いやられている、だからといって俺はリストカットなどしないだろう、自分が生きているという確かな証拠が必要なのか、俺はそんなことを考えもせず、ただ自動的に女を抱いている、そして女の穴の中に射精するのだ、死を求めるように。

 すやすやと寝息を立てる女を残して俺は部屋を出た、眠れそうにもなかったし、他人の体温が煩わしく思えたからだ、深夜二時でもこの街はざわめいていた、俺が育った田舎町はタオル工場とキャベツ畑しかなく、夜はヒキガエルの鳴き声くらいしか聞こえなかったが、ここでは色んな雑音が渦巻いている、下品なネオンや、酒と吐瀉物のにおい、都市特有の混ぜこぜな空気が俺を包んでいく、俺は大きく深呼吸して、ようやく生き返った気分になる、目的もなく漫然と歩けば四月のまだ冷たい風が額を撫でる、コンビニの前でたむろする少年達の高笑いに寒気がする、くすんだ夜空には青白い月が浮かんでいて、俺はそれがこの街で唯一美しいものであると考える、国道沿いのガードレールに腰を下ろし、女からくすねてきた煙草を吸う、さすがに交通量は多くないが、時折タクシーが猛スピードで通り過ぎていく、アスファルトがじりじりと軋む、閉店してシャッターの降りた理髪店と二十四時間営業のドラッグストアに挟まれた路地の奥で、段ボールをブランケット代わりに羽織ったホームレスの爺さんが口笛を吹いている、聞いたことのある旋律だが曲名は思い出せない、何かのアニメの主題歌だったか、ジャズのスタンダードだったか、薄汚れた格好とは裏腹に爺さんは洗練されたメロディーを奏でる、闇に厳然と佇む月を装飾するかのようで、俺はうっとりとした気持ちで夜を楽しむ、爺さんの傍らには長い毛並の老犬がいて、そいつも俺と同じように口笛の音色に聞き惚れている、爺さんは老犬の喉を撫でながら懐から短い煙草を取り出して大事そうに吸い始めた、おそらく誰かが路傍に捨てたものを拾い集めたのだろう、俺は残りの煙草を爺さんに譲ることにした、爺さんは地面に頭を擦り付けるほど俺に礼をし、つられて老犬も耳を垂らしている、俺は少しだけ心を痛める、爺さんは皺だらけの顔をさらにくしゃくしゃにして、恍惚とした表情で欠けた歯の間から煙をゆっくりと吐く、濁った瞳でその軌跡を追い、その視線の先で輝く月を眩しそうに見つめている、儂はね、ずうっと地下で暮らしていたんだ、本当だよ、若い頃は下水道管理の仕事をしていてね、街のあらゆるマンホールから地下に降りていって、しっかり水が流れているかを検査するんだ、土砂や鼠の死骸なんかが底に溜まったりするのを掃除するわけだよ、今でこそ地下も整備されて所々に電灯が付いているみたいだが、昔はヘッドライトの小さな明かりだけを頼りに暗闇を手探りで進んでいくしかなくてね、鼻が曲がるほどの悪臭だし、じめじめと湿った嫌な空気が身体に纏わりつくし、グロテスクな虫達が儂の皮膚を這いずり回るような劣悪な環境だったが、儂は一日の大半をそこで過ごすしかなかった、大体の作業は一人で行なう、光の乏しい狭い空間は孤独を助長する、自分と向き合うしかないんだ、普通の人なら五分もあれば発狂するだろうね、それほど暗闇の中で孤独に耐えるのは難しいんだよ、儂ら作業員が最初に上司から教わるのは、狂人にならないために孤独を飼い慣らす方法だ、単純なことさ、くだらない妄想をするってだけだ、例えば儂の場合は宇宙飛行士だ、日本人として初めて月面に降り立つ、日章旗を地面に突き刺して地球に住む家族や友人たちに手を振る、数匹の兎が足元に群がって飛び跳ねている、儂はそこで決意する、次は火星に行ってバーベキューをしてみよう、それから水星の海でスキューバをしよう、なんてね、そんな妄想を延々としていたよ、他に楽しみもないというのもあるが、なによりその夢のような想像が正気を保つ唯一の方法なんだからね、仕事が終わる頃、同僚がマンホールの蓋を開ける、地上の世界も夜に変わっているが、それでも地下よりは断然明るくてね、僅かな光の集合体が儂の真上にぽっかりと丸い穴を穿つんだ、それは今日のお月様のように輝いていてね、儂は本当に自分が宇宙飛行士になった気分で緩やかに梯子を上っていく、その紛い物のお月様を目指していくわけだ、そうして現実に戻り、儂は本物のお月様を見上げて悟るんだ、ああ、あれは妄想だったのだ、儂はこの大地から飛び立つこともなく、穴ぐらに潜ることしかできない汚い土竜なのだ、お月様には手も届かない、火星や水星なんて見えもしない、ってね、その現実でこそ発狂しそうになってしまうんだよ、おかしな話だと思うだろう、実は儂はもうほとんど盲なんだ、長いこと地下に居たせいだろう、だがお月様の強い光は儂を導いてくれる、爺さんは中空に両手を伸ばし、国道の方にふらふらと歩いていく、奇抜な電飾を施した巨大なトラックが通り過ぎるのを気にも留めず、身体を宙に投げ出して月に向かって飛翔していく、その姿は夜空の梯子を上っていくようだった、一歩ずつ確実に足を踏みしめ、今度こそ本物の月へと旅立っていく、どんどん遠去かる爺さんの背中を俺と老犬はじっと見ていた、爺さんの口笛がかすかに聞こえるような気がした、老犬は俺の隣で長く響く声で吠えた、それは哀しげに聞こえたが老犬が何を想うのか俺には知る由もない、俺は歩道橋の上から眠れない街を見下ろした、そこにはマンホールの底のような嘘臭さが広がっている。

 俺の後を例の老犬が付いてきているのはわかっていたが、追い払うには少しだけ不憫に思えて、そのままアパートまで連れて帰ってしまった、俺は女の部屋に鍵を忘れてきていることに気付いたが、かといって戻るのも億劫で、仕方なく老犬の腹を枕にして微睡んだ、夢を見た、それは子供の頃から何度も繰り返し見る悪夢の一つだった、俺は茶室のような小さな部屋の中にいる、古い畳のにおい、檜の壁の手触り、天井は低く居心地が悪い、薄暗くて孤独だ、嵌め込まれた障子は開かないが、わずかに光が差し込むのに気付く、俺は部屋の外が見たいと思う、そこにはきっと美しい世界が広がっているはずだと期待する、人差し指に唾液をつけて障子に穴を開け、胸を躍らせながら覗いてみる、そしてすぐさま後悔する、俺は悲惨な光景を目撃するのだ、例えば母親が首を吊っているシーンとか、血溜まりの中で何人もの赤ん坊が横たわっている場面とか、次々と牛が屠殺されていく映像とか、大抵の場合は取り返しのつかない死のイメージで、とにかく見たくもないものを見てしまうのだ、だが俺は視線を外せない、身体は硬直し、瞼を閉じることもできずに、延々とその光景を観察しなければならない、そのショックで覚醒すれば良いものの、俺は目覚めようともしない、無限とも思える時間が過ぎていく、網膜に焼き付くヴィジョン、それは脳に転写されて忘却が許されない記憶となる、俺の心はどんどん摩耗していく。
 目覚めのタイミングは不意に訪れる、俺は嗚咽しながら現実に引き戻される、気怠さと、全身を襲う痛みこそがリアルだ、それは自分が生きている確かな証拠というやつで、リストカットと同じような意味であることに気付かされる、俺はまだ曖昧な意識の中で手首に空いた穴を見つめる、今はただの点でしかないこの穴は、そのうち俺を隈なく闇に飲み込んでいくのだろう、そして世界は俺を中心として裏返り、新しい宇宙に再構築される、それは案外悪くないのかもしれない、朝の灼けた太陽は白く光り、あらゆるものの輪郭をぼやけさせる、獣の独特な臭気が俺を包み込んでいる、老犬は俺が起きるまでその場を動くことなく、ぽってりとした腹を差し出してくれていた、数羽の鴉が電線にぶら下がり、ゴミ出しの奥さんの動向を窺っている、あの、と恐る恐る俺の顔を覗き込む少女が現れる、小学校低学年くらいに見えるが顔の造形は大人びていて、水色のワンピースにエナメルの靴、ウェーブのかかった長い髪をまとめるピンクのカチューシャ、肩に掛けたハートのポシェット、まるで童話の世界から飛び出してきたメルヘンの象徴のような美しい少女だ、まさかこのボロアパートの住人ではないだろう、保護者の姿もなく一人きりで、懐中時計を持ったウサギの穴に落ちてしまった小さな冒険者といった佇まいだった、少女は頬を赤らめて恥ずかしそうな態度で、しかし瞳には強い信念のようなものを湛えて、その犬、わたしのお父さんじゃないかと思うの、ほら、おでこのところに星のようなしるしがあるでしょ? きっとそうよ、お父さんだわ、少女はやけに芝居がかった口調で俺をファンタジーに誘い込む、確かに老犬の額には一センチほどの抉れた古傷があるが、俺には到底それが星の形には見えなかった、しかし少女が星と主張する限りあくまでも星なのである、少女がこの老犬を父親と呼ぶならばそれもまた真実なのだろう、お兄ちゃんは飼い主さん? お願いがあるの、お父さんをお家に連れて帰りたいの、きっとお母さんも喜ぶわ、きっとよ、お母さんはずっと病気なの、それはお父さんがいなくなっちゃったせいなんだけど、わたしはお母さんに元気になってもらいたいの、わたしに出来ることなんてこれっぽっちもないけれど、お父さんがお家に帰ればお母さんはすっかり良くなると思うし、わたしも嬉しいわ、テーブルを囲んでごはんを食べたり、ふかふかの毛布で一緒に眠ったり、お休みの日には家族で旅行したりするの、わたしね、行ってみたいところがあってね、図書館の絵本で読んだんだけど、外国には一日中お日様が沈まない場所があるんだって、お兄ちゃんは知ってる? ずっと夜が来なければ怖い夢を見なくて済むわ、だからね、お兄ちゃん、お願い、お父さんをわたしたちに返してくれる? お願いよ、少女は両手を胸の前で握り合わせ、無理やり瞳に涙を溜めている、その仕草からは子供らしい純粋さは感じられず、どちらかというと俺が善人であるかどうかを値踏みするような狡猾さを秘めていた、少女が俺を翻弄しようとしているにしろ、虚言と夢想に彩られたおままごとであるにしろ、この老犬を手放す良い機会なのではないかと考えた、俺にはこいつの主人たり得る資格があるとも思えなかったし、確かこのアパートではペットの飼育が禁止されている、老犬には悪いが俺は手を引かせてもらいたい、しかし問題は老犬が少女を自分の娘であることを認識しておらず、大きなあくびくらいしか反応しないものだから、俺は少女にイエスでもノーでもない微妙な表情しか返してやれなかった、鴉たちがゴミを漁り始めたせいで生臭いにおいが立ち込め、少女は苦い顔をしている。
 生気のない顔の男と、漫画のような格好の少女と、薄汚い老犬というアンバランスな組み合わせの一行は、山手の新興住宅地を目指して歩いていく、老犬を少女に預けて俺は女の部屋に戻るはずだった、シャワーを浴びて、またセックスをしてから、女が仕事に行くのを見送る、仮眠を取ったり映画を観たりして暇を潰す、飽きたらアパートに帰って掃除でもして、くだらない日常をやり過ごす、それでよかったのだ、しかし老犬は俺の行く先に必ず付いて来ようとして、その老犬を少女は追い回すものだから、結果的に俺は少女が進むべき道を先導しなければならなかった、厄介なことに巻き込まれてしまったが、成り行きに逆らえないのが俺の悪い癖だった、駅に向かう学生やサラリーマンがじろじろと俺たちを睨み付けて通り過ぎていく、その視線に気付いているのかいないのか、少女はスキップをしたり、くるくると回転しながら鼻歌を唄ったりして、この珍道中を楽しんでいるようだった、ポーチからキャンディを取り出して口に含み、時折俺たちに膨らんだ頬を見せびらかす、ラブホテルが数軒並ぶ川沿いを抜け、雑草だらけの公園と巨大な墓地を過ぎた辺り、立地の悪さからなかなか買い手のつかない造成地にぽつんと建つ一軒が少女の家だった、表札はなく、庭には鉢植え一つ置かず、窓にはカーテンもなく、生活感のない無機質な佇まいで、世界からそこだけが切り取られているみたいだった、少女は玄関の扉を開けて俺たちを誘うが、老犬はなぜか怯えて小便を垂れている、俺は躊躇しながらも中に入って靴を脱ぐ、少女は土足のまま長い廊下を駆けていき、突き当たりの部屋に消えていった、室内からも人が住んでいる気配は感じられず、ちらりと覗いたリビングには革張りのソファと小さな丸テーブルに名前もわからない奇抜な花が活けられているだけだった、テレビもないし、生活のあらゆる痕跡のない殺風景な家だった、俺は仕方なく少女を追って奥の部屋に入ることにした、窓から差し込む刺々しい陽光の真ん中でパイプベッドに一人の女性が横たわっている、陰影が死を連想させるが、少女が枕元に頬を寄せて耳打ちするたびに女性は小さく顎を揺する、瞼は閉じられたままで唇の隙間からゆっくり呼吸している音が聞こえる、少女は老犬の様子を見に再び玄関まで戻ってしまった、長い沈黙、俺はどうすればいいのかわからなくて女性の横顔を見ていた、整った鼻筋と白く輝く頬は少女に似た面影で、おそらく彼女が母親なのだろう、長い髪は枕とシーツに放射線状に広がり、毛先がベッドの縁に垂れ下がっている、身じろぎ一つせず、ピンクの薄いパジャマの胸元が上下するだけで、眠っているのだとしたら俺がここにいる意味はない、そもそも俺にはそんな義理もない、わざと咳払いをしてから扉のノブを回すと、ごめんなさい、娘がご迷惑をお掛けしたでしょう? 私がこんな状態なものですから、なかなかあの子を構ってあげられないんです、夫はあの子が四歳の時分に他界しました、あらゆる臓器に穴が空くという珍しい病気で、最後は苦しみながら死にました、夫は古くから続く名家の三男でした、あまり詳しく話してはくれませんでしたが、本家とはほぼ絶縁状態で、私も夫が亡くなるまで親族の方とはお会いしたこともありませんでした、夫は病院で亡くなりましたが、すぐに夫の兄だと名乗る方が駆け付けて、弟は土葬する、それがうちのしきたりだ、と言って遺体は本家に運ばれていきました、本家の敷地には広大な墓地があって、そこには代々の祖先が土葬されているそうです、二メートルほどの深い穴が掘られていました、亡骸は棺にも入れられず、白装束に、ご丁寧にも額に三角の布が巻かれた状態で、夫は穴の底で両手を組んで静かに眠っていました、親族が次々とスコップを手に取り、足元から土を被せていきます、私はどんどん土に埋まっていく夫の姿が不憫に思えて、その場でずっとへたり込んでいました、娘はというと、じっと穴の中を見ていました、死という概念すら認識していない幼子だった娘は、自分の父親が土に塗れていく様をどのような気持ちで見ていたのかはわかりません、泣きもせず、その光景を黙って眺める娘に対して、私は何も言えなかったんです、物心がつくようになってから、あの子は周りのあらゆるものに父親の影を見るようになりました、新聞の勧誘で訪れたおばさんを家に招き入れて、お父さんが帰ってきたよ、と嬉々とした表情で私に言いました、ある時はお友達の家からペットのハムスターを持ち帰って、それを父親に見立てて食卓を囲むこともありました、先週はどこかから拾ってきた自転車のサドルでした、消しゴムの欠片やスーパーのビニール袋だったこともあります、どれもあの子にとっては紛れもなく父親なんです、そうさせてしまったのは私のせいなんだと思います、私も夫と同じ病気なんです、穴が空いて穴に埋められる運命なんです、少女の母親は身体を起こすことなく、瞼も閉じた状態で一頻り話をすると、今度こそ本当に眠ったのか、静寂の中で俺が扉のノブを回しても何も言わなくなった、結局俺は肝心なことは一つも理解できないままだった、妙に喉が渇いていて、勝手にキッチンに入って水でも貰おうと思ったが、グラスは見当たらず、そもそもシンクの蛇口を捻っても水なんか出る気配もなかった、俺は靴を履き、庭先で少女と老犬がじゃれ合っている姿を横目にしながら、気付かれないようにアパートに帰ることにした。

 アパートに近付くにつれ消防車のサイレンが鳴り響き、黒い龍の形の煙が濛々と上空に立ち昇っていくのが見える、嫌な予感はしていた、昨夜から面倒なことばかりが俺に降り掛かっていて、それはきっとこの手首の穴のせいだ、穴はどんどん広がっている気がする、何かが決定的に失われていく感覚、辺りに人だかりができていて、奥の方から焦げ臭いにおいが風に乗って染み渡っていく、俺は群衆の隙間を掻き分け、まさに火炎に包まれていくアパートの残像を呆然と眺めた、金切り声を上げながら建物が焼かれていく、ホースから噴射された水は場違いな虹を作り、人々は固唾を飲んでその一部始終を観察している、俺も成す術なく立ち尽くすしかなかった、でっぷりと太った禿げ頭の男が切迫した表情で俺の手を握り、あんた、生きとったんですか、全く見覚えはなかったが、話し振りから推測するにこのアパートの管理人らしかった、何年も前に契約のやり取りで数回会ったくらいなものだが、俺のことを覚えてくれていたみたいだった、管理人の親父は、熱気のせいか、あるいは焦燥感がもたらすものか、額からとめどなく汗が溢れて、それがすべて目尻に溜まって、ほとんど泣いているように見えた、ホンマに大変なことになってしもうて、ぼくもどうしたらええもんか、ほとほと困り果ててるんです、えらいことに中にまだ何人か残ってるそうなんですわ、救助するのも難しいって話でね、ぼくの責任やないとしても、なんかやりきれん感じでね、今まさにあそこで人が燃えてるわけやからね、それにしても、あんた、よう生きとったですわ、生きてるゆうのはええもんですな、死んだらおしまいやからね、住人の皆さんは気の毒やけどね、こればっかりは真理やと思いますよ、ぼくもね、まあ大した人生やないけど、何度かこれは死ぬんちゃうかって思うような経験があってね、ぼくがガキの頃は、まだ踏切に遮断機なんか付いてへん時代でね、カンカンカンカンゆう警報は鳴るけども、鼻垂れたガキはそんなんいちいち気にせえへんもんでね、危ないってのも知らんと線路に寝転んで遊んだりしてね、ほいだら電車に轢かれてもうてね、全身の骨がバラバラになって、家族もみんな、こらもうアカンで、助かれへんで、言うとったみたいなんです、せやけど不思議なもんでこうして生きとるからね、それから二十歳くらいの時分かなあ、博打やら女遊びやら、アホやから振る袖もあらへんのに道楽しとったんですわ、ほいだらぎょうさん借金抱えてね、あ、こらもう死ぬしかあらへんわ、思て自殺しようと考えたんですわ、三畳間の下宿で鴨居に縄掛けて首吊って、お父ちゃん、お母ちゃん、ごめんやで、とか呟いて、死んだんですわ、ぼく、せやけどこれも不思議なもんで、たまたま部屋の前を通り過ぎようとした下宿のおかみさんがぼくの最期のアホな台詞を聞いて、扉を開けたらまさにぼくが首吊った瞬間やってね、すぐさま引き摺り下ろされて一命を取り留めたっちゅうことですわ、それからというもの、これは神様に生かされとるんやと思て、お父ちゃんの稼業を継いで、がむしゃらに働くようになってね、ギャンブルの才能はあらへんけど商売の才能はあったみたいで、借金も屁みたいなもんですわ、ただねえ、女運は悪いみたいで、べっぴんのカミさん貰たのはええねんけど、これがまた嫉妬深い奴でしてね、浮気でもしようもんなら、そらもう非道いもんで、この前も包丁振り回してはぼくの腹やら何やら滅多刺しにしよるんですわ、さすがにこら死ぬやろ思うくらい血がドバドバ出よって、意識は朦朧としてね、身体中に穴が空いとるわけやからね、せやけど面白いもんで、まだこうやってピンピンしとるからね、生きてるからね、ええもんです、管理人がそそくさと立ち去った後、新たに到着した救急車やパトカー、近隣住民の一団が騒然となり始め、俺は居場所を失って、仕方なくその場を離れることにした、女のところに戻ることもできたし、あるいは老犬の様子を再び覗きに行ってもよかった、だが俺はそのどちらも面倒に思えて、目的もなく歩いていく、俺は生きている、それが良いことなのかどうか、まだわからない。

 駅前の商店街は平日の昼間にしては賑わっている、昔ながらの肉屋からはコロッケを揚げる匂い、ネジしか置いていない小さな店の前でランニング姿の主人がいびきを上げている、何度か通ったことのあるラーメン屋はいつの間にか不動産屋になっていた、シャッターの下りた元おもちゃ屋、年がら年中閉店セールをしている靴屋を通り過ぎていく、俺はこれからどこに向かうべきなのか、何をすればいいのか、全く見当がつかなかった、少しでも自分に目的を与えようとパチンコ屋に入ろうとしたが、店内改装による休業を知らせる貼り紙が不粋にはためいていて、いつもは煩い看板の電飾も今日に限っては存在感を消している、ふと見上げるとビルの二階に新しく歯医者が開業しているのに気付き、俺はズボンのポケットから財布を取り出して、大量のレシートやポイントカードに埋まっていた保険証を手に薄暗い階段を上っていった、自動ドアが開くと中からマーヴィン・ゲイをオルゴール・アレンジした音楽が聞こえてくる、ピンクと白を基調にした内装は洒落た雰囲気ではあったが、口腔内に潜り込んでしまったような悪趣味さをも秘めていた、受付を済ませてパイプ椅子が並ぶ無機質な待合室で、壁に備えられた大型モニターから流れる映像をぼんやりと眺める、サバンナで一匹の象が水浴びをしながら糞をしている、その様子を延々とスローモーションで撮影しただけの意味のないドキュメンタリーだ、隣に座っていたおばさんが独り言のように、これは人生のメタファーね、わたしにはわかるわ、身なりはフォーマルでありながら紫色のパーマと幾重にも塗り重ねられた化粧が下品な印象を与えている、これから歯科医の診察があろうにも関わらず菓子パンを頬張っている、大体のものは何かの比喩で、何かの高尚な意味があって、それが集まって世の中はキラキラと彩られているの、別にこれはスピリチュアルな話ではなくてね、誰も意識的に考えたりしないけど確実なことなのよ、わたしは何年も前にお医者さんに余命宣告を受けたわ、肺に深刻な癌があってね、一ヶ月も保たないだろうって、わたしは絶望したけれど、それでも残された命を燃やし尽くそうと思ってね、家族と過ごす時間を大切にするようにしたし、老後のために貯めていたお金を派手に使って豪華な食事をしたり、主人に高価な腕時計を贈ったり、自らお葬式や墓石の準備をしたりもしたのよ、でもね、いつまで経っても身体に不調もなく、差し迫った死に対する恐怖だけが何ヶ月も募るばかりで、一向に死ぬ気配なんてなかったわ、もしかしたらヤブ医者に出鱈目を突き付けられたのかもしれないと思ってね、別の病院で改めて検査してもらったの、大量に血液を取られて、何枚ものレントゲンを見比べて、弾き出された答えは相変わらずの末期の肺癌で、余命一ヶ月というのは覆されなかったわ、それからわたしは何度も残りの一ヶ月を過ごし、あらゆる病院で、あらゆる医者に、あらゆる検査をしてもらって、わたしの癌はその度にリセットされて、わたしの余命はいつも同じところで巻き戻されるの、永遠にわたしは死ぬことがなくて、同じ一ヶ月を繰り返し生きるだけ、ある時わたしは気付いたの、わたしは病に侵されているんじゃなくて、メタファーなんだって、エッシャーの騙し絵みたいなものかしら、無限に上る階段よ、わたしの癌は象徴でしかなくて、ただひたすら死のプレッシャーを与えるためだけの比喩なんだわ、おばさんはモニターに映る象の断続的な糞から目を離さずに、菓子パンを食べ終え、今になって俺の存在を認識した様子で、恥ずかしそうな表情で会釈をした、俺はつられて頭を下げたが、顔を戻すともうおばさんはそこにいなかった、ハイエナが小鹿の内臓を食い散らかす映像に切り替わっている。
 名前を呼ばれて診察室に入る、眼鏡とマスクと手術帽ではっきりと人相はわからないが、俺とさほど齢の変わらないであろう若い医師が両手に歯科ドリルを携えて鎮座していた、俺は治療椅子に横たわり、紙コップに注がれた水で口を漱ぐ、硬いシートの感触と乱反射するライトの強い光、薬品の酸っぱいにおい、乱雑に並べられた金属製の器具たちが俺を威圧する、医師は小さく咳払いをした後、ラテックスのゴム手袋を嵌めた長い指で俺の口角を押し広げ、あなたは何をしにきたんですか? 治療が必要な虫歯もないですし、歯肉も綺麗で正常です、幾分かの歯石除去とヤニで黄ばんだ部位のホワイトニングくらいならやりますが、見たところあなたはもっと別の治療が必要なのかもしれませんね、私は開業医になる前、一年間ある大学病院で臨床研修をしていたのですが、そこで出会った不思議な患者さんの話でもしましょうか、少しお時間を頂戴しますが、きっとあなたの役に立つと思いますよ、その患者さんは臼歯に穴が空いていて、虫歯の跡なのか先天的なものなのかは結局はっきりとはわかりませんでしたが、そこから声が聞こえるので何とか治療して欲しいということでした、私は少なからず失笑しながらも、これも一つの経験だと思いました、患者さんの心のケア、不安材料を取り除いてあげることも医師としての使命ですからね、適当に詰物をした上で、これで大丈夫ですよ、もう声なんて聞こえませんよ、と言ってあげれば患者さんも安心するだろうと軽く考えていました、しかしどうでしょう、いざその穴を調べてみると確かに声がするのです、最初は患者さんの呻き声か喉を鳴らす音だと思いました、あるいは屋外の通行人の雑談とか、病室から漏れ聞こえるテレビの音とか、もしくは先入観からくる幻聴かもしれないと推理しました、ですがそれとは明らかに種類の違う、ざらついた声で何を話しているのか見当もつかないのですが、明らかにこちら側とコミュニケーションを取ることを目的とした声がしたのです、私は立場上オカルトや非科学的なものは信じない質でしたが、本能的なインスピレーションと言いますか、その声がこの世のものではない異形であることを理解してしまったのです、恐ろしさで私の手は震え、段々と意識が遠のいていきました、先輩医師が私の肩を揺らすまで、私は異形の声となにやら会話をしていたようでした、気付くと患者さんの臼歯の穴は塞がっていました、それは美しい処置でした、誰の仕業なのかはわかりませんが、患者さんが起き上がって私の手を握りながら謝辞を述べていたので、おそらく声は聞こえなくなったのでしょう、何度も私に頭を下げて処置室を出て行きましたが、私は呆然としていただけでした、なぜなら私にはまだその声が聞こえていたんです、むしろさっきより明瞭に、何かの単語を延々と呟く低い声、無意味な羅列、私を脅かす悪魔の詩でした、さて、数日後その患者さんは自殺しましたが、この話には一つだけ嘘が隠れています、わかりますか? ああ、いえ、あなたを混乱させようという意図はありませんよ、ですがこの問いこそが今あなたが抱えている困難や懊悩の本質であるというのが私の見解です、若い医師はそう語りながらマスクを顎までずらし、大きく口を開いて自らの臼歯のあたりを指先でこつこつ叩いた、そこに穿たれた穴と、俺の手首の穴は、きっと同じもので、同じ因果で、同じ憂鬱を象っている、若い医師は俺の肩を数度優しく撫で、そのまま奥の部屋に戻っていった、取り残された俺は溜まった唾を吐き出して、手首の穴から声が聞こえるかどうかを確かめた、静かな唸りだけが渦巻いているようだった。

 商店街の端までふらふら歩いていくと、突き当たりに駅がある、俺は誘われるように改札を通り、各駅の列車に乗り込んだ、車内には人気もなく、整然と並んだ吊革が列車の揺れに合わせて右往左往するくらいだった、放置されたままの週刊誌をぱらぱらと捲り、くだらない文言と落ちぶれたアイドルのヌードを眺め、それに飽きたら窓の外に目を向けて電線がゆっくり流れていく様子をひたすらに辿っていった、二駅目でようやく杖をついた婆さんが乗ってきて、向かいのシートに腰を下ろした、婆さんの身体はほとんど直角に曲がっていて、座ると俺からは頭頂部しか見えない、持っていた杖は足元に置き、小さく収縮していく、その姿は生きることに絶望しているようだった、深い溜息と震える手に浮いた無数のシミ、車掌のアナウンスに耳を傾けてはいるが、外れた補聴器が床に転がっている、これまでの成り行きを思い返すなら放っておくべきだったのかもしれないが、俺は無意識に補聴器を拾い上げ、袖口で軽く汚れを拭って、婆さんの耳に戻してやった、ああ、すいませんねえ、これがないと何も聞こえやしないのに、あるかないかも自覚できないんですよ、本当に嫌になります、こんなに歳を取るなんて思ってもみませんでしたよ、私は十八の時に結婚しまして、夫は子種も残さずにビルマで戦死しました、後を追うこともできましたけれど、若い私は自ら死を選ぶことの恐ろしさに耐え切れず、かといって独りぼっちで生きていくほどに強くもなく、逃げ場を探し続ける日々でした、間もなく戦争が終わり、私は生活のために駐屯の米兵に体を売るという汚らわしい仕事を始めました、自暴自棄になっていたとも言えますし、もっと別の歪んだ感情に突き動かされたのだと思います、私は毎晩のように米兵の太く長いペニスに貫かれることで自分を殺し、仕事が済むと家に帰って夫の位牌を抱いて眠りました、朝になると私は生まれ変わって、夫のために味噌汁を作り、家の隅々まではたきを掛け、髪を結い、たまには紅を引いたりして、陽が沈むまでお座敷に正座し、お帰りなさいませ、お疲れでしょう、などと貞淑な妻らしい言葉を口の中で何度も反復して、夫の帰りを待つのです、けれどいつまで経っても夫は戻りません、夜は更け、煮付けた魚は乾涸び、私の髪もくたびれ、そしてふと夫が死んだことを思い出すのです、私は絶望感に満たされながら下品な洋服に着替え、米兵がたむろするカフェに向かい、客を物色するんです、その繰り返しですよ、ある夜のことです、いつものように私は客を取りました、大抵の男は行為の後に自分語りをします、ラバウルではどうのこうの、ミッドウェーではどうのこうの、自らの戦果や勲章について、聞きたくもないのに勝手に話し始めるんですよ、その夜の男はビルマで日本人を何人も撃ったと言い始めました、無様なジャップども、悲しきイエローモンキーの死の舞踏に笑いが止まらなかった、私は英語は流暢ではないですが、そういう意味のことを唾を飛ばしながらのたまっていましたよ、私は男が御手洗いに行っている隙に、コートの中に隠し持っていたピストルを構えて、男が鼻歌を唄いながら部屋に戻ってきたところを三発撃ちました、最初の二発は壁に当たりましたが、最後の一発が男の眉間を貫きました、どっと血が噴き出て辺りが真っ赤に染まりました、壁や床や天井に隈なく広がって、それは夕焼けのような寂しさでした、男は立ち尽くしたまま絶命していました、ひとしきり血が流れ終わると、男の眉間にはぽっかりと穴が空いていました、その向こう側で夫が手を振っているのが見えました、物憂げな苦笑いを貼り付けて、私の名前を呼んでいました、ああ、愛しい夫、私は一応の復讐を遂げたことで解放されたのです、まあ、その後のことはお察しください、決して幸福な人生ではなく、ただ齢を重ねて、死ぬに死ねないわけですから、終点のアナウンスが聞こえてドアが開き、俺は婆さんの昔話を途中で切り上げて電車を降りた、初めて来る駅だった、出口がどこにあるのかもわからず、三十分ほど無駄に構内を歩き回って、ようやく改札を出る頃には俺は疲弊しきっていた、普段からの運動不足が原因でもあったが、もっと精神的な、神経が摩耗してぺらぺらになっていくような、たちの悪い気怠さが俺を侵食していた、眠気と頭痛もあった、喉の奥に何かが詰まっているような感覚もした、駅前のファストフード店に入って熱いコーヒーを頼み、カウンターに突っ伏して手首の穴を覗いてみた、やはり穴は広がっていて、さらに深くなってもいた、向こう側は見えず、誰かが手を振っているわけでもない、例えばこれは俺の心の欠けた部分が表面に現れたと仮説を立てることもできる、いや、あらゆる穴という穴が、その人にとっての欠落を象徴しているのだとしたらどうか。

 コーヒーを飲み終えた俺は、知らない街の知らない空気を吸う、噎せ返る季節の熱が身体を火照らせていく、それは昂揚感を呼び起こし、焦燥感を募らせた、駅前の案内板を隅々まで精査していくと、海まで二キロも離れていないことがわかったので、俺は潮のにおいを求めて歩いていくことに決めた、この辺りは確かリゾート地として有名で、あちこちから温泉の硫黄臭が漂ってくる、本格的に夏になれば人で溢れるであろう通りは、まだ静けさに支配されていて、土産物屋は軒並みシャッターを下ろしたままだったし、喫茶店の入口前に置かれたソフトクリームのオブジェは蜘蛛の巣と鳥の糞でマーブル模様を描いていた、誰の気配も感じられず、まさか俺だけが捨てられた都市に迷い込み、細菌と放射能にまみれて刻々と死に近付いているのかもしれない、などと妄想に耽ってみるが、通り過ぎるバスの運転士にクラクションを鳴らされ、慌てて歩道の隅に立ち竦んだりした、白い砂が敷き詰められたビーチに着き、波打ち際で寄り添いながら悦に入っているカップルと、突き出た岩場で無心に糸を垂らす釣り人の姿を確認する、彼らもまた世界から弾き出された放浪者なのだろうか、片目の潰れたカモメが砂浜に三角形の足跡を付けていく、俺は木陰に設置された鉄製のベンチに座り、向こうから一人の少年が駆けてくる様子を見ていた、裸足で、手にはプラスチックのスコップを握りしめている、十歳かそこらだと思うが、大人びた相貌でありながら子供らしい坊主頭で、そのアンバランスな容姿のせいか、俺は少年の動向に気を取られていた、少年は打ち上げられた海藻の束を海に戻して、その空いたスペースを一心不乱にスコップで掘り始めた、時折ちらちらと周りに注意を配りながら、砂を掬い、脇に放り、掬い、放り、を繰り返している、長い時間をかけて掘り進めた功績は、少年の側に堆く積まれた砂の量を見るとわかる、それをひたすらに眺めている俺もどうかと思うが、他にすることもなく、海からの風を頬に感じられるのが心地良かった、やんわりとした眠気が訪れ、目を閉じようとしていると、少年が手招きをしているのに気付いた、俺の背後に家族でもいるのかと振り返ってみたが浜辺に佇む人影もなく、どうやら俺を呼んでいるらしかった、お兄さんも一緒にやろうよ、ほら、スコップならもう一つ持ってきてるんだ、ね、いいでしょ? 僕一人じゃ日が暮れちゃうよ、これはね、落とし穴なんだよ、深く深く掘らなくちゃいけない、そう決めてるんだ、大人がすっぽり埋まっちゃうくらい深くね、去年の夏も同じように落とし穴を作ったんだけどさ、思ったようにはできなかったんだよね、僕には双子の妹がいて、顔は全然似ていないけど考えることは同じで、いつも同じタイミングでお腹がすくし、同じタイミングでトイレに行きたくなるし、同じことで笑って、同じことで怒って、同じ夢を見るんだよ、改めて考えると不思議なことだけど、僕らにとってそれは普通のことで、双子だからしょうがないよねって、いつも二人で共有していたんだ、その夏も僕は妹と協力して落とし穴を掘っていてね、一日中砂を掻き分けて、ちょうど僕の背丈くらいまでの大きな穴になった、僕らの計画はさらに深く掘り進めて、お父さんやお母さんをそこに埋めてしまうことだったんだ、でもそれは失敗しちゃうんだ、なんの予兆もなく大きな波が砂浜を覆って、僕は足を取られて数メートルほど海に引き摺り込まれてしまって、あわや溺れる寸前まで意識が遠のいていったんだ、幸いなことに返す波が僕を浜まで運んでくれて事なきを得たものの、あんなに一生懸命掘った穴も、あんなに無邪気な笑顔を僕にくれた妹も、一瞬にして消えてなくなってしまっていた、海水のしょっぱい味がした、妹は沖に流されたのか、それとも穴に落ちて埋まってしまったのか、はっきりとはわからないけど、死体が出てくることもなく、この世から消えてしまったという事実だけが残った、僕はね、自らの分身でもある妹を取り返したいんだ、そのためには海の神様に代わりの魂を捧げなくちゃならない、僕はまだ子供だから、どうすればいいのか本当はわからないけれど、こうやって落とし穴を掘って、誰かが嵌って、その人の魂の対価として妹が、僕の大切な片割れが、蘇ることを祈って、何度も挑戦するしかないんだ、何度でも、僕は、少年は穴の底に手を伸ばし、砂に埋まった妹の腕を掴み上げる仕草をして、そのまま天に掌を翳したまま動かなくなってしまった、俺はスコップを少年の側にそっと置き、振り返らないようにしながら海風が強い方に歩いていった、沖に浮かぶ漁船が悲しみの汽笛を鳴らす、おうおうおう、と。

 ビーチを抜けて海岸線に沿う国道を歩いていく、潮のにおいは硫黄の刺激臭に掻き消されて鼻の奥が苦い、古びた立て看板が岬までの道のりを案内してくれている、それに従って俺は錆びた手摺を辿りながら進んでいく、眼下は切り立った崖の様相で、白い泡を纏った荒っぽい波が岸壁をひっきりなしに殴打している、季節が変わったかのように強い風が吹いて俺の睫毛を乱暴に震わせる、思っていた以上に道のりは遠く、結局一時間ほど歩かなければならなかった、緩やかではあったが勾配もあって、岬に着く頃には俺の足は膨れ上がって鈍い痛みを伴っていた、そこには二メートルほどの長方形の黒い石碑があって、恋人同士で手を繋いで石の表面を撫でると永久に愛が続くというパワースポットとして人気だそうだが、実際はここで身を投げた地元の名士のために建てられた慰霊碑であった、一人の男の死は時代を経て若者のくだらない迷信として消費されるというのも皮肉なことだ、だがそれはもしかすると、ここで同じように自殺しようとする絶望の若者たちへの牽制のために、誰かがわざとそういう噂を広めたのかもしれない、死に向かうエネルギーを陳腐なベクトルに変換するとラヴ&ピースになる、といったことを俺の嫌いなミュージシャンが歌っていた気がするが、あながち間違いではないのだろう、俺はたった一人で石の艶々した触感を楽しんだ、それでも未だに年に数人はここで身を投げるという話。
 俺が歩いてきた道とは別に、鬱蒼と茂る森の方に伸びる小道があって、誘われるように俺はそちらに向かっていった、整備されているわけではないが人が通った痕跡がしっかりと残っている、名前もわからない多種多様の雑草と、無数に飛び散る虫たちを避けながら、どんどんと奥まで分け入っていく、帰り道がわからなくなるくらいなら戻るつもりでいたのだが、ひたすら真っ直ぐ進むとこじんまりとした洞窟があって、俺は妙な不気味さを背負いながらも穴に潜り込んでいた、そこは薄っすらと外の光が射しているが、注意深く目を凝らさないと自分の輪郭が曖昧になる程度には暗闇が広がっていた、生温くじめっとした空気、岩肌の濡れた苔、粒子の細かい砂が地面に敷かれていて、靴で踏むたび歯軋りのような音が鳴る、俺は少し後悔していた、それは本能的なもので、何か決定的なものが奪われていく恐怖を感じていた、俺は踵を返してすぐに洞窟から抜け出すべきだったのだ、手首の穴に鈍痛が走る、穴の面積は大きくなっているように思える、押し潰されていく、圧が、のしかかる、重く、全身が飲み込まれる、ほどの、何か、これは、何だろう、この、俺は、おい、聞いているか? 俺だよ、紛れもなく俺だ、おい、ちゃんと聞いているよな? 振り向いても誰もいやしないって、喋ってるのは俺なんだからな、別に不思議なことじゃない、誰にだって起こり得る、ちょっとした誤差ってやつだ、普遍的な世界のズレ、日常で不意に訪れる小さく狂える病さ、俺が穴を覗くとき、同時に俺が穴の奥から覗いているんだ、それは単純なことだ、例えば俺は幼い頃、眠りにつく際、天井のシミが描く模様を誰かの顔に見立ててたくさん話をした、そうだろう? いつも優しい母親の顔を重ねたり、近所の同年代の子供の憎たらしい顔だったり、いとこの姉さんの美しい顔だったりもした、だがある日そこに自分の顔を見た、しかも普段鏡で確認するような幼く無邪気な少年らしい表情ではなく、凶暴で醜悪な形相の俺自身を見たんだ、恐ろしくて眠れなかったのを覚えているか? 涙が溢れ、うまく呼吸もできず、初夏の蒸し暑い夜にも関わらず身体はずっと震えていた、か細い声で母親を呼ぶが、食器を洗う水道のノイズで母親の耳には届かない、視線を逸らしたいのに全身が痺れて動けず、かといって目を閉じれば、その瞬間俺そのものは天井に磔にされてしまうような気がして、いつまでも睨み合っていた、俺はね、そういう体験こそ必要だと思うんだよ、トラウマとか、そういうことじゃないぜ、自分と世界の境界線を知ること、夢と現、生と死、そういった相反する事象が実は同じ次元で揺らめいているということ、混沌としていて区別できないこと、俺はそのとき考えた、そうだな? だから、な? 裏返してみればいいんだ、この素晴らしき世界の反対側だ、ぐるり、と、その穴を抜けていけ、ほら。

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 ほら、と背中を押された気がして振り返ってみたが、そこにはただぼんやりとした影しかなく、首の付け根が生温い空気に晒されるだけだった、俺は急いで洞窟を出た、辺りには独特な悲壮感が漂っていて、来た道を戻っているはずが全く別の景色に迷い込んだ気になる、見たこともない色のキノコの群生を踏み付けながら、石碑のある岬に抜け出した、帰るには一時間の道のりを再び辿らなければならないのかと思うと憂鬱でしかなかったが、折よく停留所にバスが止まっていて、俺は慌てて車内に乗り込んだ、乗客はおらず、俺が座席についた途端に扉は閉まり、アナウンスもないまま運転士は静かにバスを発進させた、知らない地名ばかりが並ぶ路線図を眺め、どこで降りるべきかを思案した、俺は眠りたかった、できれば柔らかい女の乳房に顔を埋めながら、昨日のことや今日のことや明日のことを何も考えずに、深く深く眠りたかった、見覚えのある住宅地に絡み合う電線を目で追いつつ、開け放した窓から徐々に強くなる潮の香りを確かめて、次降ります、のボタンを押した、太陽が傾斜していくのに合わせてバスはスピードを落とし、ビーチのそばの停留所に止まる、俺は小銭を何枚か精算機に入れ、前を向いたままの運転士に軽く会釈をしてからバスを降りた、次の乗客が来るまでバスは動かないつもりのようで、後続の車がクラクションを鳴らしながら追い越していく。
 ビーチには相変わらず肩を寄せ合うカップルと、釣り人の姿しかなかった、落とし穴を掘っていた辺りにぽつんとしゃがみ込んでいるのが例の少年だろう、堆く積まれていた砂は跡形もなく、作業に徹して穿たれた穴も既に埋められていた、少年は俺に気付いて顔を上げ、泣き腫らした瞳を向けてぎこちなく笑った、全身にこびり付いた砂を払うこともせず、突き立てられたスコップの柄の周りを隻眼のカモメがよたよたと歩いていた、やあ、お兄さん、僕の計画は成功したよ、だけど同時に失敗でもあった、あれから僕はずっと掘り続けて、ひたすらに掘り続けて、やっと大人がすっぽり嵌るほどの大きな落とし穴ができたんだ、遠くの方で五時を告げるチャイムが鳴った、お父さんとお母さんが僕を迎えに来る、手を振る僕の方にゆっくりと近付いてきた、僕はわざと急かせるように二人を誘った、お父さんは困ったような顔をしていたけど、お母さんが小走りになって、お父さんもそれに続いた、まずお母さんが悲鳴を上げて穴に落ちた、お父さんはそれを見て足を止めようとしたみたいだけど、勢い余ってやっぱり落ちていった、僕は穴の中を見ないようにしながら砂をかけていった、お母さんは中で足を挫いて痛がっていた、お父さんは怒気を含んだ声で僕の名前を呼んだ、僕は聞こえないふりを続けて、両手両足を使って滅茶苦茶に砂をかけていく、掘った分だけ埋めていく、陽射しが強くなってきて僕は頭から爪先まで汗に塗れて、熱くなった砂が掌を焼いていく、けれど僕はこんなところで諦めるわけにはいかなかった、お父さんは段々と懇願するように優しい言葉で僕を宥めるようになった、お母さんは呻いているだけで何も言わなかった、僕は一心不乱にひたすら作業を続けた、どれくらいの時間そうやっていたのかはわからない、気付くと穴はもう埋められていて、お父さんの声もお母さんの声も聞こえなくなっていた、任務は遂行されたんだ、海の神様に魂を捧げる儀式だよ、だけど妹は帰ってこなかった、ただ波が打ち寄せるだけで、僕の大切な妹はどこにもいなかった、どこにもね、少年は陽が沈みかけた水平線の方を目を細めて見ている、日焼けで赤く滲んだ背中に大きな穴が空いていて、中から四本の大人の腕と、二本の子供の腕が伸びていた、それらは俺のシャツを掴み、もがき、爪を立て、やがて力なくだらりと垂れ下がったかと思うと、野良犬を追い払うような動きで手首を振った、俺は駅に戻ることにした。

 まだ明るい時間ではあったが、ぽつぽつと街灯が瞬き始める、通行人は俺一人のはずだが、街のシステムは勝手な親切心で俺を導いていく、駅前はやはり閑散としていて、時間そのものが止まっていた、俺はその中を自由に歩き回ることができるタイムトラベラーの気分だった、駅舎の壁に貼り付けられた巨大な時計も秒針が行ったり来たりするだけで正確な時刻を知らせるつもりはないみたいだ、時刻表を見たところで運行状況は見当がつかなかったが、駅員がずっと居眠りしている改札を抜けて、ホームのベンチに腰掛けた、どのくらい無駄な時間が過ぎたのかわからない、下りの列車に乗り込んだ頃には太陽はほとんど沈みかけていた、乗客といえば俺の他には腰が直角に曲がった婆さん一人きりだ、レコードの針を戻すように婆さんの語りの続きが始まった、どこでピストルなんか用意したのか疑問に思われるでしょうが、あの当時は世の中が混乱しておりましたからね、米や芋を手に入れるのは難しかったですが、それ以外のものであれば案外どうにでもなったんですよ、特に進駐軍の将校クラスを相手に商売するパンパンなら尚更のことです、私は復讐を成し遂げ、それは夫の望むところでもあったと確信していますが、やはり人を殺すというのは恐ろしいことです、私が引き金にちょっと触れるるだけで、次の瞬間には相手の命が消えてしまうわけですからね、夫の無念は私の憎しみとなって、米兵が今まで生きてきた年月と、これから生きるであろう未来を奪いました、よくよく考えると夫だって誰かを殺していたのかもしれません、戦争とはそういうものです、殺し、殺され、また殺すという繰り返しです、私もその連鎖の中の一つの輪なのですが、私は誰にも殺されませんでした、米兵にも家族や友人がいたでしょう、しかし彼らが私に復讐することはありませんでした、因果が巡り巡って私を殺す誰かが現れることを期待していましたが、結局私はこうして生きながらえているのです、あと何年生きれば夫に会えるのでしょう、みすぼらしく年老いてしまった私を夫はどう思うでしょう、誰かに問いかけるような口振りだったが、婆さんは耳から補聴器を外して掌の中でころころと弄んでいる、誰かが答えようとしても無意味なのだ、車内は夕日に照らされて真っ赤に染まっていく、地平線に寄りかかる巨大な太陽は婆さんが撃った弾丸が貫いた穴だ、噴き出る血は俺や婆さんや世界そのものを包み込むように降り注いでいる、燃え尽き始めた太陽の向こう側で軍服姿の男が手を振っているのが見える、男は哀しげな表情で俺にこう言った、彼女は大きな勘違いをしている、僕は自殺したんだ、戦地の悲惨な状況に耐え切れなくなって、自分で自分の頭を撃ったんだ、彼女が殺した米兵は無関係だ、だから彼女のしたことは無駄なんだ、ただ罪を背負っただけなんだ、俺は婆さんを見習って聞こえないふりをした、たとえそれが真実だとしても、無関係なのは俺の方なのだから、婆さんはいつのまにかいなくなっていた、俺が気付かないうちに電車を降りたのか、そもそも婆さんなんていなかったような気もする。

 そういえば朝から何も食べていない、腹は減っていないので問題ないのかもしれないが、俺は現実的な感覚を早く取り戻したかった、改札を出てすぐのコンビニでサンドイッチを買った、財布にはほとんど金も入っておらず、ろくでもない現実しか俺には残されていないことに落胆せざるを得なかった、そういえば保険証はどこにいったのだろう、あの歯医者は俺に返却してくれなかったように思うが、はっきりとした記憶がない、俺は慌ててサンドイッチを飲み込み、商店街を突き抜けて、パチンコ屋の上にある歯医者まで戻った、診療時間はとうに過ぎていて中を覗くと既に消灯されていたが、自動ドアは侵入者をすんなり受け入れるように音もなく開いた、受付にも人はいなかった、俺は奥に向かって声を上げた、診察室の方から光が漏れているので誰かがいるはずだが、まったく反応がない、勝手に診察室に入ると治療椅子に寝そべる若い医師を発見した、目を閉じたまま俺の呼び掛けにも答えないところから、眠っているか死んでいるかのどちらかだ、俺は医師が付けたままのマスクを外して口角に自分の小指を挿し入れ、上下の顎を無理やり拡げて医師の口の中を覗いた、歯科医なだけあって美しい歯並びだった、俺は臼歯の穴を探した、可動式のライトを奥まで照射し、そばにあった細長い口内鏡をねじ込んで、穴の底の深い闇の正体を確かめようとした、そこからは呻き声というか、聞いたこともない言語が断続的に漏れ出している、詩のような音程で何かの単語を羅列しているのだ、俺の頭の後ろの方から若い医師の声で、ちょっとしたコツがありましてね、ラジオのチューナーを合わすように意識をちょっとずつずらしていくんです、そうそう、そんな感じです、もう聞こえていますよね? ところで私の嘘がわかりましたか? ほら、昼間に来た時に言ったでしょう、私の話には一つだけ嘘が隠れているって、実はですね、私が治療を担当した患者さんは自殺なんてしていないんです、私がここに開業した時もお花を贈ってくれましたし、今でも月に一度は診察に来られます、ほとんど世間話をするだけで大した治療なんてしませんけどね、人の死なんてそんなに簡単なものじゃないんですよ、知ってますか? 日本では歯科医院の数はコンビニより多いんです、小児科医は人手不足が問題視されていますが、歯科医は飽和状態なんです、なぜかというと、もっとも人の死に関わらないからです、自分の診断や施術で命を危機に晒すリスクが低いくせに、人を救ったような気分になれるんですからね、次々と現れる虫歯を削って穴を埋めるだけ、責任を負う必要のない楽な仕事なんです、ただ、たまに埋められない穴というのがあるんです、それは結局のところ死の形をしています、いいですか、人の死は簡単なものではないと言いましたが、人は必ずどこかのタイミングで死ぬんです、病気なのか事故なのか、あるいは天災やテロに巻き込まれるのか、明日なのか明後日なのか、十年後なのか半世紀後なのか、それは勿論わかりませんが、あなたも死ぬし、私もそのうち死ぬでしょう、避けられない運命から逃げようとするのは愚かなことです、蓋をして見ないようにすることはできても、そこにはちゃんと存在しているんですよ、俺は意識のチューナーをわざとずらして若い医師の声をシャットアウトした、だが相変わらず呻き声のような音だけは聞こえている、受付カウンターを漁ると俺の保険証は無造作に放置されたままで、俺は今度こそしっかりと財布に入れて、二度とこんなところには来ないようにと固く決意した。

 歯医者の自動ドアをくぐって階段を下りると、一階のパチンコ屋の明かりが灯っていて、中からはジャラジャラと耳障りで心地よい雑音が響いている、改装中の貼り紙は剥がされていないのに営業を再開したのだろうか、俺は財布に唯一残されていた千円札を握りしめて、それが悪あがきであることも知りながら、意義のある暇潰しという名目で店内に入り込んだ、釘の並びで出るか出ないかを判断するほどの審美眼のない俺は、適当に選んだ台に座り、千円札を小さな銀の玉に交換して、なるべく平常心を保ちながら打った、余計な欲がツキを邪魔することくらいは知っている、玉はどんどん穴に吸い込まれていくが、構わずにハンドルを回す、チカチカと電飾が瞬いている、中央の液晶画面に映された漫画のキャラクターは笑いもせず俺を睨み付けている、うんともすんとも言わない無機質な映像に俺は段々と苛立ち始める、隣の台から確変のアナウンスが聞こえ、ちらりと様子を窺うと、見覚えのあるおばさんが座っている、その奇抜な紫色のパーマは忘れようにも記憶にこびり付いて離れない、歯医者の待合室でメタファーがどうとか、よくわからない独り言を呟いていた、あの妙なおばさんだ、これも人生のメタファーね、占いとか天気予報とか、ああいうのって当たらなかったら特に気にもしないのに、当たったら狂信的なまでにそれが真理に思えてしまうものよ、確率なんて半分半分なんだから、どっちも信用できないし、どっちも本当のことなのにねえ、つまりわたしの肺の癌も半分半分なんだって話、余命一ヶ月という医師の診断は正しいし、間違ってもいるわけ、わたしがそれを受け入れるか拒否するかで形は変わっていく、そう考えるとわたしは生きることを諦めていないということなのかもしれないわね、自覚はないけれど、誰だって死は怖いものよ、ああ、そうね、そういうことなのね、わたしがなぜ余命一ヶ月を何度も繰り返しているのか今わかったわ、わたしの中で死が完成されていないのよ、明日死ぬかもしれないと思いながら、明日の献立を考えているんだもの、来週は友達とランチに行く予定を入れて、来月は主人とオペラを観劇する計画を立てたわ、年末に産まれる孫のために毛糸のソックスを編んだりもしているのよ、死というものは厳密で、不可逆で、非情なものであるはずなのに、わたしはそれを真に受容していないのね、そこに未来を見てしまったのよ、いやだわ、こんなのメタファーじゃないわ、おばさんはぶつぶつ呟きながら、大当たりしているにも関わらず気にもしない様子で、止め処なく流れてくる玉が床に零れていくのを俺は呆然と見ていた、俺の台は貴重な千円をすべて飲み込んだだけで何も反応しないままだ、確かに半分半分だった、おばさんは当たり、俺は当たらない、おばさんは生と死の間で彷徨っているが、俺はどちらでもない、それが人生のメタファーであると言われれば納得できるし、全く的外れにも思える、おばさんの出玉はどんどん店内を埋め尽くしていく、無限に生み出される銀の玉の一つを、俺は手首の穴の中に投げ入れてみた、闇の奥深くまで吸い込まれていって見えなくなる。

 パチンコ屋を出てアパートの方角に歩を進める、夜が始まる時の独特な静けさが辺りに満ちていた、アスファルトを擦る自分の足音だけが響き、押し寄せる孤独を躱すのに精一杯だった、今さらアパートに戻ったところで憂鬱になるのは目に見えていたが、事の顛末を確認しておく義務はあった、あれだけ炎に包まれていた建物は完全に消火されて、炭化した残骸と、そこから滴る水、街灯は輪郭の失われた跡地をぼんやりと照らしている、俺の部屋があったあたりは焦げた柱が折り重なっていて、その下にたとえ無傷の私物があったとしても探し出すことは困難だった、アパートの住人とはあまり面識はなかったが、何人かの顔は覚えているし、一言二言挨拶を交わしたこともある、その中の誰かはここで焼け死んでしまったのだろうと推測する、さすがに死体は回収されたとは思うが、彼らの魂はまだそこに漂っているような気がした、難を逃れた俺を糾弾する声なのか、羽虫の姿を借りて耳元でヴヴヴと呻いている、あんた、どこ行っとったんですか、背後から管理人の親父が俺の肩を掴んだ、闇に紛れて表情は窺えないが、咥えた煙草の先端が赤く明滅している、あれから大変やったんですよ、警察と消防の人らが一斉にぼくに詰め寄ってきてね、火災の原因やら住人の安否確認やら、しつこく聞いてくるんやけど、ぼくかて、わかるもんとわからんもんとあるわけやからね、火が全部消えてから何人かの焼死体が発見されたものの、誰が誰か判別つかへんし、今のところぼくにできることなんて何もあらへんのです、まあ、生き残ったあんたには告白してしまうけどね、火をつけたんは、実はぼくなんですわ、いやいや、ホンマです、こんな質の悪い嘘を言うドアホがどこにいますかいな、二階の端の部屋に住んでた若い兄ちゃんのこと知ってはりますか? つい最近入った方やから知らんかなあ、大学院で宇宙力学の研究してるとかなんとか、ぼくにはさっぱりやけど、真面目そうな子やと思たんです、それがあのクソガキ、ぼくのカミさんに手を出しよったんですわ、前々から怪しいなあと勘付いてたんやけどね、今日はばっちり見てもうたんです、なんかそわそわした感じでカミさんが出掛けるのを後つけてね、ほんだらアパートの部屋に入り込んでね、鍵穴から覗いてみたら、カミさんの股の間に顔つっこんどるクソガキの姿、カミさんもアヘアヘ言うとる、ああ、こらもう辛抱たまらん、殺したろ思てね、ぼくは合鍵で部屋に乱入して、キッチンに置いてあった包丁を掴んで、クソガキの身体に何十回とぶっ刺してやったんです、気付いたら穴だらけになった死体が横たわってるんですわ、不思議とあんまり血は出てへんけど、包丁で刺した跡だけがぽっかりと空いとるんです、ぼくは怖くなってね、カミさんに灯油のタンクを持ってこさせて、火つけて燃やしてまおう言うて、二人で一生懸命灯油を撒いて、証拠隠滅ですわ、火つけたら終いです、あっちゅう間に燃え広がって、こんなことになってしもうたわけです、巻き込まれて死んだ住人には申し訳ないとは思うけど、生きてたら勝ちやからね、死人に口なしって諺があるけど、死んだら口だけやなくて何にもなくなるからね、管理人の親父は焼け跡に咥えていた煙草を投げ捨て、その火が燃え尽きるまで黙って佇んでいる、俺はもうここには戻れないことを改めて痛感して、夜のどこかへ歩き出した。

 早々に女の部屋に戻るべきだった、俺はもう心の底から疲れていて、なぜか自分の身体に纏わりついてくる死のにおいをすぐさま洗い流したかった、睡眠と強い酒と射精を必要としていた、タクシーを拾う金もなく、街灯の乏しい夜道を辿っていく、俺は暗闇の中で、どこに向かおうとしているのかもわからなくなって、怪しく光る自動販売機のそばで呆然としていたのだ、住宅地の方向からパジャマ姿の女性が近付いてくる、腰のあたりまで伸びた長い髪、つい最近どこかで見たような佇まい、俺はその女性がもうこの世のものではないことを直感的に知った、話に聞いていたのとは違って足はあるが、その足を動かして歩いているわけではなかった、コマ送りのごとく時間と空間を少しずつ飛び越えながら移動しているらしかった、俺のそばを通り過ぎようとした時、ようやく俺はその女性がベッドの上で眠りながら夫の土葬の話をしていた少女の母親であることに気付いた、彼女は俺をちらりと一瞥し(瞼は閉じたまま)、すみません、ご同行をお願いできませんか? と言って(その声は喉からではなく周りの空気の振動によって届いた)、くるりと踵を返して(回転ではなく反転で)また住宅地に向かって進んでいった、母親の幽霊は一定の間隔で消えたり現れたりしながら、少女と共に住む家を目指しているようだった、母親の姿は闇に紛れるわけでもなく、常に俺の視界に輪郭を伴って映った、それは彼女が実体ではない概念であり、俺の意識に直接干渉しているせいなのか、と思考を巡らせてみるものの、母親の存在そのものが常識から逸脱している限り、なんら意味のないことだった、私が死んでしまったことを彼らはまだ気付いていません、もし知られてしまったら私も夫と同じように穴に埋められるでしょう、私の死体に土をかぶせる様を娘はどんな想いで眺めるのか、想像しただけで胸が苦しくなります、ですが運命には逆らえません、遅かれ早かれ私は夫の隣の穴に葬られるのです、それは決められていることなんです、今の私の状態は極めて無益な悪足掻きでしょう、最後に娘を抱き締めてやって、母の魂の消滅をきちんと説明してあげたかったのですが、何もしてやれませんでした、きっとあの子は父親の時と同じように母親の影をあらゆるものから求めるはずです、いっそこの身を焼いてくれれば、そして骨と灰になった私を目撃すれば、娘はきっと理解するでしょうに、ああ、可哀想な子、母親は咽び泣くように言葉を紡ぐが、死んだままの表情との誤差に俺は複雑な気分になった。
 少女と母親の家は昼間に来た時よりも一層寂しさを湛えていた、周りに住宅がないせいで、リビングから漏れる僅かな光だけが浮き彫りになり、宇宙の果てに取り残された哀れな彗星のようだった、母親は幽霊らしく玄関の壁をすり抜けていって、俺はその後ろからちゃんと扉を開けて中に入る、一瞬迷ったが靴を脱ぎ、長い廊下を手探りで進むと、奥の部屋に母親が消えていくのが見えた、俺が部屋に入ると幽霊の母親の姿は暗闇に紛れてしまって、代わりにパイプベッドに横たわる死体の母親の姿があった、窓から差し込む月明かりが血の気の失せた母親の横顔を一層白く照らしていた、枕元には少女が顔を伏せて佇んでいて、母親の長い髪を指で梳かしながら、お兄ちゃん、心配して来てくれたの? ありがとう、でも大丈夫よ、わたし、全部知ってるし、全部うまくやったわ、おじさんに電話したらすぐ来てくれるって、お葬式のこととか、わたしのこれからの生活のこととか、おじさんが世話してくれることに決まったの、お母さんは、お父さんと同じように穴に埋められちゃうけど、それはしょうがないことだもんね、むしろわたしは嬉しいの、お父さんはずっと一人ぼっちで土の中に沈められて、きっと寂しかったんだと思う、だからお母さんに病気を移して、穴に来るように仕向けたのよ、あと何年かしたら、わたしも両親と同じ病気で死んで、埋められて、それでようやく家族は一緒に暮らせるようになるんだわ、食卓を囲んでごはんを食べたり、みんなで一つの毛布にくるまって眠ったり、そういうことはできなくなっちゃうけど、お父さんとお母さんとわたしは永遠の時間を共有するの、だからわたしは悲しくないの、寂しくないの、でもね、心残りがあるとしたら、お日様が沈まない夜を見ることができないことかな、白夜って言うんだって、お兄ちゃん、知ってた? 真っ黒な闇しかない夜じゃなくて、光に満ちた真っ白な夜って、素敵だろうな、今日の月は普段より煌々としていて、少女と母親を白く輝かせている、少女はまだ生きていて、母親はもう死んでいるのに、二人を区別することなく、月光は均等に降り注ぐ、しかし俺はその光の届かない場所に立ち竦んでいて、生きていようが死んでいようが、世界から除外されている感覚を味わう、憂鬱なまま外に出ると、庭先で眠っていた例の老犬が足元に擦り寄ってきて、慰めるように小さな声で哭いた。

 俺と老犬は連れ立って市街地の方へ向かった、もはや俺たちは秘密を分け合った戦友といった具合で、何かが欠落した同士、互いの穴を補い合うパートナーであった、住宅地とは違って、相変わらず喧騒に満ちた街は、ある意味ではすごく健全であるとも言えた、なぜならそこは、もしかすると少女が憧れた夜の一つの進化系なのかもしれなかった、街に巣食う人々は眠らないし、つまり悪い夢を見ることもない、俺と老犬は初めて出会った国道の歩道橋の辺りまで来ていた、見下ろすとギラギラと瞬くネオン、見上げるとそれに対抗するように自己主張する月、老犬が突然切迫した様子で高く吠え始め、俺は夜空に人影を発見する、月に飛んで行ったはずの盲目の爺さんの姿だ、しゃぼん玉や綿毛のように緩やかな軌道で下降している、両手をふわふわとくねらせ微調整しながら、やがて国道の真ん中に降り立った、真横を軽トラックが通り過ぎクラクションが鳴り響く、俺たちは階段を急いで下って、爺さんを安全な歩道にまで抱きかかえて運んでやった、爺さんはガードレールに凭れかかって短い煙草に火をつけ、ゆっくりと息を吐く、老犬は尻尾を振りつつ爺さんの股間に顔を埋めている、いやあ、参ったよ、無事にお月様まで辿り着いたのは良いものの、そこは砂に覆われた枯れた土地でね、兎などどこにも見当たらないし、寒くて腹は減るし、孤独だし、こんなものに憧れていたのかと思うと恥ずかしくなるくらい呆気ないものだったよ、ふと顔を上げると暗い宇宙の真ん中に青い地球が浮かんでいる、それは美しく輝いている、外側から眺めて初めて気付いたんだよ、儂が求めていたのはお月様そのものじゃない、マンホールの底から見上げるまがい物の光だけでよかったんだ、暗い穴を覗くと同時に覗かれている自分自身、その形而上学的な日常こそが儂の本質だった、儂は急いで戻ってきたよ、とんだ無駄足だった、早く穴に戻りたい、じめじめと湿った、あの穴に、爺さんは路地裏に放置されたビニール傘を掴んで、近くにあったマンホールの蓋に引っ掛けた、そして器用に蓋を数センチ持ち上げ、少しずつずらして人が入れるほどの穴を空けた、爺さんはゆっくりと梯子を伝って地下に滑り込んでいく、爺さんの姿は深淵に溶けて見えなくなる、老犬は黙って穴の底を覗いたまま、ぴくりとも動かなくなった、俺は悲しくなった、そしてその悲しみこそが死を表現する詩であることを、ようやく理解したのだった。

 女の部屋の前に立って、躊躇いながらも呼鈴を押す、どんな顔をしておけば良いのかわからない、数分の重い時間が過ぎ、薄いキャミソールの女はドアを半分開けて、その隙間から伸びた手で俺の耳を掴む、無言でそのままベッドルームまで連れて行かれ、俺の服をすべて剥ぎ取ってしまう、そしておもむろに俺のペニスを口に含み、動物的な音を立てて、俺の残り少ない精気を吸い取っていく、メイクを落とした女の顔は幼く見え、快感と同じ分量の背徳感が押し寄せてきて、俺のペニスはうまく勃起しないままだった、業を煮やした女は俺の身体ごとベッドに倒れ込み、無理やり挿入しようとする、女は自分の荒い息に興奮しているようだった、擦れ合う陰部は徐々に互いの凹凸を補い合い、俺は女の中に取り込まれていく、そう、これが生きるということだ、女の手首にはおそらく今朝リストカットしたばかりの新しい傷があって、腰を打ち付けるたびに血が滲んでいく、俺はその赤く浮いた生命の滴りを舌で丁寧に舐め取り、錆のような苦味を感じる、女も俺の手首を持ち上げて歯を当てる、そこに空いた穴の存在に気付いて、一瞬動きを止め、穴の奥を覗き始める、ねえ、宇宙があるわ、あなたの宇宙よ。

(原稿用紙74枚)

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