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理想と現実(『西の魔女が死んだ』より)

今日も一日お疲れ様です。
最近、読み返した本(『西の魔女が死んだ』)について、思ったことがあるので呟く。

未読の方に簡単なあらすじを載せておきます。

“中学に進んでまもなく、どうしても学校へ足が向かなくなった少女まいは、季節が初夏へと移り変るひと月あまりを、西の魔女のもとで過した。
西の魔女ことママのママ、つまり大好きなおばあちゃんから、まいは魔女の手ほどきを受けるのだが、魔女修行の肝心かなめは、何でも自分で決める、ということだった。喜びも希望も、もちろん幸せも……。”
(引用:読書メーター)

まあ簡単に言えば、
学校にうまく馴染めない女子中学生の主人公「まい」が、祖母と生活を共にする、初夏のひとときを描いた作品。

おばあちゃんのやさしく、ときに厳しい愛に包まれる温かい物語となっている

俺が最初に読んだのは中学3年生のときで、印象としては、

「まい」素直になれよ、おばあちゃん困らせるな

と、自分勝手な「まい」のイメージが先行して、所々に見える分別のない行動に、苛立ちを感じたことを覚えています笑

んで、最近実家に帰省した時に、本棚を整理していたら偶然見つけて読み返してみると、以前とは違う感想を持った。

「まい」の悩みに対して、おばあちゃんが言っていることは正論だが、現実同じような悩みを持っている子どもは、納得するのか?問題解決に向かうのか?

という疑問。
作中でおばあちゃんに学校の悩みを打ち明ける場面がある。

まい
「女の子の付き合いは独特で、クラスの最初にいくつかグループができる。
一緒のグループになりたい子の顔を見てにっこりするとか、興味もない話に一生懸命相槌を打つとか、一緒にトイレに行くとか、何となく嫌だなっと思って一切やらなくなった。
そしたら結局一人になってしまった。」

別のグループに入った子とはもう仲良くなれないし、みんなで「まい」を敵にして仲良くしようとするクラスにも馴染めないと心中を語るのだ。

それに対しておばあちゃんは、

おばあちゃん
「自分が楽に生きられる場所を求めたからといって、後ろめたく思うことはない、
自分が快適に生きられる場所を求めて移動することは”逃げ“ではない」

教育現場に限らず、一定の関係のある人から、心理的・物理的攻撃を受けて、心身の苦痛を感じている場合、
環境を変えてより過ごしやすい場所に移動することは決して「逃げ」ではない、そして後ろめたく思う必要もないという点は、とても納得できる。

普遍的な教育課題である「いじめ」を例にとると、いじめている人を復讐して反省させようとか、何かで解決しようと思うよりも、その環境に見切りをつけて環境を変えた方が、手っ取り早いだろう。

ただ、俺が言いたいのは、
生きづらいな→そうだ!環境を変えよう
と作中の「まい」のように、行動に移せる子どもが一体どれほどいるのか??
という話です。

仮に今、生きづらさを感じている人にこんな正論を力説しても納得するかもしれませんが、行動に移せませんよね?

ー何故か?

誰しもが、大なり小なり何かを背負って生きているから。

まあ、その「何か」は大抵、世間的な評価や体裁、社会的な地位や名誉とか、
生きづらさの要因に比べたら、“本当にどうでもいいもの”に過ぎないんですけども

環境を変えればいいと、みんな薄々思っていてもそれが難しいから悩んでいるんですよね...

実際に、「まい」のお父さんが転勤の話を持ち出さなかったら、転校するという決断はなかなか難しいものだったと思う。
現実問題、作中のように不登校になっていた時期があったという事実は消えないにしろ、「上手く馴染めない、学校に行きたくない」という深刻な悩みが解消していくようなことは多くないんじゃないかと感じる。

と偉そうに、語ってきたが、俺はどうだろう?

「まい」のような生徒を、教員として救うことができるのだろうか?
普遍的ないじめ問題に対して、終止符を打てる解決策を見出せるだろうか?

どの学校、学級、いつでも、どの人にも起こりうる問題であるからこそ、周りの人はサインを見落としてはいけない
として早期発見に努めるのは当然のこと

加害者生徒に、いじめの行為の重大さに気付かせ、このような行為を行うことがないように思わせる具体的な対応を考えていきたい。

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