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【No.92】徳田虎雄との出会い 藤原肇


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 貴信の公開メール(132)の通り、徳田虎雄が七月十日に死去したが、ASLを患い眼しか動かなくなり、晩年は活躍できなくなっても、没落する日本を苦しい思いで眺め、悔恨の気持ちだったに違いない。

 「毎日新聞」は彼の略歴について、次のように書いているが、より詳しい評伝としては、2013年に青木理が書いた『トラオ』(小学館文庫)や、山岡淳一郎が2001年に出した『ゴッドドクター徳田虎雄』(小学館)がある。現代日本の評伝作家として森功と並び三羽烏に属す青木と山岡が、徳田について評伝を書いたように、彼が作って運営した徳洲会は、病院システムとして画期的な存在だった。

 <・・・国内最大級の医療グループ「徳洲会」の創始者で、元衆院議員の徳田虎雄(とくだ・とらお)さんが10日、死去した。86歳。 

 兵庫県高砂市で生まれ、2歳の時に両親の故郷、鹿児島県・徳之島に移り住んだ。大阪大医学部を経て、1975年に「365日、24時間診療」を掲げて徳洲会を発足。離島やへき地を含む全国に医療施設を開設し、「病院乱立で地域医療が混乱する」と批判した地元医師会と各地で対立した。

 中選挙区制時代に全国で唯一の1人区だった鹿児島県奄美群島区に、83年から無所属で立候補。3回目の立候補となった90年に初当選した。自民党の保岡興治氏(2019年に死去)と、島を二分する激しい選挙戦を演じ「保徳(やすとく)戦争」と呼ばれた。

 94年に政党「自由連合」を結成。95年の第2次村山富市内閣に閣外協力し、沖縄開発政務次官(当時)を務めた。初の小選挙区制となった96年衆院選で全国に多数の候補者を擁立したが、自身も含めて議席獲得は果たせなかった。

 02年に全身の筋力が急速に衰える筋萎縮性側索硬化症(ALS)と診断されながら、03年衆院選で4度目の当選。病状が進み、05年の「郵政選挙」を機に政界を引退し、次男毅氏が地盤を引き継いだ。その後も、車いすで移動しながら自由がきく目で文字盤の平仮名を追って意思表示し、理事長職を続けた。

 自民党に入党した毅氏は12年衆院選で3選を果たすが、毅氏の陣営に徳洲会系列の病院職員らを派遣し報酬を支払ったなどとして、親族やグループ幹部ら10人の有罪判決が確定。東京地検特捜部は虎雄さんを選挙運動を主導した「総括主宰者」と認定したが、病状を理由に不起訴(起訴猶予)処分とした。虎雄さんは13年10月に理事長を退任した。

 東京都の猪瀬直樹知事(当時)が徳洲会グループから5000万円を受け取った問題では、東京地検から14年3月に任意で事情聴取された。>

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 私が徳田虎雄に会ったのは、大兄より七年前の1980年春だが、会うなり将来は日本の首相になるので、参謀として知恵を借りたいと言われ、型破りの男だと驚いたものだ。だが、資金調達の打診ではなく、仲間になる誘いだったので、私より適当な読者を推薦して真意をチェックした話は、『アスペの三奇人交遊録』に書いたが、彼は「猪突猛進」型の荒武者だった。

 徳田虎雄が残した徳洲会は、「生命だけは平等だ」をモットーに、日本の医療行政における盲点だった離島や僻地医療を充実し、治療が必要な患者に対して必要な医療の提供を目指した。また、救急医療を充実し手当すれば救える命に対して、医者になった時の初心を生かし、官僚化し硬直し後進性が目立つ、日本の病院制度を作り直そうとしていた。

 患者中心の医療と福祉介護が徳洲会の設立の理念で、近々この理想を実現するために、衆議院議員に立候補するし、数年後には大臣の経験を経て首相になり日本の政治を変革する。その時の外交政策として私の構想が興味深いので、参謀を頼みたいと言われたのは、1980年の春の訪日の時で、そのことに関しての記述の記録が、『アスペの三奇人交遊録』の第二章に残っている。

 「休憩室」の冒頭に次の記述があり、記憶違いを訂正して引用してみる。

 <徳田虎雄との出会いは1980年頃で、誰の仲介だったかについて記憶が不確かであるが、一緒に食事をしており彼の側からの接触だった。最初の出会いの挨拶をした後で黄色のマニラ封筒の中からコピーを取り出し、自分は記事を読んだ読者で内容に感銘しており、ぜひ会いたかったと言った。

 コピー記事は『週刊・サンケイ』で竹村健一との対談であり、「大平首相に勧めたい対ソ悪魔の外交」という表題だった。これは週刊誌の記事であり、相手が竹村だったからテレビでの放談番組をもとに、書きだしたもので、放言記事だったが丁寧に朱線が引いてあり驚いた。

 続く対談は長文のものだから、引用する代わりにURLで読んで貰おう。

 <徳田虎雄は記事に朱線を入れ、「藤原さん、これは面白い。政治家としてやりたいのが、こうした外交なんだ」と言い、ギョロ目を輝かせたが、それから話が弾み親しくなった。これは『週刊・サンケイ』の1980年3月13日号に掲載された記事だが、一月の訪日の時に竹村健一に引っ張り出され、テレビで喋り散らしたものだ。

 しかも、徳田は政界に進出して厚生大臣に就任したら、医療改革に乗り出すつもりだし、将来は外相や首相に就任するし、日本の発展のためにも活躍するつもりだと夢を語った。そして、私と竹村との対談記事が、彼に刺激を与えたので、知り合うため会いたかったと、私を煽てて協力を求めてから、一緒にやろうと提案したのだ。>


 初対面だった徳田虎雄から、近い将来に首相になるので参謀役をして欲しいと言われ、いささか面食らったが、当時の私は自惚れていたので、当選していない癖に大袈裟だと不愉快だった。当時の日本の政界の実情は、汚職や政局で乱れ切っており、国際政治を支配する石油ビジネスからの政界入りは、ソフト面で米国の二十年遅れだったから、格落ちになると私は過信していた。

 

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 私が驕慢だった理由としては、当時の私はメディアの寵児としてチヤホヤされたために、若気の至りで自惚れており、医療ビジネスで成功した程度で、国際感覚に乏しい徳田が、天下を取った気分なのが片腹痛かった。二人は同じ寅年の42歳で、男盛りの壮年期を迎えていたし、1975年に英文で発表した「石油産業の構造と機能」の論文が、石油産業界で評価された私は世界各地で講演したし、日本でもメディアから声が掛かっていた。

 

 だが、そんな状況になるには、十年近い歳月を費やしており、最初の頃は鳴かず飛ばずで、単なる地質の専門家だったが、1971年の六月号の『文芸春秋』に、「石油は日本のアキレス腱」の記事が出た。それが踏み台になったので、日経の「経済教室」に執筆し、雑誌に書いた記事などを纏め処女作を作ったが、ホラ話だと断られ続けてから、辛うじて出版になった後で神風が吹いて、石油危機が起きた話を著書から引用する。

 

 <1973年の秋に襲来した、石油パニックを予言した処女作『石油危機と日本の運命』が、ベストセラーになってメディアの注目を集めたお陰で、十万人近くもの読者を獲得した。

 だが、この本は十社以上に断られ二年の歳月を無駄にして、1973年の春に出版されているが、初版3000部だったのに半年で600部しか売れず、「サンケイ抄」のコラムは「日本経済の実力を知らぬ、無知な男の本だ」と酷評した。だが、「井の中の蛙」のノーテンキは、世界を知らない状態のままに、月夜の田んぼで鳴き騒ぐのであり、石油ショックに動転しトイレット・ペーパー騒ぎで、買い占めでうろたえていた。

 私のベストセラーの本は石油の問題を扱っていたので、各紙の経済部の記者たちに取材を通じて知り合い、彼らが出世した後には寄稿すれば記事になったから、それを纏めて本を次々と出版できた。1975年に『国際経済』の編集長から、好きなことを好きな長さで書いて欲しいと依頼され、日本が如何に危機的かに関し六回くらい連載した記事が、小室さんの『危機の構造』とテーマが重なっていた。>

 東京銀行の貿易相談所長だった田島さんが熱烈な読者で、東京銀行の調査部でのゼミを始め、各地で講演会をやったから、新聞や雑誌が取材に来たし、記者たちの質問力の低さに呆れた。日本の記者や学者の勉強不足は、「井の中の蛙」の典型であり、それが私を増長させた原因だったが、『文芸春秋』、『世界週報』、『週刊サンケイ』、『国際経済』、『エコノミスト』、『エネルギー』、『国際開発ジャーナル』、『ボイス』、『創』など、記事を書けば直ぐに掲載され、年に一冊は著書が出版になった。


 当時は実際に石油開発を体験し、国際石油ビジネスを論じる者は、日本人にはいなかったこともあり、アメリカ大陸に陣取った私は、日本のメディアにとって便利で、利用価値が高かったのは確かだ。財界の手先のサンケイ新聞と、政府に近い時事通信社が、熱心に私の論点を利用しようとして、発言の場を提供したお陰で、時事通信社からは二冊も本が出て、講演する機会も山のようにあった。

 

 自慢話になれば恥ずかしいが、時事通信社が日比谷の記者クラブで、国際石油政治をテーマに講演会と記者会見を準備し、ブラジル大統領の会見の翌日に、私に喋らせ記念に銀の万年筆を頂戴した。その時の講演が活字化され、『世界週報』に掲載されたし、予想はピタリと的中したので、その後はメディアが門前市を成して、その中に時めいていた竹村健一もいたが、その講演の内容は次の通りだ。

 今になって記事を読み直せば、これほど緻密で大胆な予測は、とても書くことが出来ないもので、四十歳になったばかりの私に、こんな能力があったとは驚きだが、それは今の日本が老衰化した証明だ。四十歳前後の壮年期の人が、中心になって組織を牽引し、活力に満ちた社会を築くなら、日本の未来は明るいのに、若い世代まで物欲に溺れて、「今だけ、カネだけ、自分だけ」になっている。


 七十二歳の虚言癖の婆さんが、東京の都知事になっており、首相を操る政界のボスとして、八十七歳の森喜朗が君臨し、迷走状態を続ける日本の政治は、どう考えても異常だというしかない。徳田に出会った頃の竹村は、四十代末の年齢だったし、アシスタント役だった小池百合子も、未だ二十代末のタレントで、国際政治にも無知だったが、学歴詐称の虚偽が半世紀も続いている。


 そして、竹村も徳田も生涯を終え姿を消した日本の現状は、カルト宗教が政治を乗っ取り、荒廃して乱れに乱れて、格差拡大による貧困のせいで、若者は結婚も出来ず絶望が支配する。「生命だけは平等」とはいえ、生きる環境が地獄的なら、そんな社会は希望がなく、国民は将来に不安を抱くのに、「今だけ、カネだけ、自分だけ」の政治は、四十年を費やして日本を亡国化してしまった。

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 当時の竹村は売れっ子であり、ベストセラーの著者だし、今でいう「スシトモ」の先駆的人物として、幾つもテレビ番組の司会役で、なぜ知り合ったか記憶にないが、メディアで大活躍中だった。彼の番組には帰国する度に、出演して国際情勢について論じたが、彼はフルブライト留学生だったが米国から送り込まれ、日本のメディアで派手にやり、拝米路線の旗振り役をしていたから、ブレーキが必要だと思った。


 竹村の動静を観察するために、番組に気易く出演してやり、偏向の訂正を試みたりしたが、私が教えた情報を手帳に書き、それをテレビで吹聴していた。また、彼の番組のホステス役にカイロ帰りの小池百合子がいて、よくコーヒーを入れてくれ、雑談したことが懐かしい。


 アラブ流の駆け引きで脇の甘い日本人を誑かし、小池百合子はその後に出世して、代議士から都知事にまで登り詰めたが、彼女はアラブ商人と同じで、口先で人を騙す名人である。だが、カイロ大学を首席卒業という、ハッタリの化けの皮が剥がれ、マスコミに叩かれているが、横顔を『ゾンビ政治の解体新書』の中に、次のようにレポートした。

 

 <・・・竹村のテレビに出演した時に、ホステス役をしていたのが、エジプト帰りの小池百合子だった。彼女の父親についての噂や悪評は、中東諸国でよく耳にしたが、そんなことは知らぬ顔をして、竹村や小池百合子を相手にした私は、日本で進行していた状況を捉え、国内における情報探索の一助にした。 

  『さらば、暴政』の中に書いたが、父親の小池勇二郎に関しては、次のような形で彼の正体を報告している。 

 ・・・彼女の父親は勝共連合の支援で衆院選に出て、落選後に借金でカイロに夜逃げし、日本料理屋をやる傍ら、石油利権のブローカーとして悪名が高く、その関係で彼女はカイロ大学文学部に学んだ。・・・・・・竹村健一がホスト役の〝竹村健一の世相を斬る”というテレビ番組に招かれた私は、帰国の度に何回か出演したが、小池百合子は番組のホステス役で、番組前にコーヒーの接待を受け、私は彼女と何度か雑談をした。アズハリ大学はイスラム神学の最高学府であり、話のついでに『小池さんはアズハリ大学に行ったそうですね』とカマをかけたら、『藤原さんは何で中東のことに詳しいのですか』と唖然としていたのを思い出す。・・・・・・>


 それにしても情けないのは、小池百合子の如き破廉恥女が、都知事として首都に君臨しているし、平然と嘘をまき散らしており、すり替えが罷り通っているのに、誰も正面から批判しないでいる。ナイル訛りの英語を使い、カタカナ英語を連発して、レガシーとかワイズスペンディングと言い、都民を煙に巻いているが、意味論が分からない者が好む、誤魔化し話法が世を狂わせている。


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 それは日本を没落させた、「日米構造協議」の誤訳を用い、役人が国民を騙したのに似て、売国奴(コンプラドール)が好んで使う、騙しの手口の応用であり、それがここ30年蔓延し続けている。それを『小泉純一郎と日本の病理』に、次の通り説明して書いたのに、この本は弾圧され姿を消し、ハゲタカに食い荒らされて、日本の経済力は壊滅状態になった。


 <その端的な例が「日米構造協議」(Strategic lmpediment lnitiativc=SSI)であり、これは完璧なまでの誤訳であリウソである。このウソで日米関係ができあがってしまったために、日本の政治のすべてがウソで固まってしまった。日本とアメリカの経済摩擦は1980年代半ば頃から本格化し、従来の自動車や半導体などの個別商品をめぐる問題から、やがては貿易不均衡を生み出す基盤である、相互の経済構造や制度、慣行へと軸足を移した。


 つまり、経済構造が問題とされるようになり、それで「構造協議」という言葉の登場となった。1989年7月の日米首脳会談で初めて「日米構造協議の開始が決定され、その後は1990年6月の第5回会合の後で、7月に最終報告が両国政府から発表された。その報告を簡単にまとめると次のようになる。 (1)公共投資の増額 (10年間で430兆円)による貯蓄、投資バランスの改善 (2)土地利用促進のための税制等の強化(3)大規模店舗法の見直し等流通システムの改善 (4)独占禁止法の強化による排他的取引慣行の改善や系列取引の監視 (5)内外価格差の是正措置。なんのことはない、日本がこの15年間取り組んできた「改革」の原型が、すべてここに顔を出しているのだ。


 小泉の「構造改革」などここのリストの端くれにすぎない。そうだとすれば、日本は「日米構造協議」の意味をきちんと理解し、アメリカという教師に教えられる優等生として、それにきちんと取り組んできたことになるはずだ。ところが、実際はそうではない。この「日米構造協議」が何を意味するかを知っていたのは、ほんの一部の日本人にすぎないのであり、彼らはその意味を意図的に隠蔽し、自分たちの利権に置き換えてきたのである。Strategic lmpediment lnitiativeを意図的に 「日米構造協議」と誤訳し、大ウソをついて改革者のフリをしてきたのである。

 US-Japan Structural lmpediments lnitiativeを正確に訳すと、「構造障害粉砕の先制攻略」になり、「日本の障害を取り除くために戦略的イニシアチブを発動する」という意味になる。アメリカの政治概念で「イニシアチブ」が意味することとは、「第 1オーダーの戦略次元での対外政策を指し示す。だから、アメリカは日本と「協議」するつもりで SIIを発動したわけではない。


 しかし、日本側は「日米構造協議」というインチキな役人言葉でごまかし、新聞もテレビも雑誌も単行本においても、横並びでその言葉を使用してしまったために、わけがわからなくなってしまった。それは divisionを区画、株分け、割り算と訳して、軍事用語で師団であることを見落としていると、正確な概念が捉えられないのと同じで、大文字で書くInitiativeの戦略的な意味が見失われてしまうのである。学問の世界には区分が確立されていて、歴史における時代区分においても、代 Era、紀 Period、世 Epoch、期 Ageという具合に、時間の長さが次元の違いとして表現され、それが分類学の基礎になっている。


 だが、日本人は区別が差別だと短絡して嫌い、できるだけソフトな言葉にしようとするために、軍事用語として使われた言葉が、普通の言葉にすり替えられてしまう。また、それを政治家や役人が活用しているが、それを監視するジャーナリズムが意味論に弱いために、政治の中に欺隔が横行してしまうのだ。


 アメリカには日本向けのこの SSIの前に、対ソ戦略としての「strategic Defense Initiative“ = SDlというものがあった。これは「Star Wars」を想定して、レーガン政権が発動したものであり、日本語では「戦略防衛構想」と訳されたが、その本質は “Plan of attack to USSR"である。


 したがって、ソ連はこのSDIに対応せざるを得ず、結局は潰れてしまった。つまり、日本向けの SIIも同じ意味合いを持っていたのである。アメリカが日本経済を攻略するために、SⅡを発動したと考えてそれを迎え撃つ戦略を構想すべきだが、政府や霞ヶ関に秀才型は多いのに、それを理解する人材がいなかったのは、ウソのblowbackの恐さへの無知があった。10年間にわたって合計430兆円を内需拡大のために、優先順位をつけずに税金をばら撒き、政治家の利権に迎合するように使えば、経済破綻を招くのは当然である。


 すでに「失われた10年」は はるか昔に過ぎたが、日本が平成不況から脱出できない最大の原因は、ここにあるのに誰も指摘しないのが不思議だ。ソ連がワシントンのSDIのワナにはまって崩壊したのと同じで、日本経済もアメリカの “イニシアチブ"のワナにはまったのだし、これが「金融敗戦」の正体であることに、日本人はそろそろ気づいていい時期ではないか。・・・ >

 

 これだけ明白な形で説明し、意味論まで展開したのに、この本を抹殺した小泉内閣は、日本を亡国に導いたのだから、その犯罪は万死に値するが、小池都知事もその同類である。これが四十年前の話で、今は昔の出来事であるが、それ以降はゾンビ政治の支配が続き、隣国の邪教に政府は乗っ取られ、勤勉を誇った日本は自壊し、亡国の悲哀に呻吟している。

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