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(5)天使

 会議室の扉が開いてまず教頭が顔を見せて、そのあとから黒い学生服の山田が入ってきた。午後六時の校舎は消灯され、窓から入ってきたグラウンドの照明でリノリウムの床が青緑色の川面みたくぬらぬら反射している。その岸辺からあがってきた山田の左頬は、さっき他の生徒に殴られたせいで赤くはれ上がっていた。岳彦が座っているところまでやってくるあいだに、ほかにも額や首筋に痛々しい赤みが差しているのがだんだん明らかになった。
「軽傷で済んだようです」
教頭が神妙な口調で言い、生徒を椅子に座らせた。
「おいおい、軽傷っていってもなあ、山田」
岳彦はやっとのことで覚えた指導教官らしい台詞を努めて使った。教頭が状況を説明しているあいだ、岳彦は腕を組んだまま体を乗り出して、長机をはさんで向こう側にいる山田の顔をのぞきこんだ。目を合わせないつもりのようだったが、それ以外はいつも、国語の授業の終わりに、一番うしろの席でひとりで座ってこちらを見ているときの顔と同じだった。
「痛かったよな」
いや、痛くはなさそう。岳彦は思って、唇を噛んだ。こいつ、これだけ顔を腫らしてるのに、平気な顔してる。見た目によらず相手の生徒を負かしたのかもしれない。この小さい体で。
「工藤先生、ほかの生徒たちは」
「帰った。親御さんが来て」
「山田さんには連絡は」
「ああ、しましたよ」
教頭は軽くそう答えたが、山田は顔を上げてそれをにらんだ。岳彦はそれに気がついたが、にらまれているほうの大人は気づかずに二人を部屋に残して職員室に戻っていった。
 校舎内の目につきにくいところで男子生徒が集団暴行を受けていたという連絡が職員室に入ったとき、山田の名を聞き、学年の教師たちは「なるほど、やっぱりいじめられていたのか」という顔をしたのに、だれも面談役を申し出なかった。山田のことをよく知る教師はひとりもいないのだった。担任の教師は顧問を受け持っていない者だったので、今年学年の指導教諭になったばかりの岳彦が手を挙げて職員室を抜け出した。
 半分、自分が必要とされてうれしい気分。もう半分はその学生への興味だった。
「山田さ、お前はなにもしてないんだろ」
頬杖をつきながら、できるだけのんきな声で問いかけると、山田は丸い大きな目をいっぱいに開いて岳彦を見た。目。
「この間、石田に聞いたんだ。石田さん。テニス部のあの石田さんだよ、しゃべらなければかわいい石田さん。お前、だれかと話してるところあんまり見ないから、どんなやつなのかって、石田さんに聞いたんだ、気になって。そしたら、なんて答えたと思う。山田くんはこのクラスの天使だから、たまににこにこ笑ってくれればそれでいいのって」
「なんだ、先生聞いてたんですか、その話」
山田が背もたれに大きく体を倒して、ふてくされたような顔をしながら、口角の切り傷を指で少し触った。青く見えるほど白い肌に傷口が開いている。学生服の一番上のボタンのしたの肌にも赤い打撲がのぞいている。
「そうなんです。にこにこしてればみんな、それでいいんだし。僕はいつでもにこにこしてるんです」
長机の上に三万円札が出された。校則で金銭は持ってきてはいけないことになっている。
「どうした、だれに渡されたの、この金」
「いまは僕のお金」
岳彦は立ち上がって、生徒の横に立って、札のうえに置かれた白い細い小さな指から摘み取るように一万円札三枚を没収しながら、暴行を加えていた生徒が三人だったことをなにとなく思い出した。しゃがみこむと、自分の汗のにおいとだれかのシャンプーのにおいがまざった。確かに、絵のなかの天使のような、丁寧な顔の中心にあるピンクの口が、そっと笑っている。唇。
「先生、人を殴るのって気持ちいいの?」
震えるだれかの手を握ったつもりが、震えているのは自分の手だった。岳彦は生徒の手を握って、外気で冷たくなっているのを必死であたためようとした。
「なに、先生」
「痛かったんだろう」
「大丈夫。先生、お母さんには内緒にしてあげるから」
「おれには内緒にしなくちゃいけないことなんてない」
「そうかな。みんな知ってるよ」
「なにを」
「みんな知ってるよ」
急に静かになったので、心音だけが聞こえた。腕をふりあげた。打たれた生徒は体ごと椅子から転がり落ちた。机が大きな音をたてた。
「みんな知ってるってば」
生徒は床の上で半身をもたげて、体を硬くして立っている教師を見上げる。この表情。手に残る柔らかさと痛みがとけて消えるまえに、床のうえの肉にまたがって顔を殴り続けた。股のしたの生徒の体と赤くなった頬はあたたかかった。
「左利きなんだね、先生」
息をきらす人に笑いかけたもうひとりの歯は血で濡れている。
「ぼくといっしょ」
その左手の指が、もうひとりの左手の親指にまきついてしめつける。ゆっくり感覚がもとにもどっていくのが怖くて、そのひとは目をとじた。指。

五本指ハムスター✌🏻🐹✌🏻