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(2)胎児

 赤黒い胎児、夕日の差し込むうさぎ小屋のすみ。自分が生んだ子供のことなど忘れて走り回っているうさぎたち。数日前、去勢手術を済ませるために教頭たちがうさぎの股を調べていたのだが、そのときはまだ若すぎて、生殖器を確認することができなかった。いま、飼育委員の男子生徒に発見されたのは、小屋を駆ける四匹のうさぎのうちのどれかが発情期にはいった、そのあかしだった。追いかけっこと交尾の動きはよく似ていて見分けがつかない。校舎の三階の音楽室から吹奏楽の音がしつこくせっつくみたいにうるさい。
 汗をかきかき事務室にいり「赤ちゃんが生まれている」と言っても、大人たちはぼうとして、蝋みたいな顔をして口をあけた。「はあ」とか「ああ」とか言っている。まるで知らない子がやってきたような顔をする。
「たぶん死んでます」
それを聞くと、大人のうちのひとりのずんぐりとした男が事務机から立ち上がって(面倒くさそうな顔をして男子生徒から鍵をとりあげて)先にすたすた歩いていったのを、その子供は大人たちに深く礼をしてから(そのころには全員、机のうえに目を戻していたが)、小屋のほうに駆けていった。
「うさぎってオスメス、一緒の小屋にいられないんだねえ」
事務長が冗談を言うときの口ぶりで言うと、新任の男の事務員がにやにやした。
「死ぬまで交尾してしまうらしいですからね、オスは別の小屋にいれないと」
それに続いてだれかが「あれはメスの出すフェロモンが原因なんですって」と言ったが、それはもう誰も聞いていなかった。
 小屋の隅で糞便にまみれて死んでいる赤い皮膜の遺骸を指差し、男子生徒は顔を覆った。きっと親うさぎに踏み潰されて死んだのに違いない、僕はその死体を見てしまった、ひとを恨んで死んだかもしれないうさぎの赤ちゃん、なにかの内臓がひからびたような血肉を見てしまった。そう思って、悲痛な表情で事務員のほうを見たが、大人のほうはというと、昔話を話し終えてめでたしめでたしというときみたいな充実の表情でうさぎの死骸を認めていた。
「きみたちはもうおしまいでいいよ。お疲れ様。あとはやっておくから帰っていいよ」
ジャージの袖をまくりながら事務員は言った。がさがさ。どこからか手に持ってきた小さいビニール袋を広げて、これもまたいつからつけていたのか軍手もはめて、小屋の隅にかがむと、数匹の肉塊を拾い上げているようだった。男子生徒はしばらくその背中を眺めていたが、なにもいわずにそっと小屋から出て、うさぎの世話をするあいだそこらへんに放っておいたランドセルを背負った。
 すると校庭のほうから、仲間の飼育委員たちが三人、談笑しながらゆっくりやってくるので、口のなかで文句をいう準備をした、舌にぐっと力を込め。いつも、うさぎ小屋の掃除はやりたくないから、ひとりの委員がそれを終えて小屋がきれいになったころあいをはかって、かわいいうさぎたちに会いに、三人はおしゃべりしながらわざと遅くやってくる、そして必ず言う、「良太くんお疲れさま」、きょう、良太はついに黙ってはいられないことになった。
「うさぎの赤ちゃんが死んだよ」
三人は小屋のそばにかけよった。小屋の一面に張られた金網の外側から、中を覗いていたが、そのころには走り回るうさぎと、なにか重そうな小さいものが入ったビニール袋をぶら下げた男が立っているのが見えるだけ。
「大丈夫だよ、もう片付けたからね」
その事務員はさも親切そうな笑顔を浮かべた。三人のうち、二人の女子がくちぐちに「かわいそう」とか「どうして」という泣き声をあげているのを聞いて、良太はそばの櫻の木によりかかった。ランドセルのなかのなにかが背中に硬くあたった。目を閉じると、かたくなった嬰児の赤さがちらつく。
「あいつがもっと早く来ていれば間に合ったかもしれないのに」
女子の間にいて小屋を覗いていた裕二が言った。
「裕二くんなら、いつもうさぎをなでているから、お腹に赤ちゃんがいたらすぐにわかるよねえ、裕二くん」
「そうだ、俺ならすぐに気がつく」
「なんで気付いてあげなかったの、良太くん。馬鹿なんじゃないの」
「馬鹿、馬鹿」
「良太のせいで赤ちゃんが死んだんだ」
長い影を引き連れた三人の子供たちは、赤くにごった斜陽の向こうから、あおい木陰のしたの子供をにらんだ。いっそう暗い小屋のなかから、袋を提げた男も眉をひそめて見張っていた。放課後の小学校は忙しく、だれもこれらに目をとめない。

五本指ハムスター✌🏻🐹✌🏻