鶏肉のパック詰めについて

もも肉のかたほうはもっちりとして、ももだなというかんじがする。もうかたほうはびらびらしていて腱が何本か残されており、ももらしくない。ももらしいほうが左で、ももらしくないほうを右にしてパックに詰め、ラップし、右側に値札を貼る。なぜならももらしくないほうは隠れてもいいからである。皮の面は内側に丸めこんでふんわりとパックに詰めてある。もっちりとしたもも肉の見せ方である。

むね肉は鶏の骨格で言うと上部が分厚くて下部にいくにしたがってほっそりとしている。鳥類の胸の形を想像するとたしかにこれが左右にくっついているなあという形。この一羽分のむね肉と同じ大胸筋を人間がつけようとしたならかなりの鍛錬が必要になるが、鳥は生まれつきそういう体をしている。にわとりは空を飛ばないのにも関わらずそうなのである。そういうことである。

むね肉についてはとにかくドリップが多い。ドリップというのは小売ではあたりまえに言う言葉で、要するに汁のことである。漬物だの生肉だの生魚だのという汁漏れを起こす商品のことをドリップ品という、そのドリップの最前線がむね肉である。これは意外であった。

だってむね肉ってぱさぱさしたイメージがあるじゃん。もも肉とむね肉だったらどう考えてももものほうが汁気がありそうなもの。しかし実際大量のむね肉を作業台にぶちまけてみると、もう大洪水です、パックに詰める作業というより汁気を拭くことにかける労力が大きい。

その他、鶏のさまざまな器官をパックに詰めたあと、ももをさらに食べやすい大きさに切り刻む作業も任された。かなり作業のペースがいいので、明日のぶんを予め切って冷蔵庫にいれておこうとのことだった。

「鶏肉って切ったことはある?」
教育係は私の半分ほどの背しかない、私のことを「あの子」「あの男の子」「ぼくちゃん」と呼ぶようなとしの女性で、優しい東京の人の喋りかただった(この、優しい東京の喋りかたというのは家族うちで使っている概念で、真の上品さを言い表した最上級の褒め言葉である)。
「家で」とだけ答えたぼくにその人は「家で」と復唱した。

それから習ったことには、もも肉を切る際はまず長辺を三等分するのだとか。そしてももらしいほうに近い二片についてはまた縦に三等分し、ももらしくないほうについては二等分する。

やってみて、包丁の切れ味にぞっとする。仕事なのでなるべく手早くやろうという手つきにはなるが、肉にもにょもにょと添えている指を誤って切ってしまったときには並大抵の切り傷では済まないことが想像され、肝を冷やした。

「とても上手に切れているわね」と優しい東京の語り口でおだてられ、私は気分が良かった。

同じ作業場には高校野球部の男の子がいて、手羽元を一生懸命にパックに詰めていた。屈強な体つきをしている人が人差し指と親指で手羽元をちょこちょこつまんで並べているさまはとても愛おしかった。この野球部の男の子は期間限定で働きにきているのだが、学校名と苗字が印字された名札をつけていた。私には名前は与えられていないので、私よりこの人のほうが格上だとなんとなく思った。

最後の作業はプルコギの味付けだった。手渡されたのは両手で抱えてもつ大きなバットのうえにずっしり詰められた牛肉の細切れ。そのうえにタレをどぷどぷと注いで、手袋をつけた手でねちゃねちゃと混ぜる。味がついた肉からさきにパックに詰めていく。うえからきざみねぎをふりかけてできあがり。大変美味しそうなにおいがする。

それも済むとやることがなくなり、教育係の女性も偉い人になにをしたらいいかききにいっていた。あれは? もうやってもらいました。じゃああれは? それも。じゃあ明日のぶんは? もうそれも。というやりとりを聞いて、またなんとなく気分がよかった。

五本指ハムスター✌🏻🐹✌🏻