a tortoise's heart and the artificial circulation

(2023/08/11)

髪を切った女の人と一緒にヤン・シュヴァンクマイエルの個展にいく。わたしが映画 "Alice" のなかで一番好きなのは、小さな引き出しをあけたら中に閉じてない状態の安全ピンがぎっしり詰まっているシーン。そういういやな感じ、なんとなくいや〜なかんじがずっと漂っているのがその映画なのですが、シュヴァンクマイエル展もそういう感じでした。

展というか、ポップアップストアみたいなことでした。これはギターの上手な友人と一緒にllnuitのなにかを見に連れていってもらったとき、個展かと思ったらポップアップストアでした、ということがあったのと同じかそれよりすごくて、なにしろ売っているのがグッズとか雑貨とかそういうことじゃなくて、シュヴァンクマイエルの絵そのものなのである。

絵というかコラージュとかドローイングとかいろいろなんですけど、なんとなく不気味と可愛さが同居しているような絵をぼ〜っと眺めていると、ガチャっと入り口が開いて髭を生やした男の人が入ってくる。ギャラリーの人がもう、こんにちは!みたいな。もう別格の人が入ってきたぞという感じがひしひしと伝わってきて「今回も一枚買おうと思って〜」みたいなことを見る前から言ってる。ウケる。

ありがとう、満足しました。
と髪を切った女の人が丁寧に言って、我々ふたりはそこをあとにしましたが、そういうところがこの人って素敵だなと思います。
そろそろ出ましょうか?とかふんわりした言い方じゃなくて、ありがとう満足しました、出ます。ときっぱりいうところがなんかとてもいい。

そしてどこか別のところを目指して恵比寿の坂を登っているところに雨が降り、傘を差しました。人といるときに傘を差すことが数えきれなくなってきたことすらも暖かい。唐突にこんなことを言い始めたのです。
もう私たちは男を作るしかないのだろうか。こう、骨格を組みたてて、肉を張りつけていって、内面もじぶんの良いとおもうようにカスタムして、そうするしかもう男っていないのだろうか、という話。

ぼくはツラちゃんと「形而上の犬」という遊びをしたのを思い出しながら、そうですねとあいづちをした。

これは前にも書いた。
ツラちゃんとぼくは神のように犬を創造する立場にある設定なのだが、いざいち生物を創るとなるとめっちゃむずい。各器官の構造と関係を理解しないといけない。だから我々が犬を作ろうとすると犬のかわいいと思う各要素、目、牙、舌、耳、足、尾などを袋に流し込んでたぷたぷの状態で「これが犬です」というしかなくなる。犬というより、犬の概念なのである。

ふいに、また書くことに戻ろうと思えたのは、こういう空想上のこと、ありもしないことを、言葉を通じてわかりあえる、少なくともわかりあえた気になることのできる人がそばにいてくれるからだと、今日ここ数日をふりかえりながら思った。雲は晴れる。

美術館で我々は、鶏や犬の歩行をただ横から映しただけの実験映像を見た。動画であるということだけでも意味がある時代の、ぼんやりとした白黒に妙に明らかな鶏や犬のまぬけな動き。

そして突然の、亀の心臓の拍動と人工的な血液循環。循環。白黒の黒が、白い管のなかをどくんどくんと流れていっては、環を描いて還っていく。循環。環。永遠のテーマ。

五本指ハムスター✌🏻🐹✌🏻