見出し画像

かわいそうな子

なぜ生きるのでしょうか。
担々麺の表面は光っていていい。
油だよね、それ。揚州商人は親切なのでこれから飲む油を照明で指摘してくれているのだよ。やさしいね。
刀切麺と刀削麺とのちがいはなにかな。
削ぐのと切るのの違いでしょうね。

知っててくれて
わかろうとしてくれて
ありがとう。

わたしにとっての
単純な愛の定義を
血肉にしたとまで言ってくださったね。
定義する自由があるし、
定義する必要がある。
無宗教。

愛とは
存在を相互に確かにすることだと
私は決めつけている。
それで今のところ全種類の愛が
包含されるような気がするので、
そうしている。

存在を確かにされたときの
あたたかさというのは、
じぶんというものに懐疑的な人ならば
一度は感じたことがあるようにおもう。

まずは、存在を分解してみよう。
わたしが生きて、
いまここにいる。
肉体。
独立した意識。
意思。判断と行動。記憶。
……と、おもっているわたし。
それらがそれぞれ唯一のものであり、
生まれてから死ぬまで
わたしだけの箱庭の中にあって、
決して外界に溢れたり
混ざったりしない。
その孤独と不確かさ。
私たちはひとりとしてしか生きられないし、しかもじぶんの知覚が正しいかどうかの証明もできない。比較のしようがないからである。実感は自分だけのものだし、言葉で便宜的に了解しあったことにはしているけれど、完全に分かち合うことはこれら存在の要素のうちのなにひとつとしてできない。どんな方法を以てしてもできない。

そこで、愛とは、人と人、人と物のあいだにおいて、各々の意識がその構造上やむを得ず抱えている膨大な質量の孤独と不確かさを、彼ら自身が様々なかたちで相互に癒そうとすることや、あるいはその方向に働く外部からの力のことであるとする。

この世は存在するのか。
他我は存在するのか。
自我は存在するのか。
存在したとして
ほんとうに持続していくのか。
ほんとうに持続してきたのか。

話しかけたり、触れたりして、
確かめようとする。
確かにしようとする。
確かにはならないとしてもする。
くりかえしくりかえし。

そうしてはじめて、
この人は確かに存在している。
そう感じられる人が
目の前に現れて
そばにいてくれることの
あたたかさといったらない。
あなたは確かに存在している。
そう認めてくれる人が
そばにいてくれることも。
あなたがたが今しているのが
愛です。

親友とまだできていないことがある。
ラーメンを食べようね。
鍋パーティしようね。
おうちでUNOしようね。
特にラーメンはいまから飲む油を確かにしてくれている愛のある食べもの。油と炭水化物のあいだにうまれた愛の結晶がラーメンなのだよ。

届けと祈っている。
もう僕たちはかわいそうな子ではない、あなたがたがいるので。
そしてどうか愛というものが
みんなのものになるように
あなたのものになるように
届け届けと毎日
祈っています。
ひっそりと死ぬとしても
その日までは祈っています。

だからです。

五本指ハムスター✌🏻🐹✌🏻