虫が厭である

理知を衒っておきながら虫が苦手である。ばかばかしいことだ。

犬や猫はかわいいくせ、おなじ命あるものでも虫となると気持ち悪い。自己中心的。唾棄すべきルッキズム。
人間だって、同じしくみで遺伝子を受け継いでゆく生物だというに。

虫嫌いを解決するために様々な治療を試みたことがある。
まずは暴露。大量の害虫が蠢動する動画を見て、徐々に慣らしていこうとする。しかしこれは精神に受ける損害が深刻で、ストレスで塞ぎがちになったりもした。
虫を平気になるという目的の達成と損害とを天秤にかけた結果、心を守ることになったので失敗。

次、理由をよく考える。
考えかたの「凝り」をほぐす際には認知にゆがみがないかをまず確認するとよいと聞く。
要するに、今回の場合は、虫とは本来弱者であり、殆どの種は人間にとって怖がる必要はない。それを怖がっている。それはどういった恐怖であるのか? なぜ気持ちが悪いのか? 本当に気持ち悪いのか? よく見たらかわいいのではないか? そういったことを徹底的に考え、多角的に虫そのものの客観的特徴を捉え、自己の主観的認知と比較し、認知のほうが誤っている場合があれば正そうと努める。しかし当然、これもひとりでは限界がある。
気持ち悪い理由なんて「見た目がマジで気持ち悪い」としか言えない。足が多くていや、かさかさと動くのがいやなどと仔細を述べてみたところで頭のなかの映像が鮮明になるだけで、気持ち悪さは変わらなかった。私に自己客観視の能力が足りないのだと思われる。

話は変わるが、自己の虫嫌いを許せないのはこの点なのだといま、判然とした。
なにかを(神経伝達物質の分泌異常以外の理由で)わけもなく恐れるというのは、客観視ができていない、ものごとを冷静に洞察しきれていないということである。
虫がちっぽけな生き物であるということを客観視できてさえいればこうはならないはず。

次、これは虫以外でも私がよくやる手なのだが「それを人に対しても言えるか?」と自分自身に問う。
気持ち悪い虫を見るや叫び声をあげて逃げ惑ったり、毒薬を吹きかけて殺したりするが、それを人間に対してもするのか?
いや、しない。人間は気持ち悪くないからである。要するにそもそも人間より遠い種族だから気持ち悪いと感じている。終わり。

最後、集団療法。
六割くらいの人が虫を苦手がっており、さらにその半分くらいの人が私と同じレベルの虫恐怖症であるようにおもう。
患者が多いということは、社会的に治療することの成功可能性は高い。
しかし誰も虫嫌いを治すつもりがない。別に虫嫌いでも困ることはないからである。普通に生活していくうえで虫嫌いでも特に支障はない。虫を怖がらない必要は特にないわけ。個人の自由。
そのため、虫嫌いが何人集まったところで気持ち悪いよねで終わってしまう。
本来こういった集いには専門家的立場(MC)が必要である。単なる共感や傷のなめあいになることを阻止する役割である。虫嫌いの場合であれば、虫好きあるいは虫平気な人がひとりいて、虫嫌いたちの集団療法が首尾よくゆくように司会を担当するべきである。
しかしまあそんなに優しい虫平気な人はいない。大抵の場合客観視が足りてないんじゃないの? 人間のほうがよほど気持ち悪いよ、などと言ってとりあってくれない。だからこれも失敗。

万策尽きぬ。
虫が大繁殖したらどうしようという妄想のせいで一睡もできぬような夜はないようにしたい。

五本指ハムスター✌🏻🐹✌🏻