情けは人の為ならず考
このことわざがほとんど逆の意味で浸透しつつあるという話を聞きさもありなんと思う。
要因を考える。ことわざなのだから本意を知らなければ意味が通じないのは当然なのだが。
まず、このことわざの「ず」がたまたま現代語の「ず」の使い方と混同され、かなり曖昧な文意になってしまう点。
この文は「恩情は他者のためではない(いや、自分のためである)」と言う反語的な表現だが、現代語の感覚で読むと「恩情は他者のためにならないから、……」と文章が続きそうな印象がある。
つまり前提しか提示されていないので、肝心な主張というかメッセージの部分を使い手が勝手に解釈してしまうようなことになるのである。
そして断定の「なり」もたまたま現代語の「為になる」の用法と重なってしまい、「為ならず」に対し「為にならないから」という読解をしてしまうわけである。これが「情けは他人の為ではない」ということわざだったらさほど誤解はないように思うが、文語ネイティブではない我々には全く逆の意味に捉えることが可能なほど、日本語は長い時を経てきたということである。
考えうる解釈を以下に四つ挙げる。
①情けは他人のためだけでなく、いつか自分に返ってくるから、積極的に他者を思いやると自分にとっても結果得なものである
これが本来の意味である。報いの概念。
日本語のことわざは理屈っぽくなく、「世の中って得てしてそういうものですよね」という世間話感がありますね。
このことわざもそうで、どういう理屈で他者に施した恩情が自分に返ってくるのかは明らかにされていないが、とりあえず相手にとって良いことをしておけばいつか自分にもいいことが起こりますよ、というふわっとした教訓なのである。
②情けは他人のためなどではなく、単に偽善である
これは途中までは本意に則した読みだが、後半で急激に性悪説的な読み方をした場合の最悪の誤りである。
他者に同情をするなどという感情は人間には本来なく、みんな人助けをしてやる自分かわいさに酔っているだけだという読み方です。腐れている。
③情けは他人のためにならないから、行動に移すべきではない
これが代表的誤読のパターン。
「ためならず」を「ためにならない」、単純否定の「ず」を順接ととらえて「ためにならないから、……」と文が続くだろうと思うと、こういう読みになる。
ただもしそうだったとして、このことわざが存在する意味はなんなのか。お節介はやめましょうということなのか。
そんなことわざがあると思えてしまうのは個人主義の功罪である。日本人が一人で自分の好きなように生きていけるつもりになりはじめたのはほんのここ数十年の話。島国に暮らす根っからの村気質民族であることを忘れないでほしい。
④情けだけでは他人のためにはならないから、本当に必要なのは同情などではなく物質的な援助である
③の誤読を深刻化させるとこうなる。
「情け」という言葉はことわざのなかでは見ず知らずの他者に対する恩情とか思いやりみたいな、隣人愛みたいな意味で使われているが、我々が親しむ日常語彙としては「お情け」だとか「情けない」だとか、とにかく否定的な印象がある。
そのため、為にならない情けより金、「同情するなら金をくれ」といったように、情けとは役に立たないものであり、せめて役に立つものを施そうねという意味にも捉えられると思うわけです。
最後に。
個人的に、このことわざの受け取り方はふたつに分かれるように思う。
まず第一は、良い人はいつかきっと報われますよという非科学的な教訓として受け取る場合。
これはうさんくさいわよ。どんなに善行を重ねたからといって、自分にも幸運が降り注ぐかといったらそんな保証はないでしょうが。
第二に、周りの人に優しくしていると周りの人もあなたに優しくしてくれますよという、人間関係上のコツとして受け取る場合。
私はこちらで受け止めている。
しかも他者に優しくすると脳の報酬系という部分が刺激されて幸せホルモンが分泌されるので、認知機能や精神衛生の改善も期待されるのだという(女医の友利新がYouTubeで言ってた)。
情けは人の為ならず、すなわちライフハックなり。相互に情けを掛け合う世の中でありますように。
五本指ハムスター✌🏻🐹✌🏻