悲しみは自己責任

だれもが向き合うべき普遍的悲しみをどのように克服していこうかということが物心ついたころから考えの根底にあった。それは私の脳のつくりがもとからそうだったということもあれば、それ以外の環境的な要因もあった。しかし誰のせいでもない。たまたまそうだったということなので、だれのことを責めるつもりもない。だからなおさら悲しい。

いま、書く以外にどうしようもなくて書いている。だれかに話すにはどうしようもなさすぎるし、弱い自分をかわいそうと思いたくもない。書くという行為は内省と表明を同時に行える非常に危うい、コントロールしなければあっというまに自慰と化す両刃であるから、どうしようもないときにこれに頼るということは極力したくない。それでもこうするしかない。

わたしは子どものころからいつか終わりがくることを非常に恐れていた。いやなこどもである。いまを元気に無邪気に遊び回っていればいいのに。

でも絶対に終わりはくる。身の周りの大好きな人たちにも、じぶんにも、必ず終わりがある。

言葉を覚えるよりさきにその感覚があるくせに、その終わりというもののためになにもしてこなかった。愚かで、この恐ろしさを助長するような馬鹿なことしかしてこなかった。

わたしはだれのことも好きじゃないのではないかともおもう。この世のなんにも興味はなくて、自分のことが一番好きなだけなのではないかと疑う。他者からすればその違いなど見てもわからないので、平気で生きてきただけで、ほんとうは人間として最低な部類なのではないかと思い、ひとりでがっかりする。

大学の講義のテストで、仏教の四苦を漢字で書かされたことがある。愛別離苦。ここでいう愛とは恋愛とか無償の愛とかそういう通俗の意味ではなく、この世に対する執着全般といったような、抽象的なものである。

わたしはべつだん仏教徒というわけではないがあの講義で学んだことを参考して思うに、この愛別離苦というのは仏教の主目的である解脱というものの邪魔なわけで、精進することでこの苦しみからも開放されるというわけだ。つまりこの悲しみは自己責任なのだ。精進が足りないとしか言えない。

仏教徒ではないし、なにより柔軟でありたいので、だれかの言うことを絶対と思ったりはしないようにしているが、今回はじぶんのためにも、精進が足りないと思うことにしている。

いつか終わりがくるという恐怖は日に日に強くなったが、小学生のあるとき、思春期のまえあたりとおもったが、私はついにその恐怖を母にうちあけた。母は言った。

「私もとても怖かったけど、不思議なもので、じぶんの生活があるとそれに必死で、今なくなったらどうしようとおもうものでも、おとなになったらけむたくなったりするんだよ。だから今は今のこと一生懸命やりなさい」

おとなになったあと、精神や心理に関係する書籍を読むと大抵この結論が出てくる。結局今は今のことに取り組むしかない。

そしていま、私はじぶんのことに精一杯で、むかし大好きだったものをどうでもよく思ったり、なくなっても困らないとおもっているかといったら、ちがう。

最初にじぶんのそばにあったものよりも多くのものに囲まれていて、たくさんの美しいものたちに囲まれていて、成すべき業があって、たったひとつやふたつむかしのものが失われたとて笑顔で手放せるくらい、私より悲しく孤独であろう者たちを一切の甘えはなく抱きしめられるくらい、しあわせであるか? ほんとうの意味でしあわせであるか? ない。

それはただ、私の不精進のためだとおもう。わかっていても実際に、愛を循環させられなかった私の自業自得だなとおもう。

だからだれに言ったところでどうしようもないとおもう。日々反省しできるかぎりこの愛を返すしかないと、その機会があったときにはそうしようと、こう、脳が感傷的な気分のときに覚悟を決めておく、宣誓しておくのがいいとおもい、書いた。

五本指ハムスター✌🏻🐹✌🏻