大塚愛「プラネタリウム」考

序 急にわかる現象

ある日突然心に響いてくる現象、ありますよね。

店内で一昔前の曲が流れているのを聞いたりなどして、それまで別段興味のなかった曲が突然「わかる」現象です。
そのときの自身の状況が曲とマッチしているからという単純な場合もありますが、そうでないこともよくあります。わけもなく響いてくる瞬間があるのです。

今回、大塚愛の「プラネタリウム」が突然わかりました。

数日前「クラゲ、流れ星」「金魚花火」をたまたま耳にする機会があり、わかりの予兆を感じた私は思ったのです。

もしかしたら今「プラネタリウム」を聞いたらめちゃくちゃわかってしまうのではないか? 

それで意識して聞いてみたら案の定わかりました。プラネタリウムは名曲です(誰でも知っている)。


女子大生さくらんぼ知らない事件

そもそも大塚愛やその曲についてですが客観的な情報はWikipediaやネット上にいくらでも散らばっていますから、ここでは本来どうでもいいことなので割愛します。そして大塚愛に関する個人的な体験を述べます。

バイト先の女子大生が名曲「さくらんぼ」を聴いて「この曲だれですか?」と言った事件がありました。これはヤバいことになったと焦りました。私と彼女は4歳ほどしか離れていませんでしたが、20代前半の若者は大塚愛を知らないという恐ろしい現実を目の当たりにしたのです。

一応私の認識を話しておくと2000年代中盤大塚愛の音楽はバカ売れしてて、四六時中いろんなところで流れていたので音楽に疎かった片田舎の芋小学生だった私でも流行ったシングル曲は歌えてしまうくらいの売れ様でした。ロックチューンもバラードも売れていた。その上容姿もかわいく男性にはもちろん人気、あっけらかんとした恋愛観を描いた歌詞は女性にも人気。しかも複雑な音楽ではない、どちらかというと大衆向けの親しみやすい詞と曲を作るのに、なかには「CHU-LIP」や「さくらんぼ」のような中毒性の高いチョケた曲もあり、海外では天才派と捉えられている(※)。なんでもありか。

(※ 香港の友人K氏はこの二曲、特に「さくらんぼ」は天才的な曲想であると評価している。
また、最近「さくらんぼ」が韓国で再ブレイクしているらしい。TikTokの影響もあるが、YouTubeなどで韓国人が歌っていたり、歌手のIUの映像を曲にあわせてPV風に編集したファンメイドの映像を見ると、明らかに曲自体を楽しんでおり、TikTokの文脈によくある短いスパンの流行とはまた違う気がする)

その大塚愛を、知らない世代がいる。つまり大塚愛は一過性のブームであったとも言えます。すべての流行歌は流行が去れば町から消える。

これだけ書いておきながら、私も大塚愛の曲は大してよく聴いてきませんでした。一般的に評されていることだとは思いますが、私も彼女を「アイドル歌手」と認識していました。それは大塚愛の見た目がかわいすぎるのでしかたのないことです。ライト層は「はいはい、松浦亜弥とか大塚愛とか流行ったよね」という見方をしますし、西野カナが登場したことで市場は移っていきました。それぞれは良いものなのに、同じカテゴリとしてひとからげで売り物にされているのを見ると、案外その通りに受け止めてしまうのが人間です。


「なんだっけ」

2021年夏、大塚愛の新曲が発表されました。サムネイルを見ただけでも、あのころ大塚愛をアイドル歌手として売り出していた誰かの手によるものではないディレクションであることが一目瞭然です。動画の概要欄では本人の繊細な心象が述べられています。

ちょうどこのころ、同僚と大塚愛の話になりましたが、私の他のだれも新曲「なんだっけ」を聴いている人はいませんでした。今も曲作ってるんだ、という言われ方です。私はファンでもなんでもないのですが、悔しく思いました。

かくいう私も「なんだっけ」を聴くまでは大塚愛がいま何をしているのかなどに全く興味はなかったのですが、去年の「なんだっけ」によって大塚愛像は明らかに刷新されました。プラネタリウムわかりへの布石がそこで成されたわけです。


本論 抄釈「プラネタリウム」

突然ですがここからは「プラネタリウム」(愛作詞・作曲)の歌詞を勝手に解釈していきます。各節は単語ごとの分析的領域と、私の個人的な感想を交えた推察的領域に分けて述べます。

夕月夜 顔だす 消えてく 子供の声
  • 夕月夜
    これは「ゆうづくよ」と発音されています。かなり古風な響きですね。なぜ「ゆうづきよ」ではないのかについては後述します。
    ここでは aiko の「カブトムシ」に登場する一節「琥珀の弓張月」というヤバすぎる詩語と比較したいと思います。季語としてはどちらも仲秋。ただし弓張月より極限的な意味の単語です。
    特に時間や色を限定する効果があります。弓張月は形のみを言い表す言葉であるためaikoは「琥珀の」という、色や質感を補う語によって補足しています。その取り合わせが美しいわけです。
    一方で夕月夜は、夕という一文字だけで夕方という時間を限定し、さらに日が暮れていくときの空の色まで想起させる、イメージ喚起力の非常に強い単語です。これを冒頭に持ってくることにはどのような意味があると考えられるでしょうか。

  • 顔だす
    主語は「夕月夜」です。夕月夜のみでは定点的で動きのない風景ですが、顔出すという動きを与え、現在の時間の流れを表現しています。
    顔出すではなく、「顔だす」と漢字を開いています。また、顔を出すではなく、「顔だす」と助詞が省略されています。

  • 消えてく 子供の声
    次に音の情報が与えられます。さらに現在より前の状態までも描くという、時間表現の広がりがあります。なぜ唐突に子供がでてくるのかは自由に考える余地がありますが、詞の機能としては時間の経過の長さを表現していると思われます。
    この詞の主人公は子供たちが遊んでいるのを日中、ずっと見ていたのです。そして夕方になり、日の短くなってきた秋の空には月までが出てくる。子供たちは遊びをやめ、帰ってゆく。つまり自分は子供たちの親でもなければ、隣にだれか人がいるわけでもなく、家に待っている人がいるわけでもない、一人の大人である。
    こういった時間の経過と状況の説明のために、孤独な大人である主人公の対極として、帰る場所のある子供たちを描く必要があったのだろうと考えられます。
    消えていくではなく、「消えてく」という縮約が起こっていることに注目。

一行目にこの曲の詞のよさが凝縮されていると言ってもよいのですが、この一行だけで詩として完成しています。執拗なまでの映像の喚起と、比喩による言い換えが行われていますよね。言い換えの内容は上記のとおりです。

さて、冒頭に情景描写を持ってくるのは小説の常套手段です(「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」というように)。この歌詞は小説であると私は考察します。
ここでいう小説とは、作者が、ある主人公をめぐる環境や行動、その前と後とでの心理の変化を、虚構の物語によって描いたものとします。

そう仮定した場合、視点の問題が出てきます。この一行目は一体だれの言葉なのかという問題です。
一行目はあとに続く主観的な文言とは明らかに質が違います。完成された一節の詩なのです。「ゆうづくよ」という季語を上五に配置した破調の俳句と言っても過言ではありません。
そこで、大塚愛が自身の気持ちを歌った歌なのであれば、この詩の発信源は大塚愛ということでいいです。しかし、この歌詞は全体として小説の体を成しているため、作者は世界に登場することが基本的にはできず、描写の仕方によって作者の態度とすることしかできません。

詞はこのように続きます。

遠く遠く この空のどこかに 君はいるんだろう
  • 遠く遠く
    まずどこを修飾する言葉と捉えるかですが、二通り考えられます。
    1)「消えてく」を形容する副詞
    前の「消えてく 子供の声」を修飾しており、「遠く遠く消えていく子供の声」を倒置している状態です。
    2)副詞的用法の名詞化
    後の詞を修飾しており、「君」のいる場所が「遠く」であるという意味の名詞とも捉えられます。「この空のどこか遠く遠くに君はいるんだろう」の倒置になっています。
    二回繰り返すのは単に強調の意味もありますが、ここでも時間の経過が読み取れます。
    子供たちの声が遠くなってゆき、さらに遠くなってついには消え、ひとりになった主人公は暗くなっていく空の遠く遠くに意識を向けます。

    この位置に「遠く遠く」を配置することで前後で発生する視点の切り替えがスムーズに行われる印象があるので、意図的にここに配置されたものだと私は考えています。
    そう、この前後で視点が切り替わるのです。

  • この空のどこかに 君はいるんだろう
    「この空」とは、一行目で描写された空です。「この」というのは主観的な位置を表す指示形容詞です。つまりこれは主人公の発言であり、一行目の情景描写とは異なる主観的な心理描写の始まりであることを意味します。
    「君」も主人公から見た「君」であるため、大塚愛から見たリスナーのことでも、作者から見た主人公のことでもありません。登場人物の一人としての君です。
    一行目では体言止めにより名詞のみが並べられていたところに、「いるんだろう」という独白が現れることで、聴者は物語の主人公をここで初めて認識します。

ここで、先ほど提起した一行目の発言者は誰かという問題を解決しなければなりません。
一行目はこの主人公の言葉であると断言できるでしょうか。「顔だす 消えてく」というように、口語的な縮約が現れている点は、主人公の言葉であると解釈してもいいでしょう。
しかし、決定的な違和感を残すのが「夕月夜」です。この単語は日常語彙ではなく口語として発されるにしてはかなりの異質さであり、さらに「ゆうづくよ」と発音されていることがそれに拍車をかけています。あえて「ゆうづくよ」と言うことにより、これがだれかによって発音された言葉ではなく、書かれた物語あるいは詩であることを明確にしているようです。
これは書かれる言葉、つまり作者の言葉なのです。「顔だす」と漢字があえて開かれているのも作者がそのように書いているからなのです。この一行目はこの歌詞全体が、作者の手によって書かれた物語の始まりであることを示唆していると私は考えています。

さらに「遠く遠く」を境にして、作者が主人公を見下ろしている視点から、主人公自身の視点へと視点が滑らかに移動します。

なぜ、そのような視点の移動が必要だったのでしょうか。
たとえば最初の五文字と「顔だす」の部分を「夕焼けが 沈んで」とかにしたら、どうでしょうか。
「夕焼けが 沈んで 消えてく 子供の声」
作者の存在は消えます。一行目と二行目がすべて主人公の独白ということになります。しかしそれでは、時間の広がりが全くなくなります。物語は主人公が生きる時代ただ一点でのみ起こっていることになります。

この、過去から現在までの普遍的な時間の広がりに、この詞のテーマを見出す必要があるように思います。
あえて「ゆうづくよ」と古風な読み方を選び、もはや俳句とも言える詩を一行目に配置したのは、これから語られる物語は月を愛でていた古代から現代までずっと変わらないことであると、大塚愛がそう言いたいからだとおもうのです。作者の存在をあえて冒頭に感じさせたのは、これが古代から現代まで読みつがれてきた物語であると、大塚愛がそう言いたいからだとおもうのです。
では、過去から現在、さらにこれからも普遍的な事象とは果たしてなんでしょうか。

「この空のどこかに 君はいるんだろう」
ここでは明らかに死が描かれています。この詞のテーマは死による別離であると読み取ることが可能です。

夏の終わりに2人で抜け出した
  • 夏の終わりに
    先ほど「夕月夜」が仲秋の季語であると述べましたが、旧暦の仲秋と現代の夏の終わりの季節が一致します。

  • 2人で抜け出した
    「君」と主人公のふたりであると思われます。
    「2人」と算数字で表記されていることに注目。

この公園で見つけた
あの星座 何だか 覚えてる?
  • この公園で
    意外なことにここで初めて舞台が設定されます。またこれ以降、この物語のなかで現実に存在するものはこの公園と主人公のみで、他のものはすべて主人公の記憶や空想ということになります。

  • あの星座
    「プラネタリウム」という題名であるからには、天体がモチーフであるはずです。
    「夕月夜」も天体ではありましたが、私たちは月や時候の言葉からは「プラネタリウム」との関連性を見出すことはあまりできません。プラネタリウムは星座を見るものであり、月の満ち欠けを見るものではないからです。
    ここではじめて題名「プラネタリウム」と直接関係する単語が現れたといえます。

  • 覚えてる?
    終止形に疑問符をつけて覚えているかどうかを尋ねています。
    みなさんは歌だけを聴いたときに、ここが疑問文だと思えたでしょうか。私は思えました。
    「何だか覚えてる」という文は、自分が覚えてることを伝えるときには言わない言い回しですね。やはり相手に問いかけるときにしかこの言い方はしないように思います。

疲れたのでやめます。

五本指ハムスター✌🏻🐹✌🏻