ラブラブアベック通過問題 

トロッコ問題という思考実験をご存知でしょうか。ご存知だと思いますので至極てきとうに説明いたしますと、絶対に犠牲が出る場合に自分のせいでひとり犠牲になるのとそのまま見過ごして大勢犠牲になるの、どっちがいいかな? みたいな最低な問題です。どっちもいやにきまってる。高校の倫理の授業って不安になるような問題ばかりやらされた。善とはなにか? 自分とはなにか? みたいな。そのときは平気でしたけど今だったら不登校になってるかも。逆に繊細になってるかも。

これから書くことはそれとは全く関係ありません。

毎日自転車に乗っていると思うことがあるんです。自転車の走行が許可された歩道を走っているときのことです。

私の住んでいるあたりは狭い道が多く、そのとき私が走っている歩道も人と人がやっとすれ違える幅しかありませんでした。走っていると、一組のカップルの背中が先のほうに見えてきます。

二人はラブラブなカップルですから、横に並んでおはなししながらゆっく〜り歩いています。歩道と車道の間にはガードレールがあり、彼らを避けるために車道に降りることはできません。彼らのラブラブを通り抜けるか、私も同じ速度で進むかの二択です。当然通り抜けたいところです。

歩行者が第一優先ですから、自転車のわたしが彼らを退かすような行為は慎まなければなりません。ベルを鳴らして存在をアピールすることももちろん、ペダルを逆回転させてカラカラいわせたり、接近して威圧することもしてはなりません。彼らの時間を邪魔することは決して許されない。

そこでこうです。彼らが退くのを待っているとは判断されない、たまたまその速度で走ってきた自転車だと判断される程度の距離から予め徐行する。これが私の方法です。おはなししていて相手の顔を見たときにたまたま後ろの私の存在も視野に入り、早い段階で避けてくれるのを待つわけです。

しかしまあこの日のカップルはラブラブでしたので、なかなか気づきませんでした。なかなか気づかれないと、二人と私の距離はどんどん近づいていきますね。

ここからが問題です。

私はどちらかといえば男性が歩いているほうにむかって、車体を寄せていきました(①)。もうすぐ轢きそうになる距離まで近づいたところで、女性のほうがわたしに気づき(②)、男性の腕をひっぱって歩道の半分に身を寄せさせて、私の通るスペースを作りました。私は不本意ながらも彼らの邪魔をしてしまったことを大変申し訳なく思い(③)、ハンドルより深く頭を下げながら通り抜けました……。

この場面、何度もくりかえしてきています。何十回何百回と出くわしてきたかもしれません。そしてほぼ毎回、というか私の記憶ではすべてのカップルにおいて①〜③の結果が生じます

目的地、私の精神状態、天候、自転車の速度、あらゆる要素にかかわらず必ず①〜③の状況が発生するのです。

①私は女性と男性のどちらかを轢きそうになると必ず男性を轢きそうになる。無意識的、あるいは意識的であっても短い時間に即座に下された判断の結果そうなる。

②気づくのは必ず女性である。女性は必ず男性をじぶんのほうに引き寄せて避けさせる。

③私は「邪魔をした」と感じ、今回もうまくいかなかったと申し訳なく思う。次回は違う結果になるようなやりかたをしようと反省する。

私はこのイベントがあるたびになにか、実際の出来事以上に落ち込むというか、なにかよくない気持ちになります。お値段以上ならぬ出来事以上、後悔♪みたいなきもちになります。以下、私がもやもやする点です。


①轢きそうになるなら男性のほうがいい?

まず大前提からおはなしすると私は博愛主義者です。実際どうかに関わらず、他者の幸せを願う自分でありたいと思っています。目標です。

ですから、このカップルのことを邪魔だとか、ちんたら歩くなとか、轢いてやるぞとかそういったことは一切思いませんヨ……。マジで邪魔してごめんと思います。一度これがいやだから途中で道を変えて遠回りしたことあるくらいごめんと思います。

轢きたくはないんです。しかし、私はいつも無意識のうちに男性のほうに進路を寄せていってしまうのです。極論をいうと、男性だったら多少轢きそうになってもいいと無意識的に判断している。これはなぜでしょうか。

どちらか片方に避けてもらうしかないのですから、どちらでもいいはずです。それなのに私はどちらに避けてもらうかの判断材料として必ず性別を加味し、しかも男性のほうを選ぶのです。

これには大きくふたつの理由があると自己分析します。
ひとつは女性に避けさせるのは失礼だと思っているから、というものです。これは幼い頃からの刷りこみによって身についているレディファースト的価値観で、正の方向の文化的要因です。
ふたつめは男性のほうが肉体的に屈強で、俊敏で、危険が迫っていても対処する能力が高そうだから、というものです。これはひとつめの女性を尊重する気持ちとはうらはらに、男性の身体的優位性をもとからあてにしているようなところがあります。ようするに女性は弱い、男性は強い、みたいなステレオタイプがじぶんのなかにもあるのです。

逆差別ともいえるかもしれません。

②男は常に子供で、女は常に母なのか?

ここが一番どうしようもない部分なのですが、後ろから近づいてきた自転車に気づくのは必ず女性です。記憶しているうちでは必ずです。

男性のほうは気づきません。女性から「自転車がきているよ」と言われて振り向きます。そして不思議なことに少し考えるような間があって、女性に袖をひかれるようにして初めて道を開けます。これに関してはいつも必ずとは限りませんが、多くの場合こういった経過を辿ります。

男性が自発的に避けることはないのです。
この様は子供が母親に手をひかれて歩くところによく似ています。

ここでもやもやポイントとなるのは、これがカップルではなく、男性一人で歩いているときには早い段階で気づいて自発的に避けることが可能だという点です。

なぜでしょうか、男性は女性と歩いていると必ず注意散漫になるのです。書いていて気づきましたが単純に女性にしか注意が向いていないからというような書きかたですね、でもそうとはかぎりません。

この日轢きそうになったカップルについていえば、男性はスマホをいじいじしていました。このパターンもよくみます。おそらくひとりで歩いているときは歩きスマホはしないかもしれなし、していてもうしろから来る自転車には気づくのではないかと思います。女性とふたりでいると不思議なことに、うしろから至近距離まで近づいてきている自転車に気が付かなくなってしまうのです。

これは完全な憶測なのですが、このカップルの男性は常にこういったふうなのだと思います。じぶんの身の周りの注意は女性がしてあたりまえというような風情を感じます。おかしいです。

男は男女の関係性において根本的に子供なのかもしれません。

③男が避けるとなぜ残念なのか?

私は「ふたりの時間を邪魔して悪かったと思う」というようなことを書きましたが、正確にはすこし違うようです。

女性に気づかせ、女性に手を引かせ、男に避けさせて悪かった、申し訳ない。

このように思っているのです。

かっこ悪いところを作ってしまい、大変申し訳なく思っているのです。

これも性別に関する固定観念だとおもいます。男性はこうあってほしいとか、男性はかっこつけたがっているに違いないみたいな先入観があるため、恥をかかせたような気分に勝手になって勝手に申し訳ながっているわけです。


じゃあどうなったら私は満足なのか?
満足パターンを考えてみました。

パターン1)
①自転車の私は男性のほうに走っていく
②男性が気づく!自分から避ける!かっこいい!
③私は通り過ぎる

パターン2)
①自転車の私は女性のほうに走っていく
②男性が気づく!女性を引き寄せて抱きしめる!
③私は通り過ぎる

これです。
私が変えられるのは①の部分しかありません。ですからあとは男性次第になってきます。じゃあ女性のほうにむかって今度は走っていってみようとおもうのですが、十中八九女性が自ら気づいて避けると思います。男性は気づかないので。男性はせめて抱きしめてあげてほしい。

〜完〜

これはまた別の話ですが、同じ歩道を走っていたときのことです。

父子であろう男性と女児が手を繋いで歩いているのが見えて、例のごとくぎりぎりまで徐行していたのですが、気づかれずに追いついてしまいました。

すると女の子のほうが私に気づき、お父さんの手を引いて避けることを促しました。

私はこのときも深く頭を垂れて通り過ぎたのですが、アベック問題の際にはどちらかというと男性への謝罪の気持ちでする低頭を、このときは利発で親切な女の子への敬意からしました。

すると通り過ぎたうしろからこんな会話が聞こえてきたのです。「うしろで待ってたよ、どいてあげて」と娘。

それに対し「歩行者が優先だから避けなくていいんだよ」と父。

青信号と赤信号。
横断歩道の黒と白。

五本指ハムスター✌🏻🐹✌🏻