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『abさんご』

文芸部のころの文章を読む。
「なし遂げる」
「思いで」
「よぎなくされる」
とかいう
妙な漢字の開き方。
『abさんご』の影響である。

 aというがっこうとbというがっこうのどちらにいくのかと,会うおとなたちのくちぐちにきいた百にちほどがあったが,きかれた小児はちょうどその町を離れていくところだったから,aにもbにもついにむえんだった.その,まよわれることのなかった道の枝を,半せいきしてゆめの中で示されなおした者は,見あげたことのなかったてんじょう,ふんだことのなかったゆか,出あわなかった小児たちのかおのないかおを見さだめようとして,すこしあせり,それからとてもくつろいだ.そこからぜんぶをやりなおせるとかんじることのこのうえない軽さのうちへ,どちらでもないべつの町の初等教育からたどりはじめた長い日月のはてにたゆたい目ざめた者に,みゃくらくもなくあふれよせる野生の小禽たちのよびかわしがある.
(黒田夏子『abさんご』文藝春秋 4頁)

当時はワイドショーでこの部分がとり挙げられ、難解な文章を売りに販促されていた。多くの人が珍しいもの見たさでこの本を買った。
実験小説というのはそういうものだからそれでいい。浅識でまだ脳の柔らかかった私にはかなりの衝撃だった。(これが単に書き方のバリエーションであって、日本語の書き言葉というのは本来このように豊かな自由度を持っているということを知るのはそれからしばらく経ってからだったので)

このたび黒田夏子著『組曲 わすれこうじ』を入手してしまった。この本はつい2020年に出されたもので、もちろん書き方は『abさんご』とおなじ。これがいっさつまるまるぎっしり詰まっている。私の読解力だと一生かかりそうな気がする。
これは中学生のころ図書館でたまたま読んだ本に「ジョイスの『ユリシーズ』を読むのは一生かけても終わらないし、趣味はユリシーズですと言ってもいいくらい」と書かれていたのを見て、この世にはそんな本があるのかいとわくわくした思いとおなじような、不純な欲望である。

冒頭で気づいたことがあった。

三次元の像を二次元の像にして,縮尺のふしだらなまでの自在でひとひらの紙のおもてにあらわす方式は,…
黒田夏子『組曲 わすれこうじ』新潮社 5頁10行

急になに?!

ちらかりのあげくはどこかにいつかはと邂逅率が虚空にまぎれいり,
黒田夏子『組曲 わすれこうじ』新潮社 5頁16行

邂逅率?! 虚空?! SF読んでる? 

と思ってはじめて気づいたことであるが、『abさんご』もSFの感じはあった。

題名の『abさんご』というのの意味は、人生の選択肢としてのaやbやcがさんごのように枝分かれしているさまを言っている(そうです)。あのとき選ばれなかった分岐について思いを馳せているわけである。これって完全にタイムリープものでよくある「世界線」、ゲームでよくある「攻略ルート」としての時間の捉えかたじゃんね。

そもそもaやbも数式で使う言葉だし、横書きだし、句読点も理系分野で使うコンマピリオド。端々にあらわれる日本語の持つたおやかな柔軟性や、物体がもつ輪郭の美しいぼやけかたといったアナログな題材とともに、妙にデジタルな様式美が混在している、独特の印象がある。

このバランスによって、おそらくこれ以降いつの時代にも、環境の変化に淘汰されない唯一の読み心地として残り続ける気がする。
これは現時点で、このひとの本を読む場合は全員が「いちから」読まなければいけないということと同じ意味である。それまで読んできたものの質や知識の総量や生活の厚みなどさまざまなものが一般的には読解力になってくるが、黒田夏子を読む場合はそれらが通用しない。人々はいちから『abさんご』をたどるという体験をするわけである。
だからこそいつ、どんな日本人が読んでも新しい読み心地を得られるというわけ。もしかするとこれを装置(関数)として意識したから、わざわざSFみたいな言い回しやモチーフをたまにちらつかせているのかな、とかいろいろ考えてしまうの。

五本指ハムスター✌🏻🐹✌🏻