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掲示物一つとっても、未だにぐちゃぐちゃ考えてる

掲示物は、子どもたち自身が(あるいは周囲が)優劣をつけてしまうから、やめたがいいという考えがある。確かにそうかもしれない。でも、優劣がつく場面は他にもある。ということは、そういうことも全部止めるということなのだろうか。実は中休みだって、子どもたちは優劣を感じている場合だってある。

そもそも結果だけに、子どもたちも、大人たちも、目を向けているから優劣をつけることが起きてしまうとは考えられないだろうか。優劣がつくから掲示をやめるからこそ、その子らしさや、そこに至る過程、その子のその結果に至るまで文脈などの意味が、重みが共有されないままになっているのではないか。

これは、大人の論理であり、子どもたちは、やっぱり優劣をつけてしまうものだという考えもあるだろう。授業中の優劣はその場面だけだけれど、掲示物は、ずっと掲示されているという考えもあるだろう。それでも、「自分らしく書けたからこれで満足」「前回の課題を生かせた作品になったからこれで満足」

と言いながら、胸を張りながら、作品を掲示する姿を目指しちゃいけないのだろうか。それなら、作品を掲示するかしないかを自己判断させるといいという考えもあるだろう。でも、自分で選択して掲示しないままでいる子の心には、どんなことが積み重ねられていくのだろうか。自己選択は、聞こえがいい。

でも、聞こえがいい実践ほど、危ういことがある。自己選択は、教師の逃げがある場合もある。時間があればな…と思う。作品を間にはさんで、子どもたちと対話をし、自己判断を委ねていくようになるといいな。時間はつくり出すものと言うけれど、高学年を担任し、力のない自分には、なかなか余裕がない。

掲示物一つにも、こうやって悩んでブレて、流されて、目を背けて、目を向けている。
でも、考えること、考え続けることは、手放さないようにしたい。

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