自分の切り取り方で教室を見ているということ

今日、こんなことをつぶやいた。ボクらはどうしても他人の実践から学ぶ機会が多い。
なので、こんな思いを言葉にしてみた。

ただ、「切り取られたもの以外のことに思いを巡らしながら、自分の教室と比べながら考える」ことは難しい。
それならば直接教室や授業を見ることができるといいなと思う。少なくとも、自分の切り取り方で見ることができるから。
ただ自分の職場なら、それができる可能性があるけれど、何らかの方法で手にした実践の教室や授業を見ることは、なかなか容易じゃない。

やっぱり「その実践記録は、切り取られたものだということを意識し、切り取られたもの以外のことに思いを巡らしながら、自分の教室と比べながら考えることが大事」なのかな…。

そして、自分が向き合っている教室や授業も、自分の切り取り方で、見ていることも忘れちゃいけない。ボクらは、どうしても見たいようにしか見ないところがある。

だから自分の教室を、授業を複眼的な視点で見てもらって、そのフィードバックから、少しでも見えていないところが見えるようになりたいと思う。

でも、実は、ここも難しいところがある。
それは、教室(授業)を見に来てくださる人は、すでにバイアス(「この先生は、こんな先生だ」というような)がかかってしまっている場合があるから、自分よりの切り取り方をしてしまう可能性がある。

そうすると、自分よりの切り取り方をされてしまうことで、本来改善すべきだったことが、逆に強化されてしまう場合さえある。

逆に、最初から「批判してやろう」という構えで来て、切り取られてしまうことだってある。

やっぱり難しい。
極力フラットに、意識的にクリティカルな視点をもって見てもらい、対話をしながらフィードバックしてもらえることができれば一番だ。

いずれにしても
誰かの実践記録を手にする場合も、
自分の実践と向き合う場合も、
それぞれの切り取り方で見ていることを自覚したい。


今日のアルバム。
やっぱり夜になると、調子が悪いな…。
何度聞いても切なくなるな、この歌は。


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