ブリおこし

玄関のチャイムが鳴る音で目を覚まし、音に導かれるままドアを開けると、大きくて細長い箱を渡された。発泡スチロールだ。

「あの、サインか印鑑を…」

そうか、宅急便だ。差し出されたボールペンを手に取った。ペン先があっという間に伝票の上で迷子になって、ぐちゃっとした線が描かれる。

「ありがとうございました」

ドアが閉まってはじめて、自分がガニ股で箱の重さを支えていることに気づいた。かなり重い。米の袋くらいはあるだろうか。そのままよちよちと歩いてリビングに戻る。その途中で「クール便」、「氷見直送」といったシールの文字が目に入り、テーブルに置いたところで真ん中にでかでかと貼られたシールの文字をようやく認識した。

「天然寒ブリ」

ああ、富山湾に面した能登半島の付け根、越中式定置網漁発祥の地である富山県は氷見(ひみ)に揚がった寒ブリだ…。なぜ自分の頭の中からこんなにすらすらと寒ブリに関する知識が出てくるのか。「氷見」を読めることすら不思議だ。

ゆっくりと箱を開けると、冷気を吐き出しながら氷入りの無数の小さなビニール袋が姿を現した。それらを一つずつ取り除いていくと、覆われていた本体が徐々に見えてくる。それはきっと寒ブリで、もちろん寒ブリに決まっていて、全部どけたらやっぱり寒ブリだった。

でかい。箱よりもでかいんじゃないか。どうしてこの箱に入りきってるのか不思議なくらいだ。思ってたより全然でかい。“思ってたより”…?一体いつ、何を「思った」んだ。

部屋の電気を点けると、寒ブリは作り物のような見事な光沢を放った。故郷、長崎は五島列島沖での産卵へ向け、日本海を南下してはるばる東シナ海に至る大航海を生き抜くため、北の海でたっぷりと脂肪を蓄えたその体は、今にもはちきれんばかりの艶めかしい曲線をこれ見よがしに主張してくる。目元から始まって体の中央を縦断する黄色い帯状の模様は、佐渡の金山を思わせる輝きだ。

思わず一旦、テーブルの上にあったスマホを手にとった。そもそも今は何日の何時なのか、まずそれが知りたかった。

16:34
12月19日 日曜日

土曜日を潰してしまった。そして日曜日もきっと潰れる。メールの通知を辿ると、出荷完了、注文確定の通知メールがそれぞれしっかり出てきた。完全に自分で注文してる。2万5千円だ。家賃の半分超えてる。

思わず一旦、歯を磨き、水を一杯飲んで、ずいぶん寒いことに気づいてストーブをつけようとしたところで手を止めた。つけちゃだめだ。自炊もしない一人暮らしの我が家の小さい冷蔵庫にムッチムチの寒ブリまるごと一尾、入るわけがない。魚に詳しくはないが、腐らせるには余りにもったいない代物であることはわかる。なにせ2万5千円だ。家賃大丈夫か、今月。

とりあえずコンビニで氷を買ってきて、流しに氷水を溜めて寒ブリを投入した。どっぷん、と音を立てて沈むと同時にそこそこの量の氷水が顔面に直撃した直後、自分が臭いということにようやく気がついた。金曜の夜に帰ってきた時のままのワイシャツに、やはり金曜の夜、寝る前に脱ぎ散らかしたのであろう、床に落ちていた背広やコートなどをそのまま拾って着込んだせいもあって、タバコや何やらでひどい臭いだ。体臭自体もヤバい。

もしかしたら全部夢で、戻ったら寒ブリなんてないんじゃないか。そう思いながらシャワーを浴びて戻ると、やはり流しには立派な寒ブリがどんぶらこと浮かんでいた。パンツ一丁で見つめ合う。……寒い。

きれいな服とコートを着込んで戻ってきても、寒ブリはまだそこに存在している。現実だ。自分で注文したんだ。金曜の夜、何軒目かの店でブリが売り切れだったんだろうか。何軒行ったのか、どこに行ったのか、どうやって帰ったかも記憶がない。大体、何故まるごとなのか。どうするつもりだったんだ、包丁もないのに。

どうしたらいい。明日の朝にはまた出勤しなきゃいけない。寿司屋に持ち込むか…?いや、それいくらかかるんだ。寒ブリ買っちゃってる時点で金欠なのに。メルカリ…?買い手つくか…?今日中に、寒ブリまるごと1尾、出来れば手渡しで取引してくれる人、いるか…?どう考えても厳しい。一体どうしたらいいのか。

万が一の可能性にかけて、とりあえず写真を撮ってメルカリに上げようとしたところで出品規約にひっかかることに気づいた。あっさりと逃げ道を断たれ、ただ呆然と流しの寒ブリを見つめる。カランっ、と溶けた氷が音を立てた。

                   ※

冬場の乾燥した空気の影響もあいまって、築48年の木造2階建てアパート「出世荘」の1階で起こった火の手はあっという間に建物全体に回った。発生が夕方だったこともあって外出中の者が多かったのは不幸中の幸いであったが、高齢者3名、就寝中だったと思しき40代の男性1名の計4名が死亡するという痛ましい被害をもたらした。在宅中だった入居者の内、生存者は1名のみ、大きな魚を抱いて部屋から飛び出してきた30代の男性であった。

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