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大洪水の手前にて


 雨が降りつづいていた。一面の空は灰色に覆われ、僅かに溢れる光は押しせめぎあう雨雲の重みや高さやを誤魔化している。そのかしこから水の滴は白い糸となり、切れ目もなくぼろい屋根や、アスファルトの地べたを叩いている。風がないのが幸いだった。雨脚は強まりも弱まりもせず、あたりはかえって常よりも静かなようだ。
「ずいぶんと降りますねえ。」
 道路を挟んで向かいの歩道には赤、青、黄の小さな傘がしきりとふれうごいていて、どうやら学校帰りの子どもたちがふざけているらしい。
「そうですねえ。しばらくは、やみそうにないですねえ。」
 何の気もなしに受けこたえたところで初めて、わたしは男が隣に立っていることに気がつく。大方、雨の気配にまぎれてやってきたのだろう。
「もうしばらくはこんな天気が続くのでしょうか。」
「梅雨明けもまだ先になると予報でも言ってましたね。」
「ああ、参ってしまう……すっかり夏の気分でいるのに、こうも急に肌寒くなると、体に堪える。毎年のこととはいえ、やはりこの季節は過ごしにくいものですね。」
「自分も、上着を持ってこなかったのをいま後悔しているところですよ。」
 徐々に会話の調子を帯びてきたやりとりに、ようやく男の顔をまともにふりかえる。こちらはベンチに腰を下ろしているので自然、見上げる格好となった。年は三十か四十頃か、くすんだ色をした顔が狭いバス止めの屋根の下に浮かび、やはり道の向こうの方をぼんやりと眺めやっている。眉の根はやわらかにほどけて、頬には微かな赤みが差している。酒でも入っているのだろうか。心なし、甘いような臭気が中背中肉の体躯からふくらみ、それにしても、寒い。男は半袖の下からむきだしになった両腕を擦っている。
「せめて、もう少し空気が乾いていれば。暑くもないのに汗が垂れるのには、体の調子も狂わされてしまうようで。いまも少し、熱の出ている気がしないでもないのですが、きっとまやかしなのでしょう。この頃は、健康と不健康との感じ分けもつかない……。」
「わたしは腹を下してしまいましたよ。大気の湿度に圧されて、水がとりこめなくなるのか。つられて食も細くなる始末で、しかし毎年のことともなれば、これもひとつの健康のかたちなのかもしれません。朝から日が差して、蝉の鳴くのが聞こえてくるようなときには、かえって身の置きどころも分からなくなる。昨日が、ちょうどそんな陽気で。」
「昨日?」
「家を出てすぐの庭先に立派な桜の木があって。通勤のたびに道路に張りだした、その立派な幹の下をくぐり抜けていくわけなのですが、葉の暗い緑色がやたらに染みて、しばらく足を止めさせられました。あんな濃い影も久方ぶりに目にしたようで、思わず竦んでしまった。いま、ここにいる自分のからだこそ、間違いそのもののようで……。」
「昨日、昨日は、はて、晴れでしたっけ。」
「晴れでしたよ、午後からはまた崩れましたが。昼になって、空のあちらこちらに大きな傘みたいな雲がいくつも掛かっているのを見たときにはほっとしたものです。これでまたからだが定まってくれる。毎朝のように便所にうずくまっては天を恨むのも、むしろ安らかなもののように感じられる。」
 おもての雨の音がふと耳につく。簡素な屋根とベンチのみが置かれた停留所の地べたにはうっすらと水が溜まり、ズボン裾はすっかり濡れている。当然のように靴からも水は染みこんで、湿りついた靴下は重りのように足指にまとわりついていた。すぐそばにこんもりと茂る植えこみの緑は褪せている。雨粒に叩かれて、ひっきりなしに震えている。
耳が新たなざわめきをどこか遠くにとらえる。蝉だろうか。
「日といえば最近、夢に見ましたよ。」
「夢?」
「そう。夢に太陽が出てくるなんて縁起が良いようにも思えるけれど、むしろそらおそろしい。眩しい、と思って目をあけてみればあたりはまだまっくらで、気持ちばかりが妙にはしゃいでいる。それこそようやく長い梅雨が晴れて、どこかに出かけたくなるみたいに。ひとりで道を歩いている夢でした。まわりには誰もいなかった。真っ直ぐに太陽を見つめていたのを覚えています。きっと現実であれば、とっくに網膜が焼けていたでしょう。すると向こうから声が聞こえてきた。何の向こうなのかはいまひとつつかめません。ただ向こうの方、なのです。夢のなかの距離感覚なんて、しょせんそんなものだ。最初は死んだ娘の声だと思っていました。死んだということも忘れていた。懐かしいおさげ髪の姿も道のどこかに現れていたようで、見通しの良い一本道を、たぶん白線に沿って歩いていたんじゃあないか。近くには葉を溢れんばかりに抱えた大木がそびえて、じっと動かない。太陽は木のすぐ上にあって、娘の声がそこから光とともに降りそそいでいるようにも感じられました。わたしはいつしか必死に耳を澄ましているんです。二十二歳でみずから命を絶ってしまった娘のことでしたから、悔いもあって。ですがいくら注意しても何を言っているのかは分からない。娘の声であったかもあやしいものです。とらえようとするほどにその調子も、色合いも、灰のようにほどけていきました。気がつけば喋っているのはわたしひとりだけだった。向こうから話しかけながら、いつまでも辿りつけそうにない向こうへと歩いていく。空のすべてから囁きかけながら、まだ太陽をふり仰いでもいる。とても眩しかった……ほんとうはね、娘のことなんてたいして覚えちゃいないんです。小学校にも上がらせる前に妻と別れて、年に一度も会うか、会わないか。それだけの繋がりが細々とあって、けれどほとんどもう他人のようなものでした。最後に見たのも二年前、いや今からだと三年前ですか。成人式を終えたばかりの振り袖姿で、一応程度に挨拶に来てくれた。着物が鮮やかな朱色で、牡丹の花の柄があしらわれていたさままでありありと思い出せるのに、肝心の顔立ちは思い出せない。いかにわたしがろくでもない男であったかが伺い知れるというものです。娘の訃報を受けとったのも葬儀がすべて終わった後でした。元妻は元妻で、急な出来事に動転しているうちにわたしのことがすっぽりと頭から抜けおちてしまったようでして……咎める気にはとうていなれません。ただそのために、娘はわたしのなかでますますあやふやなものになってしまった。親としての責を自分が果たしてさえいれば娘は死なずに済んだのではないかと思う。一方で、まだあの娘が、わたしの知らない姿で闊達に街をほっつき歩いているのを、呑気に思い描いている自分もいる。そもそもが、死者と同じところにいるも等しい娘でした。それでも、あの太陽の夢から覚めたあとにわたしが真っ先に思ったのは、耐えられないということでした。娘がまるで生きているふうであったその夢のことも、好き勝手な夢想を娘に投じつづけているわたし自身のことも。彼女は死んだのです。そのことを自分に言い聞かせるためにやってきた墓参りの、いまはちょうど帰り道でして……ああ、長々、失礼いたしました。ほんとうは行きずりの方にこんなお話をするつもりもなかったのですが、ほかに聞いてくれるような友も家族もおりませんもので……。」
「いいえ、お構いなく。これもなにかの縁というものでしょう。」
「ああ、ありがたい。……正直なところ、墓前まで詣でたは良いものの、どうにも実感が薄くて。ですがあなたにお話させていただいて、ようやく少し、気持ちが晴れてきたような気がします。」
 遠くから水飛沫を撥ねあげて、バスが近づいてくるのが見える。かと思いきや停留所のすぐ手前の信号に引っかかって、雨もやに沈みこんだ車体はどこか億劫そうに此方へと顔を向けている。
「やあ、やっと来ましたな。」
「ええ、やっと来ましたねえ。」
「自分はこのバスに乗りますが、そちらは。」
「違う方面のものになりますので。あと二本ほど、やり過ごすことになりそうです。」
「では、これでお別れだ。」
「ええ、お別れですね。」
 乗り場へ近寄る足さきが、浅い水溜まりを蹴りあげる。バスが走りこんでくれば、車道のへりに流れこんでいたさらに多くの水が跳ねあげられて、太腿のあたりまでをも濡らしてしまう。さきほどまで気にもしていなかった寒さが、とたんに身に堪える。
 乗車口へと足を掛ける姿を見送っていた。腕に下げた長傘が邪魔で、ポケットから小銭を出すのに少しもたついて、行きずりの話し相手のことはもはや振りかえろうともしない。
 と、不意に後ろのほうから、すいません、まってくださあい、と声がする。ついでばしゃばしゃとせわしない足音が聞こえて、小柄な姿が停留所の屋根の下へ勢いよく飛びこみ、バスに駆けこもうとしたところで、あれ、と今度は素っ頓狂な声があがる。二、三、運転手と言葉を交わすと、ベージュのロングスカートを履き、薄紅色の傘を手にした女は再び地面の上に舞い戻った。すいません、お騒がせいたしました、と言い終えるか終えないかのうちに独特の警告音と空気音をたて、バスは扉を閉めている。
 ゆっくりと動きだす、その窓の向こうの暗がりには、先ほどまでそばにあった顔がぼんやりと浮かんでいた。潤んだように光る両目は此方を、さらに正確に言えば、傘の水滴を払うためにいまは車道に背を向けている女の方をじっと見つめているらしい。その唇が震えるのを見たように思った。けれどそれを確かめるよりも早く車体は走りだし、ふっとあたりが白む。
「お騒がせいたしました。別の方面に行くバスととりちがえてしまいまして。」
 ひとしきり傘を振るった女が此方へと向きなおり、申し訳なさげに眉を下げたところで、低い唸りがどろどろと空を這いよってきた。
「いま、鳴りましたね。」
「さっき、光ってましたね。」
「本当ですか。ああ、でも、言われてみれば。」
 雷鳴を境に、降りはひときわ激しくなるようだった。辛うじて雨避けとしての機能を果たす廂はそれ自体が叫びをあげているかのように頭上で震え、かと思えば前触れもなしに黙りこむことを繰りかえす。
 女と、じっと見つめあっている自分に気がついていた。たまたま目線の交じりあったところで、急に変化した天気に耳を奪われているうち、互いに逸らしそこねたものらしく、女は他所行きの笑みが曖昧にほどけかけた空虚な面差しを、淡い闇のなかに浮かべている。屋根の下はますます暗く、女の顔はとけていく。
「さきほど、すれ違いませんでしたか? お墓の前で……。」
「いいえ。」
 たがいに口を閉ざしていた。女は支柱のあちこちに錆の浮きでたベンチに膝を揃えて座り、まっすぐに張りつめた背中はやや前のめりで、何かを待ち構えているようにも見える。それでいて、目つきは茫洋としていた。自分でも何を期待しているのか分からないままに、ただ予兆に追いたてられて待機の姿勢をとらされているかのようでもあり、無防備にさらけだされた横顔には表情らしきものも映らない。年のころも、個性らしきものも読みとれない。何かを掴みかけたと思っても、稲光の走るたびに断ち切られる。雷の音は聞こえるときも聞こえないときもあった。いよいよ聴覚が雨降りの音一色に塗りつぶされていくなかでその居姿だけがひっそりと静まり、まるで時の流れから切り離されている。
それを夢の中の娘のようだ、とわたしは思う。
「あの。」
「はい。」
「冷えませんか。」
 堪りかねて話しかければ、女は放心のさなかから此方を振りかえる。その額も、ブラウスの袖口も、スカートの裾も、しとどに濡れたままになっている。
「いいえ。ここまで走ってきたときの熱がまだ抜けていなくて。暑いくらいですよ。」
「そうですか。いえ、顔色がやや優れないように見えてしまったもので。」
「梅雨ですから。梅雨の季節はいつも体調が悪くて。」
「さっき居合わせたひとも同じことを言っていましたよ。かく言うわたしもそうで。」
「おや。いったいどこを悪くしていらっしゃるのですか?」
「消化器系全般です。あなたは?」
「さあ。どこが悪いのでしょう。じつは自分でもよく分からないのです。」
 女はやにわに苦笑いのようなものをかたちづくった。まだ心は遠くにとどめたままのようで、皺の寄せられた目元には影ばかりがわだかまり、生気をかき消している。けれどそのからだが温いことを、微かにこちらにとどく吐息から感じとっていた。あいだに大人ふたりが優に入れるほどの距離を保ちながら、なぜかそのことが急に意識されていく。
「きっと気圧が下がるからでしょう。全部が悪くなるのです。」
「全部。」
「頭の重さも、脈拍も、郵便ポストの赤さも、ひとの汗のにおいも……何もかもが悪いのです。感じることのすべてがからだにひどく食いこんでくるようで、けれどそれを見ているわたしはどこか遠い、ほかのところにあるような気もするのです。まるでいまも、あのポストにほんとうのわたしが乗りうつっているみたいで。」
「あの落ち葉は? ほらあそこの、ずいぶんと大きくて、丸くなっている……。」
「プラタナスの葉ですね。あれはまだ、わたしではありません。あなたは?」
「わたしもまた、あれではありません。ですがあそこに倒れている、誰かの忘れものでしょうか。赤い子ども用の長靴の片一方ではあるかもしれない。」
「まあ、あんなところに。落としものでしょうか。こんな雨の日に履きものを失くしてしまうなんて。」
 女はゆっくりと、まばたきをする。再び正面を向くからだは変わらず張りつめている。
「あれではうちに帰るのもさぞや大変だったでしょう。」
「ええ。それにうちに着いたあとも、まだ片足がどこかを歩きまわっているような気がして仕方なくて。」
 容赦なく叩きつけていた雨の音がふとやわらぎ、あたりの景色が少し明るくなる。とはいえバス停の屋根の下の小さな避難所と、その外とを隔てるのに十分な降りには違いなく、時間からとりこぼされているのは女だけではない、自分もなのだろう。稲光はもう何度となくふたりのあいだを走りぬけていた。そのたびごとに自分が向かおうとしていた場所のことさえ白く染まって、定かでなくなっていく。果たしてどこに出向こうとしていたところだったのか、それとも帰ろうとしていたのか、それとも。
「あ。バスが来ますね。」
「あれは反対方面に行くやつですね。此方側も、もうすぐかな。」
 道路を挟んでほぼ向かい側にある停留所に、長い車体が滑りこむのをふたりして身を捩り、眺めていた。暗い箱の中に乗客は疎らなようで、僅かな影の揺らめきが、辛うじて乗りこんだもののいるらしいことを此方へと教えてくれる。やがて来たときと同じ鈍重な動きでバスは去っていく。あの中に乗っていった影がどうしてわたしではないのだろう、と詮のないことを考える。いまここにうずくまりこんでいるからだが、わたしでなければならないのはどうしてか。
 女もまた、とうに視野から消えさった車体を追おうとする格好のまま、おそらくはわれを忘れている。ぐっと道のさきを仰ごうと上体をひねって、此方へと向けた背中はシャツの生地をしっとりと張りつかせながら、実体をなくしたもののようにぼんやりと白い光を集めている。輪郭すら視線のふれるさきからほどけていきそうなのに、そのからだからはうっそりとあまい、夏草のような匂いが強くたちのぼるらしいのが不思議だった。
「わたしは、あちら側のバスに乗るべきだったのかもしれません。」
 ふと口をひらく。
「あの路線のさきには病院がありましたでしょう。ずいぶんと大きな。あそこにさえ行けば、わたしの病気の正体も掴めたのかもしれません。けれど、今日はこんな雨ですから。」
 分厚い雲の向こうでも日は翳りはじめているはずだった。いまだ雨粒のしきりと垂れおちていくさきで、方々の影はこころなし青黒く沈みつつある。
 再び姿勢を正して座りこみ、温度のない横顔ばかりを差しむける女の相貌は、ついぞ此方に焦点を結ばせないまま、白々とあたりの景色の方へ、あるいはもっと遠いところへ溶けひろがっている。
「わたしはあそこで、きょうだいを亡くしましたよ。もうずっと昔のことになるはずですが。」
 やがてバスがやってきた。行先表示器に示された駅名を見て、おもむろに女が立ち上がる。
 軽い会釈のみを送って、搭乗口へと吸いこまれていく姿は静かだった。
 雷は遠くで鳴りつづけている。
 女は傘を忘れていた。薄紅色のそれがベンチに立てかけられたままなのに気がついたのはバスが去ってしばらく経ってからのことで、もはやどうしようもないことだった。すべらかな布地が中棒に丁寧に巻きつけられ、ネームバンドでとめられている様は、さきほどまでの女の、きりつめられた居姿ともうっすら似かよい、草いきれのようなからだのにおいはまだそこに留まっている。雨靄ともまじりあいながら、あたりに夕方の気配を運びこんでいる。
 道路も、植えこみの葉も、居並ぶ建物も、かたちをなくしはじめていた。淡い闇がものというものの輪郭からとろりと滲み、風景を少しずつ夜の帳のなかへ呑みこんでいく一方で、やがて灯りだす街灯や窓明かりはその周囲の電柱や、雨すだれやの姿だけをくっきりと切りとり、中空には信号機の赤や青やがまなこのように浮かんでいる。稲光はときおりカメラのフラッシュのように視界を奪ったけれども、間遠にやってくる音ももうほとんど雨に紛れている。
 濡れたままの衣服に包まれたからだは冷えきって、けれど変わらずじっとりとした汗をかきつづけている。あるいは大気から溢れてしまった水分が仕方なく体表へとまとわりついているのか。両腕を抱きこむようにして掌で擦れば、粘るような熱と冷たさとがあまりにも鮮やかで、全身が粟立つ。と、同時に去り際の女の、細い白木のような立ち姿が意識をさっとよぎっていく。
 それはほんとうに女だったのか。街灯や、稲妻の光ではなかったのか。
「いつまで、わたしたちは待たされるのでしょうか。」
 そんなことも話したかもしれない。
「十分もすれば来るのではないでしょうか。」
「ですが、そのあいだに明日が来ているということもありますでしょう。」
「明日が。」
「昨日でもあるかもしれない。あるいは、一昨日ということも……。」
 そのとき、雨はほんのわずかのあいだだけ降りやんでいただろうか。つかのま視界がひらけて、日焼けた道がどこまでもつづいている。
「さっきまでは連れと一緒にいたのですが、きっともう二度と会うこともないのでしょう。いったいいつになったら、この苦しみも終わるのでしょうか。」
「いつかには。きっと来ますよ。それまではずっと一緒です。あなたも、わたしも。」
「かれらも?」
「ええ。あの娘さんも。」
 道路端に植えこまれているのは白粉花だった。数かぎりない葉がみずからをかかえこむように群がり、そのうわべにぽつぽつと濃い紅色の花がはじけている。微かな風に揺られている。
 歌っているようにも見えた。女は、あるいは男は、あるいはわたしは。唇をとざし、息をひそめて立ち尽くしている。座りこんでいるあいだもわたしたちはずっと何か大きな、とてつもなく緩慢な流れへと結びつけられているらしい。それがわたしたちの姿を歌へと変える。白粉花とも、ポストとも、プラタナスとも同じ、無言の揺らめきへと変えてしまう。あるいは雨とも、太陽とも。
「いつまで、つづくのでしょうか。」
 もう一度、口にしていた。ふと此方をふりかえった瞳は青く潤み、ひたむきに此方を見つめているようで、その実なにものをもとらえてはいない、けもののまなこだ。
「明日には、蘇りますよ。」
 男女の姿があった。広い一本道をゆっくりと並んで歩いている。ときおり片方が少しずつ歩調を狂わせ、しゃがみこむことがある。するともう片一方はそれに構わず前へ前へと進んでいき、けれど崩れた方もやがて立ちあがり、何ごともなかったかのようにのろのろとした歩みを運んでいる。とりたてて追いつこうとした様子も、待とうとした様子もないのに、ふたりはいつのまにかまた隣りあっている。呪いのように、それを繰りかえしている。
 泥のうごめきのようにも見えた。
「すべての、わたしたちが。蘇りますよ。」
 雨が降りつづいていた。もういつから降りつづいていたのかも分からない。昨日からだろうか、一昨日からだろうか。数えあげようとして、昨日とはいつのことだったろうと思う。湯気のたちのぼるポトフを食べたのは昨日のことだったろうか。花壇に咲きほこるチューリップの花を無心にひきちぎったのは昨日のことだったろうか。両手を赤いものでべったりと汚して立ちつくしていたのは昨日のことだったろうか。それとももっと昔のことか、生まれるよりも前の出来事か。
「あなた、どうしたの。」
 丁寧に整えられた食卓のことを思った。白いテーブルクロスの上にはベーコンエッグ、トマトとピーマンとレタスのサラダ、コーンスープ、籠に盛られたバタール、白磁のティーカップに注がれたアッサムティー、掌に収まるほどの瓶に活けられた霞草の花が、正午の明るみに包まれながら完璧な配置で並び、銀色のフォークを持ちあげたままふと食事の手を止めたわたしをその声は訝しんでいるようだった。何でもない、と振りはらって再びみずみずしい食物を突き刺し、咀嚼するわたしには、自分がひとりの人間というより、目の前の食卓の一部となったように感じられている。
 おいしい? おいしいよ。そう、よかった。このやりとりももう十年も二十年も昔からくりかえしてきたような気がしたけれども、初めてのことだった。じぶんの家でひとをもてなすようなことも初めてだから、とどこか拙い手つきで支度をしていた相手も同じような時間の淀みにひきこまれているようで、ともすると親か伴侶かのように、此方の食器の使い方やに細かな修正を加えたがるのをわたしも拒むことなく、そうしてフォークをきらめかせ、茶を啜り、ひとつひとつ皿が空いていくほどにわたしたちも静かな、完璧な食卓の一部に変わっていく。危うい均衡をふたりきりで編んでいく。
 ひとつでも間違えれば、面と向かいあい、食事をすることも耐えられなかっただろう。行きずりの相手だった。低く、耳ざわりの良い声に惹かれて手招かれていったさきで抱きあった。何日もつづいた雨があがったばかりの暗い夜のことで、お互いにバスの最終便をずいぶんと待っていて、ついに待ちきれなかったのだ。
 はじめは見ず知らずの他人同士、水のにおいが濃くたちこめるなか距離をあけて、ベンチに座りこんでいた。それがいつからか、眺められていた。街灯の明かりのなかに俯きがちの横顔をほんのわずかに傾け、ぼんやりと投げかけられたまなざしは、けれど此方をはっきりととらえているとも思われない。どうしてかそれに久方ぶりの安堵のようなものを覚えて、うとうとと少し船を漕ぎ、目を醒ましたときには一言も口を利かないままに、馴れ親しんだもの同士のようになっていた。しばらく暗い、だとか寒い、だとかからだが重い、だとか自らのものでもないような言葉を互いに交わして、ところで、前にどこかでお会いしませんでしたか。出しぬけな問いかけは、じっとりと湿りつくような暗闇のなかに、火花のようにぱっと浮かび、ようやくまともに此方を向いた顔に、たしかにわたしも懐かしさを感じとっていた。
 ――高校。いいえ、わたしがこのあたりに移ってきたのはここ四、五年のことで、高校を出るまではずっと――のあたりにいました。――か。行ったこともない、わたしはずっとこのあたりの生まれ育ちで。ええ、ここのバスの行く先にある――病院、あそこでわたしは産まれましたし、家族を看取ったこともあります。ではもうずっとこの土地で。はい。とはいえ、住む家は転々としてましたよ、ほら、あそこの幹がまっぷたつに割れたみたいな松の木の下、あの分かれ道を少し行った先にも住んでいたことがあります。いまも、このあたりに? いいえ、いまは少し離れたところに。このバスでしばらく行ったさきですよ、あなたは? 川沿いの宅地に部屋を借りていますよ。先日の大雨では川が溢れて、いえ、わたしは上の階に住んでいるので浸水はしませんでしたが、ずいぶんとひどい匂いがあがってきて、水がひいてからもずっと消えなくて。拭っても拭ってもついてまわってくるみたいで、結局衣類も何着か捨てました。でもまたすぐに、次の大雨が来るそうだ。今夜だけは落ち着いているようですが、明日からはだいぶ酷くなるとか。
あのあたりは昔から洪水の多い地域だったそうですよ。半世紀ほども前にだいぶ工事をしてからは滅多になくなったようですが。
 あなたはあの川の洪水にはあったことがないのですね。
 ええ、わたしがものごころついた頃にはもうコンクリートブロックで囲われた、浅い、無害そうな流れになっていました。溢れるなんて思ってもみなかった。生まれ育った土地とはいっても、存外知らないことの方が多いもので、かえって根無し草のように自分が思えることもあります。
 あなたはいま、何のお仕事を。
 事務職を。毎日毎日人の名前や数を書いたり消したりしています。あなたは?
 デパートの販売員を。それなりに満ちたりてますが、じぶんの亡霊を電灯の下に歩かせているみたいな気分にときどきなりますよ。
 あなたのお名前は。
 わたしは。あなたは?
 結局、互いに覚えのない名前だった。きっと前にもこんな風に同じバスを待っていたのでしょう、と言われてみればそれがもっともありえそうな話で、けれど電灯の下にぽつりと浮かびあがったままの顔は、とらえようとすればするほどに見知っている、とも見ず知らずだとも定めがつかなくなっていく。ずいぶんとおかしなことに拘ってしまいました、と此方がとりなそうとすれば、雨ですから、仕方のないことです。思いのほか澄んだ声がかえり、けれどもその言葉の不可解さにたじろがされる。
 雨だから、ですか。
 ええ。まだしばらくは、降りつづいていそうですから。
 あたりは静まりかえっていた。そこかしこに広がる水溜まりは町明かりを映したままひたりと動きを止めていて、互いの声と呼吸以外に大気を震わせるものも絶えている。あったとしても、闇に呑まれている。
 たしかにいまはあがっていても、また明日や明後日には今日と同じような雨が降りつのるだろう。天気予報は前線の停滞や、各地の水害のことをしきりと伝えていたし、そうでなくとも晴れの少ない方が当たり前の季節だ。けれどもどうしてそれが、行きずりのわたしたちのやりとりへ繋がるというのだろう。
 雨だから、ともう一度念を押すように口にのぼらせたところで、ふと水のにおいがふくらむのに気がつく。雨のにおいというにはねっとりと嫌なものを含んだそれは、目の前の相手のからだから、あるいはひょっとすると自分の肉体の方から滲みだしたものらしい。
 それは洪水のにおいだ。葦草、土、コンクリートブロック、家屋、基礎に糞尿、自転車に玩具、アルバム、あらゆるものを削りおとしては果てしもなく遠くに、ときにはどこでもないどこかへと運び去っていく暴力のにおいだ。その奔流のなかで、怯えることしかできないひとのからだのすえたようなにおいも、三角コーナーに捨てられた食べ残しのにおいも、すべてが一緒くたになり、それがわたしと、目の前の相手とのはざかいも、とうに押し流している。
 なるほど、雨は降りつづいていた。それはそこかしこに、重たるい雲と気配が去ったあとにも覆いかぶさって、わたしたちの耳の深いところにて氾濫している。それはあまりにもとらえるのが難しい音なので、いつから始まったとも、いつに果てるとも知ることもできないままにわたしたちは日向を、日陰を、傘の下を、天候から隔てられた地下通路の内を、刻々、歩き回っては、ときおりふっと何かに誘われたかのように耳をそばだてる。けれども、聞きとることはできない。耳慣れた雑踏や、掛け声や、風や、いななきや、モーター音が長閑な響きを繰りかえしているばかりで、何故自分がそうして立ち止まっているのかも分からない。はたとわれにかえり、再び歩きはじめる頃には、立ち止まっていたということさえ忘れている。
 そうでなければ、わたしたちはとても人間であるということを保てはしまい。洪水のなかではまっすぐに立つこともままならない。
 だから暗闇のなかをバスが地響きをたて、泳ぐように近づいてくるのを見て立ちあがったわたしたちはどちらからともなく互いのからだを庇いあっていた。もとより空けられていた距離はそのままでも、からだの微かな震えや、息の深さまでをもぴったりと重ねあわせて、バスに順繰りに乗りこんだあとにはそれが当然であるかのように並んで座り、身を寄せあった。
 そこはひとつの静かな水底だった。
 一度だけ、何か忘れ物をしたような気がして窓の外を振りかえった。けれどもそのときにはもう停留所の様子は見えなくなっていた。バスの中に乗客の姿は疎らで、連れあうひとはわたしたちのほかにはいなかった。たいがいが仕事帰りの人間らしく、青白い明かりのなかに力の抜けた顔が藻のように浮かび、あるいはがっくりと俯きこんで舟を漕いでいる。エンジンの駆動音にまぎれて、唸りのような声が聞こえてくることもある。
 景色はつぎつぎと過ぎていった。ほとんどは宵の闇に呑まれて、電灯とそれに照らしだされた街路樹の葉の群がりばかりが鮮明にあらわれては消え、ときおりコンビニや、コインランドリーやの看板のひときわ強い光がほうき星のように走っていく。商店街との交差路を抜けるときばかりは風景そのものもひときわ明るくなり、さまざまの看板や敷石の色や形やが見えた。けれどそれもあっけなく遠ざかり、暗い住宅地のさらに外れの方へ、バスは分け入っていく。
 ひとり、またひとり、乗客はステップを降りていった。そのたびにブザーが鳴らされ、運転手の陰鬱な声に沈黙は裂かれ、わたしたちはよりいっそう強く、結びつきあっていくらしい。街灯も次第に間遠になり、小山だか、雑木林だかのくろぐろとした影のそばを通りぬける頃にはわたしたちは最後の乗組員となっていた。
 わたしの降りるべき駅はとうに過ぎていた。何度となく通っている道を、まるではじめてのもののように眺めているうちに、ほんとうに見たことのない道へ進んでいるのにも気がつかないでいた。いや、十年も二十年も前には、今よりも家も明かりも少なかったこの道を、ランドセルを背負って歩いていはしなかっただろうか。けれどあやふやな記憶が像を結びかける頃には、滔々と流れるバスの外の景色はすっかり切りかわっている。
 そもそもが暗かった。ふとからだの一部を触れあわせたままでいたのが身を起こし、窓枠にそなえつけられていた停止ボタンを押す。次止まります、とわたしたちのものではない声が響いて、再び座面へと沈みこめばより深く、わたしたちの境目はほどかれていく。
 バスは集合住宅が立ち並ぶ片隅に止まり、わたしたちは乗車したときと同じように互いを気づかいあいながら、ステップを降りていく。そろそろとアスファルトの上に爪先を乗せ、馴れたはずのその感触がやたらと懐かしいのに首を傾げているうちにバスは去り、あたりにはのしかかるような静かさが満ちた。ずらりと等間隔に連ねられた窓のいくつかにはまだ明かりが灯り、カーテンや家具やの意匠が伺い知れる部屋もある。
 どちらからともなく歩きはじめていた。まだ雨の余韻を濃く残したままの道は、宅地を隈なく照らしだそうとする電灯を映しててらてらと輝き、そのなかを息をつめ、鈍い足音をたてて歩いていくわたしたちの影は四方八方に散らされながら、淡く発光しているように見える。ともすると前も後ろも、上も下も分からなくなってしまいそうになるのをお互いのからだと、不思議と乱れることのない足音のリズムだけが支えている。自分がどうしてここまで来たのかも、昨日まで何をしていたかも、来歴も出自も、仕事も嗜好も、今日の昼に何を食べたのか、自分は何であるのかも、何もかもが遠のいて、ここにいるわたしたちはただ、無限のようにつづく、光に塗れた道を歩いている。ひとりなのか、ふたりなのか、さんにんなのか。きっとひとりではないのだろう、まだわたしというものを思えているのだから。
 ――墓参りにね。
 ――墓参りに?
 ――うん。行こうとしてたんです。でも行けなかった。電車に乗れなくて。
 ――どうして。
 ――乗れなかったんです。電車と、ホームのあいだの隙間が怖くて。いいえ、ほんとうはもっと大きなものに躓いていた。
 ――家とか。
 ――きっとそれもあるのでしょう。ほかにも罪とか、生とか……。
 ――それはたしかに大きい。
 ――怖くて、行けなかったんです。途中まではそれでも進んだ。けれどひとつ電車に乗って、降りて、また別の電車に乗り継ごうとしたところで動けなくなって。しばらく、立ち竦んでいました。ちょうどホームとホームを繋いでいる通行路の上にいて、周りをたくさんの人が行き交っていたのですが、そのぜんぶが生きていない人のように見えた……。携帯に目を落としたままの人も、此方を迷惑そうに一瞥した人も、家族らしい賑やかな連れあいも、呼びこみをしている土産物屋の人も、誰もかれもが青白く透けていきそうで、たぶんわたしもおんなじように透けて、死人になっていた。
 ――雨で、暗かったから。そのせいもあるのでしょう。
 ――ええ。でもあのときはやみかけていた。大きな窓からほんのりと日が差してきて、ひとの影や、かたちや、さかいが鮮明になっていきそうなのがますます恐ろしかった。だから行かれなかったんです。わたしひとりで受けとめるには、あまりにも大きかった……。
 ――よく、帰ってこれましたね。
 ――ええ。じつはあまり覚えてはいなくて。また雨が降りはじめて、駅舎が地鳴りのような音でいっぱいになって、ようやく足を動かしはじめたところまでは定かです。それから、きつねうどんを食べたのも。
 ――きつねうどん?
 ――構内の、立ち食いのうどん屋で。あったかくて、美味しかった。あれほど美味しいものもこの世にはないとまで思った。おかしな話です。
 がしゃん、と大きな音とともに扉が閉まり、わたしたちは狭い玄関口に靴も脱がないまま、身を撚りあわせて立ち呆けている。こんなところまで一緒になっておきながら、どうしてここまで来てしまったのかも分からないのだから、どうしようもない。電灯がすべて落とされたままの室内は、奥行きを探ろうとするわたしのまなざしをことごとく吸いあげ、それでもどこからか入りこむらしい外光が、次第に廊下や、扉や、下駄箱や、上り口の段差やの輪郭をうすらと青く浮かびあがらせている。
 水のにおいがずいぶん酷いでしょう、と呟くような声が落ち、それから電気が点けられる。備えつけの棚以外には何もない、小さな廊下がぱっと目の前にあらわれ、長らく寄りそいあっていたはずのからだはそこですっとわたしから離れ、ごく自然な動作で靴を脱ぎ揃えると、右手にふたつ並んだ扉のうちのひとつの奥へ吸いこまれていく。わたしはぼんやりとその場に突っ立ったままだった。暖かみを帯びた光のもとに白い壁紙とベージュ色のフローリングは、けれどどこか寒々とした面を晒している。玄関の三和土にはわたしのほかに、たったいま脱がれた靴ばかりがぽつりと置かれて、土や、革や、汗やのにおいはごっそりと抜けおちている。水のにおいばかりはたしかに満ちているようだけれども、それも言葉にして指し示されたからこそそうと感じとることができるという程度のもので、ほとんどまぼろしに等しい。わたしたちのからだのほうがより強くにおっている。あるいはそのためにほかのにおいなどひとつとして分からなくなってしまった。物音がしている。衣擦れや、ものを置く音や、蛇口をひねり、口を漱いでいるらしい気配、それから足音、再び扉をひらく音。わたしのことなど一瞬のうちにすっかり忘れてしまったかのような、さっぱりとした顔があらわれて、どこかけものめいた無防備なまなざしが、しばし此方をとらえている。バスで隣りあっていたときよりもよほどその相貌は掴みやすそうで、掴めない。室内灯に彩られたやわらかな皮膚の曲線だけが不思議とさしせまる。夜食、作りましょうか、と妙に静かな声がまとわりついた。ひとつ頷いたわたしはようやく靴を脱ぎ、部屋へと上がりこむと、そのまま亡霊のように気配を潜めて小さな廊下を歩き、今度はこの部屋そのものにわたしはとけているようだった。突き当たりの扉のさきの居間にも、キッチンにも、やはりものは乏しく、僅かばかりの生活の痕跡はかえってその存在を濃くしている。洗いかごには皿や茶碗が干されている。ゴミ箱にはいくらかの紙屑が入っている。一人暮らしにはいささか不釣り合いに大きなダイニングテーブルの端には封書が置かれ、居間にはスタンドライトがひとつと、その配線がコンセントに向かって伸びているほかには、ラグもクッションもテレビも棚もない。はじめから何もなかったというよりは、恣意的な力によって生活の一部が剥ぎとられたような、すわりの悪い空漠感が口をひらいている。洪水の際に上がってきたという悪臭のために愛用品、消耗品の区別もなく、幾つものものが処分されたのだったか。
 ダイニングテーブルに添えられた四脚の椅子のうちのひとつに座って、わたしは台所を静かに行き来する姿を眺めている。カウンター越しでよくは見えないものの、冷蔵庫をひらき、まな板に包丁を下ろし、鍋に水を、コンロに火を入れる音が間断なく聞こえて、たしかに時が刻まれていく。そのうちに温かなにおいが立ち、つかのまわたしたちをとらえている何かから解き放たれているような、けれどそれも錯覚なのか。
 目の前に出されたのは椀に並々と注がれたきつねうどんだった。唐突にわたしは外気から隔てられた室内をも侵す湿度に苛立ちを覚えて上着を脱ぎ、そもそも自分が外で使うような上着を身につけたままであったことをそこでようやく思い出し、脱いだものの置き場にも、自分の身の遣りどころにも今更のように戸惑いだすのを、いただきます。真正面の席に座り、やはりめいっぱいに盛りつけた椀に向かって手を合わせた、その姿がひきとめる。それで上着を隣の椅子の背に雑に掛け、同じように両手の平を合わせて箸をつけた。見ず知らずの他人の家で、いわれもなしにうどんを啜っている。考えてみればおかしな話なのに、すべらかな麺を掬う手は黙々と動きつづけて、それが生まれてはじめて食べるもののように美味しく感じられるのがそら恐ろしく思われる。思われるけれども、舌にふれるうどんの弾力や、油揚げの甘さや、出汁の香りや、つゆの熱さに意識を奪われているうちにそのすべてを忘れていく。
 たしかに、生まれてはじめての味だった。これより前の記憶が霞の向こうに隠されてしまっているのだから、当たりまえだ。それでいてどこか懐かしさもある。以前にもこうして机を挟んでふたりで向かいあいながら、無心に湯気の立つ椀を干したことがあったような。いやきっとあったはずだ。ただあまりにも、数かぎりなく繰りかえしてきた行為なので、その始まりがどこにあったのかが掴めない。あるいは、病みあがりの寝床で一口一口確かめるように箸を運んでいたこともあったろうか。見知らぬ土地の店のカウンターに顔をうずめるようにして、貪っていたこともあったろうか。さまざまの記憶が姿をあらわしかけては、あと少しのところでようやくこの宙吊りの、中途半端な、確証のない、生活の轍のあとからどうしようもなくさまよいでたままの身の上に、ひとつのくびきとして打ちこまれうるような明確な像を、しかし結びそこねて、より気配を濃いものにした懐かしさとうどんの味だけが残っていく。ひと啜りごとに何もかもが忘れられて、またあらたなものへと変じていく。
 ――昔、殺してしまったひとがいて。誰に咎められることもなかったけれど、その墓に行きたかった。でも、行けなかった。
 わたしたちはがらんとした居間のフローリングの上に寝そべっていた。再び照明は落とされ、ダイニングテーブルには汁の一滴まで飲みつくされた食器を置いたまま、生活の音も身じろぎもなべて絶えはててしまえば、遥か低いところをコンクリートの岸壁にほとんど埋めつぶされながら流れつづけている川の呻きが、微かにでも昇ってくるらしかった。ごうごうとまるで地響きのように建物を伝い、切れることなく無数の澱みをさらっている。枯れ葉や泥や、虫の屍やプラスチックごみ、洪水のひいたあとも依然、その川もはわたしたちのからだから溢れたものによって濁っていることだろう。けれどこの永劫のように夜を震わせている音さえも、結局はアパートメントを巡る水道管の唸りに過ぎないのだろうか。こんな時間にもなお水仕事をしているひとたちが、どこかの階にはいる。ひとつの場所で終えられたと思えば、また別の部屋で仕事がはじまる。それが繰りかえされて、昼も夜もなく、のべつまくなしにわたしたちは流れている。
 ――どこもかしこもが、お墓みたいなものなのです。弔いもしていませんから。ほんとうに死んだというのも、ひとから聞いただけで。だから生きているも同然なんです。あらわれることが、できないだけで……。
 ――近しかったのですか。
 ――いとこなんです。幼い頃はほとんどきょうだいみたいにいつも一緒に遊んでいました。あちらの方が大人びていましたから、どちらかというと遊んでもらっていたのかな。
 わたしたちは静かだった。いまや部屋に満ちているのは、あきらかに、わたしたちのからだのにおい以外のなにものでもない。汗のにおい、おもてから持ちこんだ土のにおい、うどんのにおい、手洗い立ったときにまとわりついたほのかなにおい、塩素に石鹸、洗剤の残り香に皮膚にこびりついた油のにおい、唾液や血のにおい、それから水としか呼びようのない肉体そのもののにおいが、ひとつ息を吐くごとに、わたしたちを中心に広がっている。
 ――似ていると思ったんです。あなたを見つけたとき、背格好も肌のいろもみんな違っていたのに。いまも思ってる……。
 ――あなたが殺したの?
 ――そう。言ってはいけないことを言ってしまったの。
 久方ぶりに、自分のからだのかたちを思い出せたような気がしていた。直に肌にふれているフローリングはひやりと冷たい。けれども、同じように隣に寝転んでいるもうひとつのからだを抱き寄せれば、温かい。肌に纏わりつく湿気ばかりがわずらわしく、スタンドライトのほかに置かれるものもない居間の真ん中に、わたしたちの感覚は襞のようによりあつまっている。
薄暗い天井には、淡い光の筋が差している。それを見つめているだけで、いつまでも寝そべっていられそうだと思う。
 ――死んだと聞かされたのは親戚の口からで、わたしはそのときからだを悪くしていて、通夜にも葬儀にも出ることができなかった。いいえ、ほんとうは出られたはずなのに家にこもって、床から日がな一日天井を眺めながら、わたし自身が死んだ人間のようになっていた。少しずつ明るくなり、また暗くなっていく光を、飲みも、食いも、眠りもしないで追いつづけて、ひょっとするとまばたきすらしていなかったかもしれない。夏の盛りでしたから、とにかく日が長くて。いるということ自体が苦しかった。自分の睫毛すらも重たいような気がして、どうして爪が伸びるのだろうかとか、たぶんそんなことばかりを考えていた。わたしが殺したひとがきっと焼かれているであろうその最中に、そんなことばかりを……それとも焼かれたのはわたしだったのでしょうか? 殺されたのも、見放されたのも、墓の下に埋められているのも、わたしなのでしょうか? あれからもうずっと周りにいるひとたちがみんな亡霊のように見えて、景色という景色は紅葉のざわめきから空の青さ、アスファルトのにおい、踵にはりついたガムや出納帳、アパートの影に至るまで何もかもが、いなくなったひとを指ししめす墓碑でした。けれどもほんとうにいなくなっていたのはわたしの方で、目にするもの、耳に聞くもののすべてに存在の消失をつきつけられていたのはわたし自身の方で、だからすべてが蜃気楼のように淡く不確かなものとして映るようになってしまったのでしょうか? もはや誰もいない、わたしもあなたもない、死者と生者のへだてもない水のうねりのなかを、一匹の半透明の海老となって泳いでいる……。
 ――あなたはいったい何を口にしてしまったのですか。
 ――違う名前で呼んでしまったのです。たったひとりきりのひとを、わたしにも分からない名前で。それでいなくなってしまったんです。あの人もわたしも、この世から。永劫に。
 風も、動くものもないのに、カーテンの隙間から入りこむ光はわたしのまなざしのさきで、さまざまにかたちを変えてみせるようだった。おそらくは建物の周りにぐるりと置かれた街灯の照りかえしにすぎないその明るみは、おもてにさえぎるようなものもないのに震え、揺らめき、天井に映したその輪郭を弛ませ、きっと狂ってしまったのはわたしのまなこの方なのだろう。とらえがたい距離をとびこえて降りかかってくる、その冷たいとも温いともつかない質感にまぎれて、きれぎれの声がやってくるのをいつからか耳にしていた。わたしの名前を呼んでいるのだろう、とわけもなく思う。遠いところから、しきりと呼びつづけている。
 たったそれだけのことで、と呟きをもらすと、たったそれだけのことで、十分だったのです、見失われるには。どこからか声がかえり、わたしの隣でまどろんでいるらしいもうひとつのからだからは、かすかな呻きと、すえた匂いとがこぼれる。きっと一日中歩きまわっていた。からだはこうしてほかのからだに絡めとられ、床に横たわらされていても、まだ魂はかしこをさまよいつづけている。いつのまにか雨がやんでいるのにも気がつかないで、とじた瞼には苦しみのいろがほのかに差している。
 その目がふとみひらかれた。青い潤みを帯びたまなざしが真っ向からわたしをとらえているようで、何も見えてはいないのだろう。瞳に映りこんだわたしの影はゆっくりと白い光を滲ませていくかのようだ。茫洋とひろまりゆく視野の中心に、さらに見通すことのできない消失点のような空白がゆっくりと、花が綻んでいくほどの速度で生みだされていく。
 やっと、死んでくれたのですね。よかった。これで、あなたの名前を呼ぶことができる。
 戦慄があたりをあかく照らす。
 淡い闇のなかで、さしのべられた首筋に、両の掌をやわく押しあてているわたしの影をわたしは見る。穏やかな寝息をくりかえすからだを組み敷きながら、危うい静まりのなかでみずからを保とうと必死の形相を浮べている。腕にこめた力を抜くことも、強めることもままならなくなって、わたしを見つめかえすわたしのまなざしのなかにじっととらわれている。首に巻きつくようにあてがわれた掌が熱く、汗ばんでいるのを感じていた。おもてには雨音も、足音も絶えている。無音の叫びがあまねく地平を貫き、それがかろうじてわたしのからだを無限の揺籃から、夜から、水のなかから切り落として、いまはひとつの殺意としてかたちを結んでいる。永劫のつかのま、もしくはつかのまの永劫の恐るべき沈黙のうちに、すべての時間の響きに聞きいるわたしを、やがてわたしは見つけだす。
ええ、やっと死にきることができました。ですからどうかあなたは、安らかにこの世を生きていってください。
 目を瞑り、冷たく湿りついた床に改めてからだを横たえると、そこでことんと意識は眠りについた。雨のなかを野良犬のように迷いつづけていた不安からときはなたれて、ようやく得ることのできたまっさらな眠りだった。夢さえ見ることもなく、ただ夜の空気に触れた皮膚のどこかで、晴れた空を弱々しい尾を帯びた星が走りぬけるのを感じていたかもしれない。
 そのうちにカーテンの向こうは薄らと明るみを増していき、しかし青ばんだ空はついに暗い雲の帳をはらいきれないままに白み、再び小雨がちらつきはじめている。
 ごうごうと水の音が鳴りわたっている。ひとびとの立ち居の気配が階上から、階下から聞こえはじめて、水道管はひっきりなしに震えている。ひとつが絶えればまた別のひとつが目覚めて、また各々の営みを繰りかえし、わたしたちもいつしか一夜を共にした寝床から起きあがっている。
 大洪水はまだ来ない。口を漱ぎ、シャワーを浴び、昨晩と同じ席に着くわたしの鼻は、もはやあれほどにわずらわしかったさまざまのにおいをとらえることもなく、代わりに椅子の背に掛けたままの上着に染みついた体臭の方をこそ、異質なもののように感じている。
 なべて平穏無事な朝の風景だった。今日は丸一日休みなので、とせわしなく台所を往復して少し手の込んだものを支度しているらしい姿を眺めながら、わたしはあるはずもない今日の予定のことを考えている。――まずはおもての公園で石を拾おう。どんなかたちでもかまわないけれど、なるべく角がとれて掌に馴染みやすく、平たい面があればなお良いだろう。そこにわたしのものだった名前を刻みつけ、川へと投げこむのだ。一文字一文字あらゆる字体で、表記で、硬い肌に傷を入れなおしては、浅い光に満ちた奔流のうちへと沈めていく。それがせめてもの弔いだ。この部屋と、わたしと、わたしだったものとわたしでなかったもの、記憶と歴史、夢と想像、ひとつの手触り、ひとつの灯火、無数の未知、あの夏の大気をひと筋の描線ごとに思い起こしては永遠のもののように引き受け、また忘れ、そうして明日を迎え入れるための式典だ。それをいつかやってくる大洪水の日まで繰りかえす。たとえ来ないとしても、繰りかえすのだ。
 いつのまにか点けられていたらしいラジオからデイジー、デイジーと陽気な歌が零れ、消えていく。やがてテーブルの上には色鮮やかな食物が並ぶ。パンにサラダ、バターに紅茶、スープに肉。それらすべてに手を合わせ、わたしは食し、また食される。
 おいしい? おいしいよ。そう、よかった。このやりとりももう十年も二十年も昔から繰りかえされてきたようで、記憶をさらっても昨夜よりほかのことは分からない。分からないのなら、初めても同然だ。どうしてかたどたどしいような手つきでフォークを操るうちに、彩りはひとつずつ失われ、そのような訝りも無心に透きとおり、あとには汚れついた器と、無人の食卓だけが残される。それもいつかには片づいている。いよいよ家具も生活の残滓も拭い去られた空っぽの部屋は、屋棟もろとも巨大な力に押し流されて、けれど決して消えるわけではない。わたしたちのからだも言葉も、かたちも歌もうちくだかれて、まだ響いている音がある。地表のすべてをのみほした昏い水のおもてには、時折懐かしいような光が浮かびかかる。においがたちこめている。
 そのすべてを抱かされた別のわたしたちの姿を、わたしは夢に見る。
「ごちそうさまでした。」
 食事を終えて、席を離れようとすると食器を片づけるよう言いつけられ、わたしは小さく謝りながら流し台の前に立つ。シンクに叩きつけられる水の音に耳を傾けながら、どこか馴れた調子で言葉を交わすふたりの他人の姿を、やはり遠くの光景のように眺めていた。
 おもては再び、本降りの雨となっている。
 ――今日は墓へ行こうと思います。ただしく、辿りつけるとよいのですが。
 とても雨具なしでは歩けそうになかったので、傘を一本拝借することにした。暗い朝の小道に、鮮やかな花がひとつ咲く。いってらっしゃい、と着古した上掛けをひっかけた背中に投げかけられたものは、いったい何の声だったのだろう。
 それからわたしは道を歩いた。前後も左右も天地さえも水のカーテンに覆いかくされながら、知らない町の角を、あてにならない勘を頼りに折れていく。
 アスファルトの道の両端に溜まった水ののなかへと突っ込んでしまった左足の靴がぐずぐずに濡れて重かった。からだの芯はあたたまって、汗さえかいているのに、体表はやたらに冷えてじっとりと寒い。全身の感覚をひとつに結びつけている力がほろほろと崩れおちていきそうな心地がして、それでもわたしは歩きつづけている。歩きつづけることで、ようやくわたしでありつづけている。
 やがて目の前には狭い廂のあつらえられた、古いバス停があった。
ほうぼうのていで雨避けの下へと潜りこみ、安堵の息を吐く。だいぶ道に迷ったようで、看板に記された駅名には見覚えもない。幸い、使い慣れた駅へと通じる便はあるものの、出るのはかなり先になるらしい。
 わたしは待つことにした。悪天候のなかを彷徨いつづけるのにも、すっかりくたびれていた。
 三人掛けのベンチの片端に座りこんでいた。眠ってしまったのだろう。背を丸め、両足のあいだに突いた傘にぐったりと上半身の重みを預ける、自分の姿が見えかかることもあった。ごう、と低い地響きのような音が、からだの奥底から吹きあげることもあるらしかった。
 そうして白い雨の静まりにつつまれて、時間は流れていく。
「ずいぶんと降りますねえ。」
 気がつけば、あなたはそこに辿りついている。

                                2020.11.14
第2回ことばと新人賞最終候補作

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