遠い目


 もう夏が来ているかのような夜だった。住宅街の中をまっすぐに貫く道に人影はなくて、自分のたてる衣擦れや、靴やの鈍い音さえもがやたらに響きわたるようにも思われる。まだ五月に入ったばかりだというのに汗がじっとりと肌に張りついて、ほうぼうの庭木や、電柱の影からは耳鳴りのような蝉の声さえ聞こえている。
 アパートの外付け階段に足をかけると、ぎいと金属製の踏み板が嫌な音をあげた。するとサッと黒い影が視界の隅を突っ切り、何事かと振り向けば、白い、真ん丸い二つの目がじっと此方をとらえている。猫だ。やたらに光って見えるのは街灯の明かりを反射しているためだろう。ぎい、ぎいと老朽化の進む階段を更に上った二階の通路は、蛍光灯のためにぼんやりと青白い。二〇三号室の扉の上側の壁には蛾が一匹とまっている。何故だか、じっとしている。ふとどこかでサイレンが鳴ったような気がして、ゆっくりとあたりを振りかえって、また目線をもとに戻しても、まだ動きそうにもない。
 がちゃり、と鍵の回る音が大きく響く。きいと聞き馴染んだ軋みをたてて扉がひらかれるのを、他人ごとのように見つめていた。ここは、わたしの部屋だ。ここは、わたしの部屋ではない。
 蛾も、階下からのまなざしもついぞそこを離れることはない。
 そして暗いワンルームに滑りこむと、いつものように玄関口のすぐそばの小型冷蔵庫のわきにしゃがみこむ。手探りで缶ビールをとりだすと、ひと息に丸々一本を空にする。蝉の声は屋内にまで浸透しているらしいけれども、もはや耳鳴りとの区別もわからない。
 やがてくらりと頭のてっぺんにまで回った酔いに任せて、床に突っ伏していた。汗ばんだ体に、フローリングの冷たさが無性に心地よい。それを遠くからわたしは眺めていた。それは、わたしではないのかもしれなかった。
 かっつぁん、とどこかで、喘ぎのような呟きが零れた。
 いつのまにかアパートの前には、救急車が赤い明滅を静かにふりまきながらとまっている。


2020.5.11

蛾・猫・リモートの三題による小文


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