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性教育ってなんなんだ?


緊急避妊薬(アフターピル)の薬局販売を、政府が検討し始めたらしい。

緊急避妊薬(アフターピル )、政府が薬局での販売を検討へ。実現求める強い声 / HUFFPOST

報道を知った時、「やっとか」というため息に似た安堵が漏れた。アフターピルの国内認可から10年。道のりはあまりにも長かった。女性性に対する人権というものが極端に蔑ろにされるこの国で、本当に”前進する”とは思っていなかった。心のどこかで「またダメなのかもしれない」という気持ちが強かった。

だからこそ、この知らせは素直に嬉しかった。セクシャルアクティビティがあり、レイプや妊娠の可能性のある女性の一人として、待ちに待った朗報だった。


と、同時に。


引用したHUFFPOSTの記事には、薬局販売に対して慎重な立場を取る産婦人科医会の医師のコメントも記載されていた。なぜ慎重かというと「アクセスをよくすることで(中略)悪用したい人にとっても敷居が下がる」とあり、あくまで「性教育を進めるのが先だ」とのことだった。


これを読んだ私は、思わず呟いた。

呟いたというより、やさぐれた。子供っぽく拗ねた。へえ〜と思いながら、地面に指をついていじいじしていた。



そもそも、性教育ってなんなんだ?


性教育、という言葉がある。

緊急避妊薬や子宮頸がんワクチンの話題が出ると、必ずどこかで、この言葉がひょっこりと顔を出す。そして心になにか引っかかるものを残して消えるのだ。


性教育とは、何者なのだ。


性教育(せいきょういく、英語:Sex education)は、性器・生殖・性交・人間の他の性行動についての教育全般を意味する言葉。
日本の学校では(中略)体や心の変化(第一次性徴及び第二次性徴、妊娠と出産)、男女の相互理解と男女共同参画社会、性別にとらわれない自分らしさを求めること、性感染症の予防や避妊などの内容が扱われている。近年ではLGBTなど多様な性についても言及するようになった。
——Wikipedia / https://ja.wikipedia.org/wiki/性教育


Wikipediaから推察するに、性教育は「セックス(性行為)」と「ジェンダー(性)」の2つの要素に分けられる。

「セックス」に関連するのは、年齢に伴う心身の変化や妊娠出産、性感染症について。そして「ジェンダー」に関連するのは、自分らしさや相互理解、多様性についての内容。

そこで今回は、セックスに関連した性教育について考えてみたい。




セックス(sex)とはなにか


緊急避妊薬で指摘される「性教育」は、主に性行為(セックス)に関連している。

いわゆる”緊急避妊薬の悪用”とは、「何かあれば緊急避妊薬を内服すれば良いと避妊なしのセックスが安易になされるかもしれない」ということらしい。悪用されるリスクがあるから、緊急避妊薬へのアクセスより先に性教育が必要なのだ、と。

ここで疑問なのだが。

そもそも、セックスとはなんなのだろう?


そもそも論が多くなってきたが、セックスとはなにかという問いに保健体育の授業は明確に答えてくれなかったように思う。

男女の性的な交わり? 夫婦間で行うこと? 妊娠する行為? 精子と卵子が合体すること? 愛情表現? なぜ人はセックスをするのか。男性同士、女性同士、性別が定まっていない人たちの交わりはどう定義するのか。外陰部同士の接触以外の行為はセックスではないのか。アナルセックスは? オーラルセックスは?


これはあくまで個人的な意見だが、セックスとは「コミュニケーションのひとつ」だと私は考えている。誰かと視線を合わせたい、言葉を交わしたい。ゆっくりと語り合いたい、肩を寄せ合いたい。手を繋いで隣で歩きたい、抱き合いたい。自分以外の誰かとの間に、親密な関係を育む中で生まれる「相手に触れたい」「相手を大切にしたい」という気持ちがより親密な身体接触となり、セックスに繋がる。

セックスは「こんにちは」と挨拶を交わすコミュニケーションの延長にある。

だから「性教育」が「より良いセックスについて学ぶ」ことであるならば、それは「より良いコミュニケーションについて学ぶ」ことと同義のように見えるのだ。


では、よりよいコミュニケーションとはなんだろう。

自分の意思を大切にする。
相手の意思も尊重する。

自分を傷つけるような場所からは去る。
誰かを傷つけるようなことを言わない。

間違ったことをしたら、謝る。
間違ったことをされたら、適切に訴える。

ざっと羅列してみたが、短く表現するならば「自分と他者をそれぞれ尊重されるべき存在として尊重し合う。相手を理解し、自分を開示し、意見や主張を伝え合い、良い方向へと向かって行く」ことなのかもしれない。そのためにコミュニケーションが求められる。

数十年にわたる人生の中で、私は正しいコミュニケーションと同時に、間違ったコミュニケーションについても学んできた。

もしも間違ったコミュニケーションをしてしまったらどうしたらいいのか。互いに誤解をしたり、傷つけあってしまったらどうしたらいいのか。その対処法を、私は知らず知らずの間に学んできた。それは「ごめんなさい」という言葉であったり、「辛い時はここに相談を」という窓口であったり、はたまた、認知行動療法や投薬治療であったりした。

コミュニケーションは、誰かを傷つける危険性がある。

だからといって「コミュニケーションを取らないようにしましょう」とはならない。傷つけないように、あるいは傷つけてしまったときにどうすればよいか、という視点で、経験や学びは深まって行く。


ここで話をセックスに戻す。

セックスとは、互いを労わりあう行為であると同時に、互いを傷つけ合う可能性を孕んでいる。

親密な身体的接触により、パートナーに性感染症がうつるかもしれない。長期間におよぶ感染症治療や、不妊・腹膜炎を起こすかもしれない。望まぬ妊娠によって人生が大きく変わるかもしれない。経済的・社会的基盤が脆い状態で出産しなければならないかもしれない。出産で母体が死んでしまうかもしれない。合意のない性行為や、あるいは身体に合わない不適切な性行為によって、繊細な心と体が甚大な被害を受けるかもしれない。

性感染症、骨盤内炎症性疾患、不妊、望まぬ妊娠、早産や流産・死産、片親での養育、産後母体死亡、乳幼児死亡、合意のないセックス、肛門異物。

セックスとは、一歩間違えればとても危険な行為だ。だからこそ他のコミュニケーションスキルと同じように、「相手を傷つけないこと」「自分が傷つかないこと」を学ぶ機会があっていいと、私は思う。


さらに話を緊急避妊薬に戻す。


緊急避妊薬は、セックスというコミュニケーションにより「自分を傷つけない」ためのツールだ。女性の場合は妊娠の可否を自分でコントロールできる唯一の手段であり、女性をパートナーとする男性にとっては、大切なパートナーを望まぬ妊娠から守る緊急手段でもある。

緊急避妊薬について伝えることは、立派な性教育の一つだ。切っても切り離せないものだ。緊急避妊薬よりも性教育、ではなく、緊急避妊薬もまた性教育であるはずだし、そうあってほしい。

いわゆる「健全な交際」をしていても、緊急避妊薬が求められる場面はある。コミュニケーションの延長にセックスがあるのだから、妊娠を望まないセックスがあってもいい。リスクと対応策がわかっていればいい。それを伝える性教育があってもいい。


おそらく私は、「緊急避妊薬へ容易にアクセスできることに慎重」な立場の医師にこう言って欲しかったのだと思う。

「緊急避妊薬が悪用されないように、適切な使い方や、そもそもの避妊の必要性について伝えるために、性教育をますます進めかないといけない」と。





セックスについて教えると言うこと


まとめると

・セックスはコミュニケーションのひとつ
・性教育はセックスというコミュニケーションをより良く行うための手段方法
・緊急避妊薬もまた、性教育の一部である

と思うのだ。


個人的には「コンドームをつけていれば妊娠しない」「外に出せば大丈夫」「安全日だから中に出していい」という考えがいまだ一般的な日本において、性教育の存在感というのは希薄だと思う。それでも諦めるのは早いし、諦めてはいけないのだろう。性行為に及ぶ可能性のある一人の人間として、あるいは子どもたちを支える大人として、よりよいセックスとの付き合い方を学び、伝えていくことを続けたい。


「緊急避妊薬のアクセス整備よりも性教育が先」という声に、いじけてしまったけれど、いじけたままではいられない。緊急避妊薬へのアクセスもまた性教育の一つであり、性教育の一環として緊急避妊薬が語られてもいい。


セックスというコミュニケーションで傷つく人が一人でも減るように、めげずに、拗ねずに、諦めずに、声を上げ続けて行こうと思う。





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