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「家事代行は女性が良い」の本音と葛藤


我が家は、家の掃除を外注している。2週間に一度、女性のシルバー会員さんにピカピカにしてもらっている。

日々、育児に仕事に追われる中で、定期的に自宅を綺麗にしてくれる存在はとてもありがたい。職場で他のワーキングマザーたちにも、しばしば「シルバーさんめっちゃ良いですよ」という話をしている。そしてこのとき、決まって付け加えるのだ。「できれば女性がいいと思います」と。


シルバーさんが女性で良かった、というのは、利用し始めてすぐに感じたことだった。「女性だから掃除が上手」という理由ではない。「女性だったら、万が一でも息子を連れて逃げることができる」と考えたからだ。

長時間労働の夫は、休日出勤も多い。私と息子の2人だけでシルバーさんを迎えることもある。そんなとき、シルバーさんが華奢な女性で良かったと心底思うのだ。

シルバー会員は、60歳以上の方ばかりだ。そして今時の60歳は、若い。80歳の腰の曲がった男性でれば勝てるかもしれないが、60歳のそこそこ体格のよい男性だと力で負ける可能性が高い。私ひとりなら何とかなるかもしれないが、万が一の時、息子を守りながら逃げ切る自信はない。


家事代行をお願いするなら女性がいいですよ、というのは、嘘偽りない本音だ。それは女性の方が家事が上手だという根拠のない通説ではなく、単純に相手が女性なら、力で勝てる可能性が高いからだ。しかし一方で、これを公の場で話すことは、ずっと避けていた。なぜならそれは、家事を得意とする、あるいは家事を仕事にしたいと考える男性に対する「差別」になるのではないだろうかと、気になっていたからだ。

かつて、多くの女性たちが「妊孕性があるから」「子宮と卵巣を持っているから」と言う理由だけで、職業選択の自由を奪われ続けた。母体保護の観点から必要なものもあったが、行き過ぎたものもあった。それと同じように、私もまた、男性が男性であるという理由だけで、あるいは男性が女性より力が強いという理由だけで、彼らの職業選択の自由を奪っているのかもしれないのだ。


それでもやはり、私は女性がいい。よほど「無力な」男性でない限りは、女性に来てほしいと要望するだろう。「万が一」の時を考えると、筋骨隆々とした男性を、夫不在の状態で自宅にあげるという選択肢はない。

これは果たして「男性を差別している」だけなのだろうか。



男と女、見える景色は違う


「万が一」の状況を、多くは女性だけが想定している。私の夫はシルバーさんが男性であっても気にしないだろうし、自分と子供が2人でいる時に男性のシルバー会員さんを自宅に招き入れることにも、さほど抵抗がないだろう。男性に対する独特の警戒心は、女性だけが抱きやすく、男性には伝わりにくい。


性犯罪加害者のほとんどは男性だ。そして、被害者の多くは女性だ。女性は女性であるというだけで性犯罪に巻き込まれるリスクがある。おそらく、この状況は今後も変わらないだろう。


参考リンク
https://news.yahoo.co.jp/byline/ogawatamaka/20170919-00075941/
http://shiawasenamida.org/m05_02_02
*割合も含めた正確な一次資料を見つけられませんでしたが、性犯罪加害者の99%は男性である、という統計結果もあるようです。


実際、私が遭遇した性犯罪加害者は、すべて男性だった。小学生のころ、通学路であとをつけて来たのも男性。バスで通学していた中学時代、痴漢をしたのも男性。電車に乗っていた時、隣に座り、大学生の私に親しげに声をかけ、半ば強引に手を握ってきたのも男性だった。


「女性を恫喝して支配しようとする男性」も身近にいた。いわゆる「DV夫」と呼ばれる男性だ。それは大学生の頃、一人暮らしを始めた翌日のことだった。部屋で寝ていた私は深夜、隣の部屋から男性の激しい怒鳴り声となにかを叩きつけるような音に気付き、飛び起きた。そしてすぐに気がついたのだ。これ、DVだ、と。

結局、その夜は数時間にわたって隣人のDVを聞き続けた。私はどうしてもすることもできず、布団にくるまりながら朝を迎えた。


警察への通報も考えていた。しかし両親に相談すると「万が一、仕返しをされたら」と消極的な反応だったため、私は「そういうものなのか」と無理やり自分を納得させて、なにも行動しなかった。あの罵声を出す相手と、まともに戦って勝てる気がしなかった。お金もなく、新たな引っ越し先を探す選択肢もなかった。幸いなことに、夜中のDVは数ヶ月から半年に一度の頻度だったので、どうにか耐えることができた。


それ以来、私は部屋を出るときに必ず、隣人の気配を探るようになった。部屋に戻るとき、同じフロアに人がいないことを確認するようになった。もしも廊下に人がいたら一つ上の階にのぼるか、一度アパートの外に出て、しばらくしてから戻るようにしていた。

それでも一度だけ、隣人に出会ったことがあった。といってもDV夫ではなく、その妻だった。60代くらいと思われる小柄な女性の額には、赤い痣みたいなものがあった。虚空を見つめてうっすらと笑みを浮かべる表情は、どこか「呆けた」ようだった。もしかしたらごく軽度の知的障害があったのかもしれない。


そんなある日、ある出来事があった。

廊下に出た隣人(DV夫)が不意に「あ、隣に人が住んでいる」と呟いたのだ。

おそらく、この夫は隣が空室だと思っていたのだろう。「隣が空いていいるから、多少大声を出しても大丈夫」となっていたのかもしれない。(引っ越した当日、挨拶に行ったものの不在で会えなかったのだ。今考えると、あの時、顔を付き合わせなくて良かったと心から思う)

隣に人が住んでいると知ってから、深夜の罵声はなくなった。その日を境にパタリと、怒鳴り声は聞こえなくなった。


この経験は、私の男性観に強い影響を与えた。男性は女性を暴力と恫喝で支配しようとする。経済的基盤がなければ、女性はそこから逃げ出せない。なにより暴力を振るう男性には、隣に人がいると分かった瞬間にDVをやめる"卑怯さ"があるのだ、と。

どんな状況においても絶対に仕事はやめないでいよう。卑怯なDV男に遭遇しても逃げられるようになろう。力では男性に絶対に敵わないからこそ経済的に自立しよう。自分が自分らしく生きるための力と強さを得ようと、強く願うようになった。



女性として、女性のままで生きていくために


「誰かに襲われたら、相手を殺す気でいなさい」というのは、高校生の頃に教わった言葉だ。防犯に関する講演の中で、男性警察官がとても真剣な顔で言っていた。当時は「ちょっと大袈裟では」と思っていたが、今ではそれが決してそうではないとわかる。それぐらいの覚悟で戦わなければ、男女の力の差は覆せない。そして、それだけの覚悟で挑んでも、負けてひどい目にあうことがあると、歴史や過去は語っている。


XX染色体を持ち、生物学的に「女」としって生まれた体が、ひどく不自由に感じることがある。たまたまX染色体を2つ持っただけで、男性よりも辛い目に遭いやすいなんて、とても理不尽だった。一時は性転換も考えたが、「男性に暴力を振るわれないために男性になる」ことに納得できなかった。XX染色体は不自由だが、私は「女性」としての自分が気に入っているし、「女性」として人生を歩き続けたい。

性犯罪の被害者のほとんどが女性であり、女性が性犯罪に遭うのは決して珍しいことではない。その社会で「安全に」生きていくためには、できる限り「そうなりうる状況を避ける」しかない。

エレベーターに乗るときは、必ず操作盤の近くに立つ。流しのタクシーには乗らない。夜遅くに出歩かない。息子と2人で車に乗っている間は、当然誰かに乗り込まれた時のことを頭の隅で考えておく。そんな「いつか起こるかもしれない」「絶対に起こってほしくないこと」への想像を、あれやこれやとめぐらせている。


100人の男性がいたとしたら、そのうち99人は善良な人だ。善良な人と出会う確率の方がずっとずっと高い。それでも、たった1人の「そうではない」人と遭遇してしまったら、深く、取り返しのつかない傷を負ってしまうこともまた事実だ。



差別とそれ以外を分けるものは、何なのだろう


家事代行をしたいと考える男性は、きっとこの世に存在しているだろう。これまで「女の仕事」とされてきた家事や育児、介護などの労働に参加する男性は増え続けている。

その一方で「授乳室やオムツ替えスペースに男性は入ってきてほしくない」「自宅に男性をあげたくない」という意見もあり、その気持ちもわかるのだ。それは男性への差別ではないかと糾弾されれば「そうじゃない」と叫ぶだろう。そうじゃない、そうじゃないんだ。男性を差別なんかしたくない。男性だからといって弾くようなことはしたくない。でも「もしも」「万が一」を考えると、どうやって受け入れたら良いかわからない。


男と女には、乗り越えられない「力」の差がある。それにどう向き合っていけば良いのだろうか。公平で、誰も傷つけないやり方が存在するのだろうか。



最後に、私が「いいな」と思う事例を紹介したい。私がよく行くショッピングモールには、授乳室が2つある。1つは女性専用で、もう1つは男性も入れる仕様になっている。授乳中は男性に入ってほしくないという女性の意見と、子どもに授乳したいと思う男性の両方を受け入れる形になっている。

もしかしたら、これは、1つの「答え」なのかもしれない。男女が常に「等しく」「同じ」であることが必ずしも正しいわけではない。女性と男性の場所がそれぞれ確保された上で、男女が共にいる。あるいは、男女という性別を取り払って、「個」として存在できる場所を増やすことが、より多くの人を受け入れる社会につながるのかもしれない。

かつて「クィア」と呼ばれたセクシャルマイノリティーの方が「男女共同トイレが欲しいんじゃない。ただ個室のトイレが欲しいだけなんだ」と語る映画を見た。差別や恐怖から抜け出すためには、どちらか一方がもう片方に「吸収」されるのではなく、より「個」を守る場所を増やすほうが、良いのかもしれない。






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