私と彼女。鬼束ちひろの話。


ここ最近、気分が滅入ることが多く、そんな時は決まって好きな音楽をひたすら流し続けている。その一人が鬼束ちひろだ。

30代以上の方であれば、知っている方も多いだろう。2000年に「シャイン」でメジャーデビューし、「月光」で一躍スターダムを駆け上がった。その後もシングルやアルバムをリリースし、ライブも精力的に行われたが、2004年の「育つ雑草」からしばらく活動休止をしている。

その後は、数年ぶりに復活したり、しなかったり。楽曲の曲調がガラリと変わってしまい(ついでにご本人のファッションも個性的になり)ファンが困惑したり、ライブをしても声が出ないと言われたり、twitterで物議をかもす言動をするなど、傍目から見ていて心身の状態が安定しないのだろう、と感じさせる状態が続いていた。

そんなかんやで世間からは「昔『月光』が大ヒットした人」と捉えられかねない彼女ではあるのだが、実は2016年から素人目にもわかるほど「復活」している。そして2021年に至る現在まで、継続的に安定したパフォーマンスを続けている。



ひりつくような「痛さ」に魅せられた日々


20年前といえば、浜崎あゆみや安室奈美恵、宇多田ヒカル、SPEED、モーニング娘、aiko、小柳ゆき、椎名林檎などなど、J-Popの女性歌手が数多く誕生し、活躍していた時代だった。その中でなぜ鬼束ちひろを聴き始めたかというと「恋愛以外を歌っているのが彼女だった」というシンプルな理由だった。当時の私は10代前半、思春期真っ盛り。どちらかといえば「非モテ」「非リア充」に属していたこともあり「好きな男の子と両思いになれて幸せ!」とか「片想いの彼のことをずっと考えてしまう!」系の歌詞に圧迫感と後ろめたさを感じていた。(当時のJ-Popが好きだった方々すいません。そういう曲ばかりではなかったと思うのですが)そこで出会ったのが、鬼束ちひろの楽曲だった。

初めて聞いたのは「月光」ではなく「私とワルツを」だった。仲間由紀恵さん主演のドラマ「TRICK」の大ファンだった友人にDVDを貸してもらい、そのエンディングで耳にしたのが「私とワルツを」だった。ドラマ本編の「まるっとお見通しだ!」や「なぜ!ベストをつくさないのか!」といった独特のコミカルさとは対照的な、どこか哀しみを感じさせる旋律が印象的で、エンドクレジットの「鬼束ちひろ」の文字をメモし、レンタルCD店に立ち寄ったのが最初だった。(ちなみに、最初は「鬼束」の「束」が読めず、違うと思いつつ、しばらくの間「おにたば」と読んでいたのも懐かしい話だ)


優しいものは とても怖いから
泣いてしまう 貴方は優しいから
誰にも傷が付かないようにと
ひとりでなんて踊らないで
どうか私とワルツを
——『私とワルツを』鬼束ちひろ


優しい「貴方」に向けられるメッセージは痛々しく、悲しく、救いがない。「私」と「貴方」がいて、「私」が「貴方」に手を差し伸べているのに、「貴方」はひとりで踊りつづけている。それを「私」はどうすることもできない。ここで歌われている二人は、恋人同士かもしれないし、兄妹かもしれない、友人かもしれない、仲間かもしれない。如何様にも解釈できる世界観の深さと、どこまでもすれ違ったままの哀しみが込められていた。


当時「鬼束ちひろが好き」と言えば「じゃあ、椎名林檎とか好きなんだね」と返されることが多かった。確かに、椎名林檎も好きだったし、この二人が「同じ系統」に分類されることもあった。似ている部分もあったかもしれない。「10代の繊細で強情な精神の、痛々しいまでのひりつき」を歌っていた点は共通していた。ただ、「月光」の主人公が最後まで出口の見えない迷路で彷徨っていたのに対し、「歌舞伎町の女王」の主人公はどこまでも力強く、自分の足で答えを探し求めていた。


女に成ったあたしが売るのは自分だけで
同情を欲した時に全てを失うのだろう
——『歌舞伎町の女王』椎名林檎


ともに10代20代独特のギリギリの感性を表現していたとしても、椎名林檎の方が強く、自我がはっきりしていた。鬼束が2004年に活動を休止したのに対し、椎名林檎が同じ年に東京事変を結成し、現在に至るまで楽曲を作り続けているのは、自己理解の確かさや強さが違ったからなのではないかと勝手に考えている。(余談だが椎名林檎さんで好きなのは「ギャンブル」と「落日」で、これだけをひたすら聞き続けていた時期もあった)



鬼束ちひろの楽曲、とりわけ歌詞が表現する世界観は、暗く、一筋の光を探して懸命に手を伸ばす(そしてその手は届かない)ような、どこか孤独を感じさせる。「私」はひとりで、途方に暮れて、佇んでいる。どこかにいたはずの「貴方」を求めて、手を伸ばして、その掴んで、話す。その繰り返し。曖昧な、どうとでも解釈できる言葉の中で、「私」と「貴方」という孤立した「個」の関係性が描かれていることが多かったように思う。


初期のファンの間で根強い人気を誇る「嵐ヶ丘」という曲がある。シングルB面の曲だが、発表された時(そして鬼束本人も)「なぜこちらがA面ではないのか」と驚いたという、非常にインパクトのある作品だ。


そして私は怪獣になった
もう元には戻れない
うつむき
それでも広がる世界に
泣きながら返事をして
——『嵐ヶ丘』鬼束ちひろ


この曲が聞き手を惹きつけてやまないのは、怪獣になってしまう孤独な「個」の叫びの鮮烈さと、一方でなにを語っているのか分からない「世界観の曖昧さ」にある。「嵐ヶ丘」といえば、世界三大悲劇と称される同名の長編小説があるが、鬼束がその小説作品にヒントを得てこの歌詞を書いたのかは分からない(違うと否定しているという話もある)。小説の内容と歌詞を比べてみても、一致する部分がありそうでない。「私」はヒースクリフなのか、キャサリンなのか。両方の立場になって解釈しようとしたが、どうもしっくりこない。何かを強く語っているようで、その中身はまったく分からない。もしもこの曲のミュージックビデオがあったとしたら、どんな世界が描かれたのだろうかと今でも想像する。その曖昧な危うさが、聞き手を惹きつけてやまないのかもしれない。



「ひとりきりの私」から、「あなたの隣にいる私」へ


初期の鬼束ちひろは、孤独で迷子な「私」を描くことが多かった。「流星群」「sign」など、あたたかさを感じさせる曲もリリースしていたが、どちらかといえば「月光」や「私とワルツを」の印象が強かった。

その後、休止・活動再開をたびたび繰り返し、不安定な時期を過ぎた後、明確に「これまでとは違う」と感じさせる曲があった。それが2016年の「good bye my love」だ。


心を読まないで
何も言わずに抱きしめて
さよならのルールがそっと横たわる

good bye my love
貴方を忘れない これからも
また愛と呼べるまで
——「good by my love」鬼束ちひろ


かつての鬼束ちひろなら、別れは悲劇だった。混じり合わずに断ち切られた鎖だった。それが「good bye my love」では、去っていく貴方を「忘れない」と言い、「また」といつかの再会を願う。また出会うのは「さよならした貴方」なのかもしれないし、「誰かへの愛おしさ」なのかもしれない。曲から感じ取れるのは悲劇ではなく、去りゆく人への愛しさであり、共に紡いだ時間への懐かしさであり、再会を願う祈りであり、そのすべてへの感謝と優しさだった。

苦しいまでの「別れ」を語り続けてきた彼女が「良い別れ(good "bye")」を歌えるようになったとき、彼女はすでに30代後半で、私も30歳を目前にしていた。


2017年に6年ぶりのアルバム『シンドローム』をひっさげ、ライブツアーが行われた。その映像を見てさらに驚いたのは、「月光」だった。

代表曲である「月光」を、鬼束ちひろは何度も歌えなくなっている。それはただ「歌えない」ことでもあったし、技術的に「歌いこなせない」ことでもあった。2007年の活動再会時、なにかの機会に「(月光が)あんなに難しい曲だとは思わなかった」と本人が言っていたくらいだ。それ以降、ライブで「月光」を歌えない彼女を見るたびに、音楽活動を続けるのは難しいのかもしれない、と感じていた。

だから2017年、さらにいえば2016年ごろから時に不安定になりながらも「月光」を歌えるようになったことは、純粋にファンとして嬉しかった。


「シンドローム」のライブツアーのうち、2017年7月に開催された2公演が、ライブDVD『ENDLESS LESSON』に収録されている。その中でトリの一つ前に披露された「月光」は、それまで聞いたことのない曲だった。

一言で言えば、優しさに満ちていた。

明るさや、前向きさではない。「この腐敗した世界」で「どうやって生きればいいの?」という問いかけは変わらない。だがそれを歌う彼女の声には、かつての悲壮感ではなく、優しさが満ちていた。「かつて苦しみながら生きていた自分」を受け入れ、否定も肯定もせず、その時間が無駄であったとも辛かったとも言わず、ただただ過去の自分に優しく語りかけるようだった。


「月光」がリリースされたのは彼女が20歳の時。それを37歳になった「大人」の彼女が歌っていた。かつての痛々しかった自分を思い出しながら、そんな時間もあった、あの時間もまた本物であったと受け入れながら歌っていた。強さに満ちた優しさだった。


過去の自分自身に対する「優しさ」は、新アルバム「シンドローム」全体に通じていた。深い世界観や、生きづらさや、彼女らしさはそのままに、アルバム全体に「それでも生きていくことを選んだ強さ」と「進み続ける自分への愛しさ」が感じられた。


億千の夜を越えて
貴方の翼(はね)になり
その背を押していく
生きる意味など他には何も
要らないから
——『火の鳥』鬼束ちひろ


「月光」に続いて歌ったのが、この「火の鳥」だった。「貴方の背を押していく」と鬼束が歌った時、そこには「私」だけの孤独な世界ではなく、「貴方と私がともに生きいていく」新しい世界が描かれていた。私がどう生きるか、自分がどう生きいるかでいっぱいいっぱいだった「月光」から、誰かの力となり、未来を信じてともに歩いていく「火の鳥」。対照的な二つの作品が、鬼束ちひろという一人の歌い手を通して繋がった瞬間だった。



好きな人と時を重ねる


手元の「Apple music」には、かれこれ15年以上聞き続けてきた楽曲が詰まっている。これほど長い間、同じものを好きでい続けられるのは幸せなことだ。まして、それを作ったアーティストが15年経った今も活動を続け、ともに歳を重ねているという事実は、ファンとして幸せでしかない。

人生の浮き沈みも、才能がある故の幸せも不幸も、言葉にできない苛立ちや苦しさも、それらを全てひっくるめた上で、再び歌を歌う彼女がいる。もしかしたらまた活動を休止するかもしれないし、歌唱力も落ちるかもしれないい。けれどなんとなく「彼女はもう大丈夫だろう」という気もしている。少なくとも彼女がこれまで作り上げてきた楽曲やライブパフォーマンスは大切な宝物で、それを大事に抱えて、私はこれから15年くらいは生きられそうな気がしている。




おまけ


最近の鬼束ちひろってどうなの?と思われた方は、youtubeチャンネルをご覧ください。過去作から現在までのMVが公開されています。ライブ映像もありますよ。


今年5月に販売された「LIVING WITH A GHOST」では、「嵐ヶ丘」が久々に披露されています。新旧、両方のファンが楽しめるので、もしよかったら。


アルバム「シンドローム」はamazon prime musicで配信中です。「good by my love」「火の鳥」が収録されています。「シャンデリア」もいいですよ。


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