見出し画像

【自己紹介】就職活動と初めての挫折

はじめに

初めまして、たまきちです。
今社会人5年目のフツーのサラリーマンです。

初めての投稿なので自己紹介がてら
私の社会人人生の一部をまとめておこうと思います。


就職活動

社会人人生を決める就活。

ここからすべてがスタートしていたので、
あえて就活時代から振り返りたいと思います。

自分が何者なのかも何をやりたいのかも分からないまま、
周りの波に影響されて、なんとなく就活を始めた大学3年生。

とりあえずみんなに羨まれるような有名な会社に入って、
稼いで遊びまくりたいという安易な考えで就活をスタート。

ただ何をESに書けばいいか分からない。
自分の強み?ガクチカ?そんなもの急に言われても分からない。

大学生時代やってきたことといえば、サークル活動、バイト、たまに旅行。
普通の大学生だ。

唯一のめり込んだのが
大学1年生から続けていたお好み焼き屋でのアルバイトだ。

サークル活動では中心人物ではなかったしバカ騒ぎしているだけだったから
とりあえずガクチカとしてアルバイトのことをESに書いて出そう。

自分は行動力もあるし素直だしコミュニケーション能力も高いし、
社会人として活躍できるイメージも持てる。
当時、根拠のない自信だけはあった。根拠のない。ね。

ESは50社くらいに提出した。結果、内定が出たのは1社のみ。
なぜだ。意味が分からなかった。

当時の僕は自分のことを素直に正直に話せば、
必ず僕の強みが伝わるだろうと確信していた。

振り返ると、あの時の僕は正直すぎたし、
ロジックもくそも無かったので、話の一貫性がなかったんだろう。

内定がもらえなかった大きな要因は、自己評価が高すぎたことだと思う。

つまり、周りから見えている自分と
自分が認識している自分とのギャップが大きかったのだ。

しかし当時の僕はなぜ内定が出ないのか全く分からなかった。

内定が1社出た時、僕が大学4年生の6月だった。
この結果に全く満足していないので就活を続けるか迷った。

僕は留年の危機だったので、就活と両立は難しいと判断し、
唯一の内定を承諾し、就活を終わらせた。

大学4年生の4月時点で、卒業まであと42単位。
そのうち、40単位は必修科目で絶対に落とせない。
落としたら留年確定という状況でだいぶ追い込まれていた。

周りからは
「留年確定おめでとう」「大学5年生楽しめよ」などと言われていた。

僕は私立文系で論文も無い学部だったし、4年生でゼミも無かった。
だから単位をほぼ取り切っていて週1回大学にこればいいだけのやつも
たくさんいた中、週5日毎日5限という高校生ばりの時間割で大学4年生を
過ごした。

大学の勉強に集中した甲斐もあって何とか卒業できた。

少し話がそれたが、無事に大学を卒業できて
4月から晴れて社会人デビューを果たすことができた。

社会人1年目:こんなはずじゃなかった

僕は地元の自動車部品メーカーに入社した。
地元では有名で、おじいちゃんおばあちゃんも知るかなり老舗企業。
親含めて喜んでもらえたから、まあいいかと満足した気になっていた。

入社してすぐ1ヵ月間の集合研修が始まり、
その後全国の拠点に配属されるというものだった。

全国といっても本社がある三重の拠点が中心で、
あとは東京、大阪、名古屋の営業所や広島、神奈川、埼玉など、
カーメーカーの拠点の近くに配属だった。

集合研修が終わる1週間前に配属希望面談が実施された。

僕は営業がやりたかったのと都会で働いてみたいという思いから、
東京営業所を希望した。

その面談の中で、埼玉でも営業に近しい仕事ができると言われた。
当時、自信だけは異常にあったので「どこでもやれますよ」と言ったら、
本当に埼玉配属になった。

同期200人の配属通知が終わった後
どの拠点に何人配属になったのかが公表された。

埼玉配属は合計で10人くらいいたが、
埼玉の中でも拠点が2つに分かれており、僕が配属された拠点に
同期は1人もいなかった。

毎年200人近い新入社員がいるが、
僕の配属先は、新入社員の受け入れが初めてだと知った。

この時はまだワクワクしていた。
未開拓の地を俺が開拓してやるんだと。

どんな頼もしい先輩がいるんだろう。
どんな楽しい仕事があるんだろう。

引っ越し先の物件は会社が用意してくれていたので、
急いで引っ越しの準備をして、配属通知の1週間後には埼玉にいた。

この時、世間ではコロナが流行り初めており、
初めての緊急事態宣言が発令された年だった。

せっかく埼玉にきて東京にも遊びに行きたかったのに、
店はほとんど閉まっていて、開いてても20時くらいには閉店している店ばかりだった。

配属初日

配属先に初出勤し、OJT担当に迎えられて朝礼で挨拶をした。

が、拍手なども無く歓迎ムードは0。
興味が無いのは分かるが露骨すぎる。

よく見るとみんな目が死んでいる。
不安しかなかった。僕はここにいて大丈夫なのか。

幸いにもOJT担当はすごく気にかけてくれて優しい人だった。
ただどこかに闇を感じた。

僕の席は斜め前に課長、隣にOJTという配置だった。
初日は顔合わせが中心に行い、一日が終了。

2日目

OJT指導員からマンツーマンで仕事を教えてもらう日々が始まった。

そんな中、課長から突然こんなことを言われました。
「毎週のグループMTGの進行とプロジェクターのセッティングは任せた」

新人の僕にできることは少ないので、
任せてくれてありがとうという気持ちだった。

実際に僕が進行することになったわけだが、
準備するのが遅くても誰も手伝ってくれないし、
先輩たちはイライラしているし、こんなに冷たい世界なのかと感じた。

細かくは覚えていないが、
昨日言っていたことと今日言っていることが真逆だったり、
とにかく理不尽だった。

そして周りの先輩社員は誰一人仕事を楽しそうにやっていなかった。
思考停止でルーティン業務をこなしているようにも見えた。

埼玉にいる同期は、みんな同じ寮に住んでいて
僕だけ一人違うマンションに住んでいる。

当時を振り返ると、社会人生活に幻想を抱きすぎていたのかもしれない。
そのギャップにやられてしまったのか僕は突発性難聴になった。

仕事は頑張りたい。しかし夜は寝れない。

家の近くにラーメン屋があったので入った。
ラーメンがおいしくてあったかくて泣いてしまった。

精神的に限界だったはずなのに、
毎日誰よりも早く出社して仕事をしていた。

配属後2日目にして、もう仕事をやめたかった。
自分の思い描いていた社会人人生とは真逆の生活を送っていた。

OJT担当の離脱

配属されて半年ほど経った11月ごろ、私のOJT担当がうつ病で
休職になった。

OJT担当は3年ほど前にうつ病を発症していて、再発だった。

復帰は早くても来年の3月と言われた。
まだまだ業務を教えてもらいたかったが、私は顧客の窓口となり、
予期せぬ独り立ちとなった。

社会人2年目:挫折

社会人2年目の夏、部署異動が決まった。
同期がたくさんいる埼玉の支店に異動になった。

厳密にいうと、働く場所が変わり所属グループも変わったが、
業務内容は変わらないというものだった。

正直、業務内容にも飽きていたがOJT担当もおらず、
一人で頑張ってきた自負があったので、僕にしかできない仕事だと思い、
まあ頑張るかという気持ちになっていた。

僕が担当していた業務はいわゆる上流に当たる顧客との窓口。
異動後のグループは、顧客の情報を元に生産準備を指示するところだった。

生産準備グループに所属しながら、上流の営業の仕事をするという
今までに無い立ち位置となった。

この時も時折ストレスを感じたり、
忙しくなるとよく耳鳴りがしていた。

メキシコからの刺客

OJT担当が休職してから私の面倒を見てくれていた課長も、
私が部署異動のタイミングで、異動になった。

埼玉から離れて本社に戻るという。
後任で課長に就任したのは、メキシコ駐在から帰国した
超シゴデキの人だった。

この人が超厳しくキレッキレだった。
前の課長は勢いとパッション派だったのに対して、真逆のタイプだった。

通常の業務量でもパンクしそうなのに、
追加で別のプロジェクトの参加を命じられたりした。

また今までの仕事のやり方が全く通用せず、
非常に細かく指摘されて、仕事が増えているように感じた。

言っていることは正論だったが、
今までやってきていないことでどうやったらいいかも分からなかった。

分からないので、上司に相談しに行くと
報連相やコミュニケーションの取り方を指摘されて、
全く仕事が前進しなかった。

私自身がかなり大雑把な性格なので、
細かく指摘されるとやる気をなくしていた。

そこまで細かく仕事をする意味もあまり理解しておらず、
指摘されて分かったつもりになるが腑に落ちていないので、
改善できず従来の方法でやって、上司に怒られるというのを繰り返していた。

何をしても指摘されるので、相談や報告するのが怖くなり、
全て抱え込むようになった。

異動する前の部署は、各担当にアシスタントがついていたため、
私の業務は2人でやる業務量なのだと思っていたのだが、
新しい上司や異動後の部署のみんなは、1人分の業務だと認識していた。

異動後の部署はアシスタントがいなかったり、
僕らの業務をあまり理解していないということが関係しているかもしれないが、僕にとっては衝撃的なギャップだった。

自分はずっと2人分の業務を担当していると思っていたから、
なんで周りの人は手伝ってくれないんだろうとずっと思っていたが、
謎が解けた感じがした。

そんな日々が続き、
ちょうど3年目に差し掛かろうとしていたとき、ついに僕は会社を休んだ。

上司に体調不良を理由に休むと伝えて、2日休んだ。
上司から連絡があり、Teamsで話した。

上司に説得されて出社したが、その時から絶対に転職することを決めて、
転職活動を始めた。

社会人3年目:転職

今の環境から逃げたくて、早く仕事をやめたくて転職活動を始めた。
自分が向いている仕事はこれじゃない。と。

営業ができて成長できそうで若い人が多い会社が良かった。
なんとなく名前の知っている会社から受け始めた。

転職活動を始めて4か月目くらいで1社から内定が出た。
その内定を承諾して転職を決めた。

他の会社から内定も出ていなかったから、
選択肢が複数ある中で転職先を決めたというわけではなく、
早く転職したいという気持ちで転職先を決めていたかもしれない。

次は会社に辞めることを伝えなければならない。
2か月前に言えば、有休も使い切って円満退社できると思った。

やめることを伝えて後任が決まるまで待ってほしいと言われ、
なかなか業務の引継ぎを始めることができなかった。

上司に辞めることを伝えた時、最終出社日は伝えていた。
有休を完全消化した上でやめたかったからだ。

僕も波風を立てずやめたかったので、できるだけ仕事が残らないように
やり切ろうという思いでやっていた。

結局、最終出社日の当日のぎりぎりまで取引先や社内とやり取りをして、
仕事をしていたし、有休は消化できなかった。

後任は決まっていたし担当変更の連絡は先にしていたが、
なぜか業務は僕がぎりぎりまでやる羽目になっていた。

最後までこんな感じだったので、本当にやめてよかったと思った。
こうして新卒で入社した会社での人生が終わった。

営業マン人生の開幕

僕は営業支援会社に転職した。
未経験で入社したため、年収は下がったがやりたかった営業ができるし、
前の仕事もやめられたし気分はよかった。

さいごに

ここで伝えたかったことは、就活ミスっただけならいいが、
その後なんでミスったか気づけないと結構苦しいよって話。

根拠のない自信は大事かもしれないけど、
自分がどういう人間かはよく理解しておいた方がいい。

今回はかなり中途半端に終わってしまったので、続きはまたいつか書きます。

それでは。また。

いいなと思ったら応援しよう!