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ニュートラルな思い出

 他の人と比べたことがないので本当のところは全然わからないのだけど、私は比較的持っている記憶が多いんじゃないかと感じる。イベントとして何か特別なことが起こったことを覚えているというよりは、些細な日常の隙間がその瞬間だけ切り取られて脳裏に焼き付き離れないという感覚に近い。もっと具体的に言うなら、頭の中にアルバムがあって、ときおり風が吹いてそれがめくれるようなイメージ。現在のふとした瞬間に、何かのひょうしにぱっと浮かんでくる。

 一番古い記憶はおそらく2歳くらいのお正月にビール瓶を運ぶところ。曇りの日の幼稚園の薄暗い外廊下。教室の蛍光灯は少し眩しい。優しくてかわいくて大好きな2歳上のお姉さんの隣の席。先生が持っている銀のボウル納豆入り。脱走した羊。三匹のやぎのがらがらどんとタイトルを思い出せない怖いビデオ雨の日用。走り回っていた弟が転んであごを切ったとき、ティッシュをもらいに行った先生の部屋の扉。母の車に乗せてあった好きじゃないキティちゃんのメモ帳の「なつきちゃんだいすき」の文字は覚えてるのになつきちゃんのこと覚えてない。遠足の前夜仕事から帰った母と夜更かしして作るクッキーの生地。ぼろい借家。二段ベッドから見える動物たちのジグソーパズル。もうどこにもない。小学校の雨の日の理科室。やっぱり蛍光灯が眩しい。好きだった男の子がよく読んでいた絵本の表紙。おんぼろ校舎の剥がれかけた水色。水分を含んだ木の床の匂いとコンクリートのベランダ。PTA祭りのバザー会場。母親がキッチンに立っている。私の帰りを待っている。チェキのフィルムはピングーのふちどり。

今にもおぼれそうで苦しい。

 思い出を苦しいと思ったのはこれがはじめてだ。それまではふと思い出しては消えてゆくそれに別段感情を抱く暇もなかった。苦しい。とりたてて気持ちの込もっていない、ニュートラルな思い出を持て余してどうしようもない。

 私の中にある、幸せと呼ぶほどではない、しかし不幸せではない思い出に傷ついているのかもしれない。それらの思い出で構築された私が大事な人を傷つけた。私のせいではない。でも相手のせいではもっとない。今でも私はやはり、私が幸せな家庭で育ったのは偶然にすぎないと思う。それはきっと私が年相応に幸せに育ったからだ。子ども時代を子どものままで過ごせたからだ。それら全てが苦しい。なぜならこういう私こそが大事なあの人を傷つけたからだ。私はあなたの思い出ごと愛せる。なぜなら私の思い出は私を傷つけたことがなかったから。ごめんね。謝るのもおかしいか。

 こうして過ごす今だって、またニュートラルな思い出になるのよ。

 

 

 

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