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2024-03-20: 最近読んだ本

3月頭はバタバタしていたため、たいして読めてもいないのだが。


西野智彦『平成金融史』

元TBSテレビ報道局長である西野智彦による、副題のとおりバブル崩壊からアベノミクスに至るまでの平成経済録である。

平成金融史を大きく4つの時期に区分し、日銀、政府、省庁、そして各銀行が混乱や不安、困苦の果ての意思決定を繰り返し、泥沼のような経済不況の舞台が展開されていく。

本書において、西野は事実列挙と関係者の談話の記載に注力しており、西野自身の各組織や人物に対する批評は控えられている。
あくまで「金融史」であることを目指し、その評価は読者に委ねられているのだ。

ところで先日、日銀がマイナス金利政策の解除決定を下したが、この政策は日銀内で2014年頃から検討され、満を持して2016年に導入されたものだ。

金融緩和を継続しつつ超過準備(民間銀行が日銀に預け入れる当座預金のうち、義務額の閾値を超過した預け入れ金のこと)を圧縮して金融機関による融資・投資活動を活性化させる目的で、欧州中央銀行を参考に研究された本政策の導入は、副作用的に各金融機関の収益基盤に対して中長期的なダメージを与えていく。
結局のところ、この政策は成功だったのか、それとも失敗だったのか。

私は経済学にまったく明るくないので込み入った話ができないし、知ったような口すら利けないが、金融政策に銀の弾丸はない以上、その政策が導入時に期待された目的を満たしたかどうかで一定の評価を下せるだろう。
任意の政策には実行に伴う副作用があり、トレードオフ・スライダーを考慮した結果、ネガティブな結果も当然予期せねばならない。

仮説と検証のサイクルは速やかに回ることが肝要だが、こと行政の世界でこれは難しい。
評価に値するデータが得られるまでにある程度の期間を要するし、意思決定に関わった人々の面子や想い、政治という、非論理の世界の都合も絡んでくるからだ。
本書を読めば、それを嫌と言うほど思い知らされる。

上掲の記事のような、日本経済に関わる報道を見聞きしても、さっぱり意味がわからず歯がゆい思いをしていた私は、少しずつ勉強しようと思い、まず歴史に触れるべく本書を手に取った。
これは良い選択であったと思う。

とにかく力作であることは間違いなく、ぜひ一読を。

桜井政博『桜井政博のゲームについて思うこと 2015-2019』

有限会社ソラの社長であり、『星のカービィ』や『大乱闘スマッシュブラザーズ』シリーズの生みの親である桜井によるコラム集である。

桜井は2003年ごろから『ファミ通』にてコラムを連載し、以降ゲームソフトや業界について継続的に発信を行っている。
任天堂関係者と誤解されることもある桜井は、小島秀夫や故・岩田聡と並ぶ日本ゲーム業界の顔役の一人と世界から目されていることは間違いない。
彼自身も裏方にとどまらず、積極的に各方面へ顔出しを続けている。

桜井の凄さのひとつが、彼が50歳を迎えてなおハードゲーマーであり、エンドユーザーとしてゲームへの熱を維持し続けている点だと思う。

本書中では後継者問題に思い悩む姿も認められ、『スマッシュブラザーズ』や、ひいては業界を牽引する存在を待望しながらも歯がゆさを感じるシニアプレイヤーとしての顔をのぞかせている。

桜井が安心して業界をリタイヤし、「ただのゲーマー」に落ち着ける日は、果たして訪れるのだろうか。

今敏『KON'S TONE 「千年女優」への道』

今敏というアニメーション監督がいた。

大友克洋に師事し、自身も傑出した作画技術を体得した上でアニメーション業界の門を叩き、2010年に膵臓がんで夭逝するまで精力的に作品制作を続けた今は、自身のHPに制作記を連載していた。
それがKON'S TONE(今の口調)だ。

本書に収録されその大部を占める「パーフェクトブルー戦記」は特に有名(悪名が?)であり、HPでいちどは読んだことがある、という人もいるだろう。
個人的には、『人狼: Behind of the screen』に収録された制作記や、故・首藤剛志がWEBアニメスタイルに連載していた「シナリオえーだば創作術」と並ぶ貴重なアニメーション制作記録に数えられる。

悪化していく制作進捗が招くトレードオフ・スライダーの調整やクオリティコントロールに苦心し、制作進行(アニメーション制作におけるプロジェクトマネージャー)を「無能」と断じて唾棄する今の姿勢は、現代感覚に照らし合わせれば間違いなくパワーハラスメントに分類される。

今の文章の特徴は、いささか誇張するならば「俺、すごい」という自讃と、「役に立たないやつばかり」という周囲への怨嗟である。
実際、今は大友克洋直系の作画技術を持ち、高いクオリティコントロール志向から、レイアウトに転用できる絵コンテを意図的に描くことで知られていた。

同じく映画監督で、漫画『セラフィム』の原作者でありそれが原因で今と絶縁した押井守によれば、今は「まわりの人間がみんな馬鹿に見えて、自分がトップじゃないと満足しない男」である。
鳥海永行に師事しアニメ業界でジュニア時代を培った押井からすれば、漫画家としての背景を持っている今の独断的な態度は、周囲のスタッフを「漫画のアシスタント」と見なしているように感じられたそうだ。

一方、今を知るクリエイターである平尾隆之監督は、今について「普段からあえて自分を意地悪で皮肉屋のように演じられている部分があって、本来はとても繊細な方」と評している。
どちらも今の「分人」(平野啓一郎)ではあったのだろう。

今の手段や態度を全肯定しようとは思わないが、本書は「プロジェクトをやりきる」ということがどういうことか、今はその背中を読者に提示しており、それは一見の価値がある。

今敏『KON'S TONE 「妄想」の産物』

今のキャリアにおける唯一のオリジナルTVアニメーション『妄想代理人』制作記が本書である。

本作も毒舌や皮肉のオンパレードであるが、さすがにかつての『パーフェクトブルー』のような地獄の様相は再演しない。

今は「絵が描けるディレクター」であり、プレイヤーとディレクターを兼ね備えた、いわゆるプレイングリーダーである(アニメ業界では、慣例的にプロジェクトマネジメントはクリエイターでなく制作進行という職種が原則的に担当する。これはソフトウェアエンジニアリングの世界と異なる点であろう)。

ディレクションとプレイヤーを兼務するということは、鷹の目と蟻の目、つまりマクロな視点とミクロな視点の両方を維持して交互にプロジェクトを見つめなければならない。

今や宮崎駿、庵野秀明に代表されるような原画マン出身の監督は得てして「俺が全部描ければベストなのに」という思いを抑圧して人をアサインしディレクションを行っており、この葛藤が今の文章からも湯気のように立ち上っている。

実際、私がアニメーションの原画マンと会話すると、「監督(≠作画監督)なんてワリに合わない仕事。はたから見ていて、あれをやりたいとは思えない」と言う人も少なくない。
ソフトウェアエンジニア業界で言えば、「エンジニアリングマネージャーやライン職なんてごめんだ。俺はICやテックリードとしてずっとプログラミングしていたい」といったところか(※本来的には、映像監督はソフトウェアエンジニアリングにおけるプロダクトマネージャーに近い職務を担うと思われるが、ここでは職責の規模を意図している)。
どの業界も似たようなものだと思う。

今のクリエイティブとディレクションが衝突し、その責任感によって突き進んでいく上で散っていく火花を眺めるような気分で本書を読了した。

ところで、今は『「千年女優」への道』の末尾にて、自身の死を意識して日々過ごしたほうが有意義に過ごせると書いている。
いわゆるメメント・モリ(死を忘れるな)、カルペ・ディエム(その日を楽しめ)という考え方だ。

今は非常に有名な、絶筆となる日記を自身のHPに遺して逝去した。
さようなら」と題されたそれは、最後まで”今敏”らしい文章であり、彼が常に燃焼し続けた結果に導かれた結論のようなものである。その象徴が、現MAPPA会長である丸山正雄との最後のやりとりではないか。

後述する斎藤環が『妄想代理人』関連で今と対談した際、同世代である今から「生き急いでいる」印象を受けたという。
これは換言すればまさにカルペ・ディエム、つまりその日を全速力で生きているということだと思う。
このような生き方を目の前にして、色々思うところがある、三十路も半ばにさしかかった今日このごろ。

志村正彦『東京、音楽、ロックンロール 完全版』

ロックバンド・フジファブリックのオリジナルメンバーでありフロントマンだった志村は、2009年12月に29歳の若さで急逝した。

メジャーデビュー以降、体調があまり芳しくなかった志村であるが、彼は同月10日に更新したバンドのHPに「体調もかなり良好です」と書き残したばかりであった。

本書は、フジファブリックがメジャーデビューした2004年から、志村が公式HPに連載していた日記の総集である。
「完全版」と題しているのは、オリジナル出版後に志村の逝去を受け、彼へのインタビューなどを追加して出版したためである。

今年は志村の15回忌にあたる。
フジファブリックは現在も鋭意活動中であり、志村と共同制作していたメンバーが活躍している。
現Voの山内曰く、「(志村が遺した)フジファブリックに解散はない」。

そんなフジファブリックは、奥田民生に憧れた志村がミュージシャンを志し、山梨は富士吉田から上京して辛苦の上で大成させたバンドだ。
志村の等身大でどこか気の抜けた日々の記録は、実のところ強大なプレッシャーやストレスに侵食されつつ明るい内容執筆を心がけていたことが、本人の解説によって明らかになっている。

志村によれば、彼に趣味やストレス発散の方法はなく、通年ひたすら音楽に関わり続けていた。
「音楽に関係のないことはしたくない」「作曲も演奏もしない日はない」という志村は、音楽の自家中毒に侵されているかのようである。

本書を読み進めることは、非常な息苦しさを伴う。
志村の感じている音楽的閉塞感や抱える体調不良もさることながら、2009年12月24日にはXデーが待っていることを読者は知っている。
志村が「35歳くらいには結婚したいかも」というような、未来への展望を語る時、私は言葉には表せない感情に襲われる。

音楽そのもののような志村の生き様を見て、我が身を思う時、その情けなさに自嘲すら湧かず、彼に対する喪失感を覚えながら不安定な気持ちになっている。

私はフジファブリックの曲が好きで、運転中などよく聴くのだが、本書を読んだことで、このバンドがより特別なものに感じられた。

https://www.youtube.com/watch?v=IPBXepn5jTA

斎藤環『おたく神経サナトリウム』

精神科医で大学教授である斎藤環が、『ゲームラボ』というゲーム・カルチャー誌に長年連載していた内容をまとめたものが本書だ。

私がいわゆる「オタク」になり、現状の人格形成に至る主要な要因がこの『ゲームラボ』である。特に、当時の寄稿者であった斎藤環と東浩紀には決定的に影響を受けた。
高校時代には斎藤の著書を乱読し、自分も精神科医を目指してみようかな、と思う程度にはハマっていたと思う。

であるから、この連載が書籍にまとまっていると知って押っ取り刀で紐解いた次第だ。非常に懐かしい内容。
とはいえ、私がゲームラボを愛読していたのは2002年から2004年ごろの短期間で、本書で言えば「おかん萌え」のあたりが初読である。
私は斎藤の仕事を経由してヘンリー・ダーガーを知った(当時、そんな人も少なくなかったのではないか)。東浩紀を経由してEver17やYU-NOを知ったたように。

内容としては「オタク」時評の趣が強く、つまり必ずしも一貫性のある連載ではない。公開当初は『ゲド戦記』を「プラスに評価できる」と書きつつ、世評が固まってくると「どうみても七光りだったじゃん」と掌を返すのはちょっと……という感じだが、まあ御愛嬌か。今話題の訂正可能性(東浩紀)ですね。

本連載はしかし、当時のオタクシーンにおいて稀有な連載であり、斎藤や東の連載が一堂に会していた『ゲームラボ』はティーン向けサブカル評論誌としての性質を抱えていた。
本誌や講談社の『ファウスト』を読んで、めんどくさいオタクになっちゃった人も、今のアラサーオタクには少なくないんじゃないかなぁ……。そんなことないか。

既に両者はサブカル批評を離れてしまった感がある(し、それは自然だと思う)が、斎藤や東がいなければ今の私もないので(いいんだか悪いんだか)、なんだかノスタルジィな気持ちになったのでした。
『承認をめぐる病』なんかも併読しているので、読了したらまた紹介します。

野崎昭弘『詭弁論理学 改版』

野崎昭弘は瑞宝章を受章した数学者だ。
個人的には、ダクラス・ホフスタッター『ゲーデル、エッシャー、バッハ あるいは不思議の環』の翻訳者の一人という印象が強い。
彼が1976年に上梓した本著は、詭弁の種類とその弄し方についての本である。

詭弁というのは世の中に腐る程横溢している。いや、もはや腐り落ち、腐臭を放つ中からなお、詭弁が再生産されている。
Xを見よ。
そこら中が詭弁の嵐である。これは皮肉でも冷笑でもなく、単に事実である。

詭弁とは、議論において相手を説得するために、誤った論理や事実に基づいて議論を組み立て論敵をやりこめることである。
これが巧妙であると、うっかり詭弁論者のペースに乗せられて、そのまま言いくるめられてしまうのだ。

インターネット上の言説では、このような詭弁が本当にまかり通っている。これは、論者がそもそも無自覚に詭弁を弄している(これは誤謬と呼ぶのがふさわしい)場合もあれば、意図的に自分の主張を正しく見せるため詭弁を弄する場合もある。

詭弁やレトリックに関する一般向けの本は、あまり多くない。
本邦では香西秀信が修辞学者として著書が多く、哲学者のエドワード・デイマーによる『誤謬論入門:優れた議論の実践ガイド』などもあるが、盛んなジャンルではないように思う。

私はSNSコミュニケーションにおけるすれ違いの主要な原因は、この詭弁と誤謬によるものだと考えている。
腰を据えて、相手を思いやりながら議論をすることにそもそも不向きなSNSという環境が「悪い場」として機能し、議論の深化でなく論敵を制圧の対象とみなす際に武器となるのがこれらだからだ。

正しい議論を進めるためには、正しい道筋が求められる。
余談だが、車の運転中に同乗していた私の息子が「ここはどこ?」と訪ねてきた。「私が、ここはXX県だよ」とこたえると、それは違うという。
ではどこだと思うの? と尋ねると、息子は「道路さ」と笑った。
これは笑い話だが、こういうすれ違いが各所で起き、それを起因とした人格攻撃や分断がいたずらに乱発していることは悲しい話である。

論理学、というと難しく聞こえるが(実際、後半は論理学についての話題が主になる。野矢茂樹『論理学』などを併読されたい)、一般向けの本であるから、気楽に読むべし。
野崎の軽妙なユーモアは、50年を経ても鮮度を保っている。


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