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2024-06-10: 最近読んだ本

今月は忙しすぎる。
祝日も無いし、6月はホスピタリティが終わってる。

8月売りの単行本作業が渋滞しているのも繁忙の一因だが、今年は漫画関連の業務が昨年とは比較にならないほど山積していて……。
もちろん、嬉しい話なのですが。

スキマ時間で、ちまちま本を読んでいます。


山田太一『昭和を生きて来た』

脚本家、山田太一のエッセイ。
『夕暮れの時間に』を先日読んで面白かったので、とにかく山田のエッセイを色々読んでみたいと思い購入した。

山田は2023年に89歳で没した。
昭和初期(昭和9年)の生まれと言えど、昭和・平成・令和の3元号を跨いで社会を眺めた山田を<昭和人>と呼ぶにはいささか躊躇いがある。

山田の述懐によれば、彼は典型的な愛国(軍国)少年であり、自身の一生は国に捧げるものと信じて疑わなかった。
いわゆる戦中派の末尾、大江健三郎らと同世代である。

私は平成元年生まれであるから、平成・令和とを合わせて35年程度生きてきた。
あくまで私見に過ぎないが、平成・令和期における日本社会は、自国の経済成長的困難や世界的な(特に情報)技術革新による荒波に直面こそすれ、この私個人の実生活やこれを取り巻く政治・思想がドラスティックに変態していない。
平成以降、今に至るまで私たちの日常は続いている。
両親がそうしてくれたように、私も休日にマイカーで子供を遊びに連れて呑気に出かけられるし、突如全国一円で食料が配給制になり空腹に耐えた経験もない。

つまり、軍国主義のもと醸成された幼少期における素朴な愛国精神の(敗戦という契機による)瓦解、今日食うに困るというどこまでも現実的な貧困体験、社会全体に吹き荒れる思想的衝突といった、いわば公共性を伴う苦痛や衝撃とは無縁の平成を過ごしてきた。

私は、90年代の東京で屋台チャルメラの音を子守唄に眠り、自転車で走りまわる豆腐屋へお使いに走った最後の世代だと自認する。
しかし、これらを「ヤミ米の買出しで取締り役である警官にお目溢ししてもらった」山田の昭和体験と、そのエピソード力において比肩しうるとは、とても思わない。

明治維新と45年の敗戦が社会一円にもたらしたような、我々市民の生活の底が抜け、水槽の水がまるごと置換されるような体験を、私は山田らが遺してくれた言葉たちから、ジグソーパズルを作るかのように「編成」していく。

激動の昭和を称揚し羨望の視線を向け、平成・令和をクサすつもりは毛頭ないが、「昭和を生きて来なかった」私としては、幼少期から向こう、昭和とは常に「最も近く、そして絶対に到達できない」対象として意識する対象なのである。

加藤典洋が本書の解説にて、山田のエッセイは老年の余裕からは遠く、彼が真剣勝負の場所とみなしていると喝破している。
私が山田の文章を心地よく思い、愛読し始めているのは、まさにその点に因があると感じる。
まだうまく説明できない。

田中達之『アニマンラスト』

アニメーター・イラストレーターの田中に対するインタビュー集。
CANNABIS名義での活動で氏を知る人も多いのではないか。現在は京都精華大学などで教鞭も執られている。

田中といえば、20歳そこらで『AKIRA』に携わり頭角を表した天才肌アニメーター。そんなステロタイプめいた印象を抱いていた。

私が田中の仕事で最も親しんだのは、ゲーム『リンダキューブアゲイン』のキャラクターデザインであり、アニメーターよりもイラストレーター・CANNABISとしての仕事が印象深い。

本書のサブタイトルは「アニメ・マンガ・イラストの作法」と題されているが、私見ではイラスト初心者向けの指南(に特化したハウツー)本ではない。

アニメ・漫画・イラストレーションのいずれもを業務として経験した田中が、各職務の性質を整理し、「絵を描く仕事だが、いずれも異なる素養・能力が要求される」点をいみじくも指摘する。
このような一般向けの本は、今まであるようで無かったのではないか。

私も絵を生業とする人々の末席に座しているクチだが、本書はプロであっても、いや経験豊かなプロであるほどに首肯し、興味深く読める本だと思う。

東浩紀『訂正可能性の哲学』

私は東の著作をそこそこ読んできた。

サントリー学芸賞受賞作である『存在論的、郵便的』から向こう、ゼロ年代の代表作『動物化するポストモダン』や小説『クォンタム・ファミリーズ』、GLOCOMの『ised』シリーズなど。
共著も含めると、両手両足の指では全く足りない。

にも関わらず、私は東のよき読者ではなかったと自認する。そこに自省も含まれる。
私はゼロ年代において、東浩紀読者層における中央値的な読み手であり、私たちはゼロ年代の東の批評戦略を支え、その後東を失望させた読者層だ。

自分語りが続いて恐縮だが、私は2011年頃を境に、しばらく東浩紀を読まなくなった。
当時の認識は「なんとなく離れた」程度であったが、今自省しつつ整理すると以下の要因が挙げられる。

  • 東がゼロ年代から育てたオタク的若者読者に対し、書き手およびパフォーマーとしての態度を変更し、私がその変化にシームレスに追随できなかった

  • 東を中心とした、当時の批評家や彼の取り巻きとの、SNSを舞台とした喧嘩(プロレス?)に辟易した

東がなぜ、書き手としての態度を変更するに至ったかは、以下で紹介する『ゆるく考える』や『ゲンロン戦記』等で作家自身が説明している。
東に置いていかれた私は、東が批評の延命・持続戦略によって生み出された読者であり、一過性の「俺たちのあずまん」ブームに乗った軽薄な読者に他ならなかった。

さて本書であるが、やはり東の著作は(私にとって)読みやすい。
私が彼の文体に親しんできたというのもあるが、東の文章はさながら読者に対する語りかけであり、彼はつとめて平易な言葉を用いて、固有名詞の羅列を避け、「伝わるように」文章を紡ぐ。

本書は民主主義と政治についての思想書であるとともに、東の自分史や今までの経験から発した個人的な書籍でもあると考えられる。
「更新する」ではなく「訂正する」ということの意義、そして東が疑義を呈し批判してきた落合陽一やハラリの思想(夢想?)に対する、あくまでも人間(主体)を中心としてものごと(政治)を考える態度。

『ゆるく考える』や、NewsPicsなどで認められる東の主張を確認しつつ読んでほしい一冊。

東浩紀『ゆるく考える』

本書は2008~2020年ごろ東によって書かれた文章の集成である。

基本的には時評の体をとっているが、ときにはエッセイ的な私的エピソードも含まれる。とはいえ、全体を通じて「ゆるく考え」た内容とは言い難く、それは東の妻・ほしおの解説でも指摘されているとおりだ。

私は、2010年前後における東の批評戦略やパフォーマンスをリアルタイムに経験しているし、彼が当時の読者にどう失望していたのかも、今は事後的に理解しているつもりだ。
そして、40代をゲンロンという中小企業の経営者として過ごす中での苦労。また、批評家と作家との間での引き裂かれ。公共的な自分と私的な自分との対立。

東がどのように自分自身の人生と戦い、今『訂正可能性の哲学』以降に立っているかを知る、重要な本であると思う。
ぜひ、『ゲンロン戦記』との併読もおすすめする。

森博嗣『静かに生きて考える』

『すべてがFになる』のS&Mシリーズや『スカイ・クロラ』シリーズで有名な作家・森博嗣は、現在ほとんど作家活動を行っていないそうだ。

毎日を孤独に、趣味の工作やクラシックカーのドライブに費やす森の思想録的なエッセイが本書だ。

正直な感想を言うなら、森の思考形式は非常に合理性を重じんており、凡人の私などは「ええ、そこまで言えちゃうの?」と随所で思い、読む手を止めて考える。
森はきっと「そう思ってもらって一向に構わない」と言うだろうが。

本書は森の合理的な思考と、そんな視座から彼が世を切る・人を切る様を楽しむような本だ。
森は読者を楽しませるようなサービスを用意していないし、読者もそれを求めるべきではないと思う。
「やりたいことがまだまだある」森は、自身の人生を他者や社会と深く関わらずに維持できる能力(財力なども含まれる)を獲得しており、読者の多くは、森のように生活するのは難しいだろう。

それでも、きっと雪深い山林の邸宅から森が静かに語りかけるその言葉に耳を澄ますことで、何か今の気持ちが楽になり、悩みを整理できるような契機が得られるのではないか。
現代の仙人のような森の著作には、そのような魅力がある。

宇野弘蔵『資本論に学ぶ』

国内のマルクス経済学研究史において重要な一角を占める(と思うが、門外漢なのでなんとも言えない)宇野経済学で有名な経済学者・宇野弘蔵のインタビュー集(一部対談)。

この本は読むのに時間がかかった。
決して難しい言い回しが出てくるわけではない。単純に私が無学なため、議論についていけず遅々として読書が進まなかっただけだ。

本書を十分に理解するためには、いったいどのような知的背景が必要なのだろうか?

とはいえ、本書における宇野は、複数のインタビュアーに対して一貫し、いくつかの主張を繰り返しているように思う。
インタビューでは、宇野に対する他の経済学者や弟子筋からの批判についてどう考えるか、という問いが発され、都度宇野がさばいていく格好である。

たとえば、宇野は(社会主義的)イデオロギーと科学について反復的に語る。つまり、マルクス経済学を(社会)科学の対象とするために、マルクス主義からイデオロギーを除去していくことの必要性を主張する。
Wikipediaに書かれているような労働価値論についての言及も、念入りに何度か行われる。

それにしても、本書所収の応答が70年前後に行われたものとはとても思えないほど、今も鮮やかな内容、そして文章である。
正直、宇野経済学にはどこから入門してよいのかわからず二の足を踏んでいたが、本書はその最良の1冊かもしれない。
末尾に収録された、文学を語る対談も興味深い。

角南攻『メタクソ編集王』

角南(すなみ)はヤングジャンプの創刊メンバーであり元編集長である。

本書は角南の自伝であり、彼が手掛けた雑誌や漫画、そして成功体験についての記録だ。
本書の読みどころは、ヤンジャンの看板を背負った角南がマイナー誌を中心に戦うベテラン・谷岡ヤスジを口説き落とすくだりだろう。

小学館の編集者であった武居俊樹は、本書と同様の形式をとった回顧録において、赤塚不二夫という作家を主軸に執筆した。一方、角南はあくまで主軸を角南自身に据えており、これは読み手にとって評価が分かれる点だと思う。

破天荒な昭和の編集者による自伝を期待するならば、本書は最良の1冊である。
ただし、少年ジャンプの雑誌史や、プレイヤーによる当時の分析・批評を期待する読者にとっては肩透かしのきらいがあるので、留意すること。

後藤広喜『少年ジャンプ 黄金のキセキ』

後藤は少年ジャンプの4代目編集長である。
下図右側の人だ。

平松伸二『そしてボクは外道マンになる 1巻』

嘘。上図は後藤が担当した平松伸二の自伝的作品『そしてボクは外道マンになる』に登場する架空の編集者・権藤である。
ただ、権藤のキャラモチーフは、本書筆者の後藤であるようだ。

本書は、上図の権藤的な粗暴さとは無縁の、理性的な書籍であり(とはいえ、後藤は担当していた『アストロ球団』の作画担当であり盟友・中島徳博を勢い余って殴打したという逸話もある)、先に紹介した角南の自伝とも作風が異なる。
というより、後藤は「まえがき」にて、漫画編集者が自分史に絡めて仕事の体験や作家との交流を語る形式の著作に、明確に苦言を呈している。

角南の著作は一言で言えば「破天荒な編集者である俺の功績を見ろ!」だし、小学館の武居の著作(『赤塚不二夫のことを書いたのだ!!』)は赤塚不二夫との交流録だ。
さすがに具体的な書名を挙げはしないものの、後藤はこれらの「私的」な内容を多分に含む著作とは一線を画す、いわば「少年ジャンプ史概要」の執筆を本書の目的に据えている。

少年ジャンプは少年マガジンやサンデーに対して後発の週刊漫画雑誌でありながら、先駆者を追い落とし90年代には『ドラゴンボール』ら大人気作品を擁して653万部という前人未到の発行部数をマークする。

その結果を築いたのは、それまでの作家・編集者らによる、文字通り血と汗の滲む努力のなせる技だ。
後藤はそれらをお涙頂戴や抱腹絶倒の笑話としてでなく、雑誌の成長結果とその要因の分析として整理する。
彼が本書末尾に記した、役員による「ジャンプの最高部数はバブル景気の産物」という決めつけに抗するための、確かな労作であった。


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