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2023-04-30 哲学と思想の履歴について

これは履歴の話であって、哲学や思想の話ではないです。


先日、チズ先生と飲んでて、ひさびさにリアルで哲学についての雑談をした。
チズ先生は、先日迎えた私の誕生日にスラヴォイ・ジジェク『ラカンはこう読め!』を贈呈してくださった。
ジジェクは一冊も読んだことがないのです。『イデオロギーの崇高な対象』がKindleで買えるみたい。

そういう経緯で、ブルアカの話もそこそこに、昔読んだ本の話題に花を咲かせた。
チズ先生はご専門が社会システム理論方面で(多分)、ニクラス・ルーマンを高く評価されていた。パーソンズ、ブラウン、ルーマン……どれも読んだことがない。サーベイした書籍すら読んだことがない。反省。
そもそも、まともに読了した社会学者の著書がどれだけあったろう。学生時代に授業の副読本だったデュルケーム『自殺論』を読んだくらいか。最近モース『贈与論』をやっと読んだ。レヴィ・ストロースはカウントしたら怒られるか? ブルデューは大部すぎて学生時代に挫折したな……。

ただ、私は高校時代に井庭崇・福原義久『複雑系入門』を読んで理転した(それだけが理由でもないが……)経緯があるので、そのままルーマン的な方面へ進行していたかもしれないな。分からないものである。


人生ではじめて哲学や思想に触れたのはいつだろう?
おそらく最も若いときに読んだ哲学書はニーチェ『この人を見よ』だ。中学くらいかな。なぜニーチェなのか? 多分、『ゼノサーガ』のサブタイトルあたりで気になったんだろう。安易……。『この人を見よ』は『ツァラトゥストラ』なんかに比べれば薄いから手に取りやすかったんだな。

ニーチェは哲学というより文学として読み、そのまま忘れ去った。彼のアフォリズムを、ボードレール、ランボーなどの名前と等価に濫読した。新潮や岩波をどんどん読むことにハマっていたので、よく腹落ちもしてないのにプラトンやデカルトを読み飛ばしていく。
ただこの時期、『銃夢』や『攻殻機動隊』といったハードなサイバネティックSFコミックに触れ、心の哲学について関心が萌芽していたと思う。

ところで、私はゼロ年代前半に三才ブックス「ゲームラボ」と講談社「ファウスト」という2つの雑誌を読んでいて、大量の固有名詞に衝突していた。作家もしかりだが、東浩紀や斎藤環を知ったのはこの時期で、そこから大塚英志や宮台真司、大澤真幸などを網状的に認識していく。オタク・サブカルがキーワードになる感じ。自分の世代には、そのオタク性が東浩紀の『動物化するポストモダン』によって哲学・思想に接続したオタクがいた。

大学に上がった時期がちょうど『思想地図』第1期と重なり、北田暁大など執筆陣の著作にも手を出す。固有名の網状化が進み、藤村龍至や井庭崇からクリストファー・アレグザンダーへ遡行して建築の回路からポストモダンにアクセスする。
同時に、東浩紀の文脈から「批評空間」を知り、柄谷行人(と浅田彰)を読む。大学では、哲学の時間に廣松渉を知り、彼をマルクス研究者という枠組みで理解してマルクス研究に接近し、宇野弘蔵らに触れる。経済学に”不正入学”し、ケインズ、ハイエクといった固有名から文脈を抑えない読み方をする。

浅田彰『構造と力』がまさにチャート式的に学者の固有名をバシバシ紹介し、ダメ押しで宝島社から1984年に刊行された『わかりたいあなたのための現代思想・入門』を読む。

科学哲学という分野を知り、トマスクーン、カール・ポパーやポール・ファイヤアーベントあたりを授業で、村上陽一郎などを介して知る。バシュラールなどは理科学生向けの一般教養ではまず紹介されない。伊勢田哲治や戸田山和久を手引に固有名を走査し、やがて論理学に接続して、ラッセル(ホワイトヘッド)やウィトゲンシュタインあたりを講義であさーーく学ぶ。その後は野矢茂樹を読み進めていくと、永井均の独在論に触れたことで完全に「オタク・サブカル」的な背景による哲学・思想の読書が切断される(永井も『マンガは哲学する』などの著作があるが)。

とにかく永井均を追う形になり、『<私>のメタフィジックス』以下読めるものは手当たり次第に読む。その過程でウィトゲンシュタインを重視し、かつケロQ『終ノ空』の影響も相まって(依然オタクじゃないか)、ノーマンマルコム、レイ・モンクやブライアン・マクギネスのウィトゲンシュタイン評伝を読む。
永井を読むことで、中島義道や入不二基義を読み、遡行して大森荘蔵に当たる。大森荘蔵から廣松渉に再接続する。

だんだん、自分は大陸哲学より英米哲学・心の哲学のほうが性に合ってるのではないかという気がしてくる。
もともと文系のくせに。ポエティックな美学に対する感度が絶望的にない。解釈学的な快楽がないので、デリダやドゥルーズ・ガタリを読む愉しみが理解できない。
専攻の研究も認知科学方面に定め、直接自分の研究に関係ないのにギルバート・ライルやサール、チャーマーズを読む。哲学よりも認知神経科学のほうが研究に資するので、ガザニガやデビッド・マーなど読む。

大学院の頃合いには、『思想地図』第1期ブームも沈静化し、私が哲学や思想をサブカルの文脈で読んだり考えることは少なくなっていた。
一時期は本当に、「エロゲーをドゥルーズで解釈する」とか「畑亜貴の歌詞をラカン的に解釈する」みたいなエントリや同人誌が散見された。そういう時代だったと思う。
自分は最終的にウィトゲンシュタインや永井均を軸に、青山拓央らの若い学者の著作を読む感じに落ち着く。同時期的に、千葉雅也や國分功一郎を読み、後者の影響でスピノザに着手し、その過程で「あー(古い方から)順繰りに読まないと何を批判して何を提示してるのかわかんないな」になってきて、自分のペースで古典を読むようになる。

あと、歳を取ってやっと戦後民主主義に向き合えている気がする。学部時代に小熊英二『<民主>と<愛国>』をすかぢ先生のツイートで知って読んだ時には情報量が多すぎて固有名と歴史が脳内で安定化できず難儀したが、最近やっと落ち着いて丸山真男や吉本隆明を読めている気がする。戦後派をちゃんと読み出したのも寄与しているかもしれん。

ここに挙げていない哲学者は山といるが、哲学史家になりたいわけではないので網羅性を優先せず、都度都度で興味がある本を読んでいるだけである。

こんな話、普段はまったくしないのだが、チズ先生から「セミラティス」という単語が自然と出てきて、なんだか学生時代を思い出してしまった。

やはりいくつになっても、廃墟の腐敗と頽廃の中から舞い上がるヨタカが、ミネルヴァのフクロウよりも高くとぶ一片の可能性に賭ける程度には、楽観主義者でありたいよな。

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