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2024-07-08: 最近読んだ本

どうにも文章を書く気が起こらず、読んだ本のタイトルリストを睨みつけながら無為な時間を過ごしているのは、酷暑の兆しのためだけだろうか。

先週くらいまでめちゃくちゃに忙しく、その時期は正直本を読む知的体力もなく、noitaという1プレイが短いビデオゲームを延々やっていた。
今もやっている。

いや仕事しろよ。


スチュアート・リッチー『Science Fictions』

面白い本だった。怖い本でもある。色んな意味で。

世の中の科学論文が、たとえ著名な研究者のお墨付きがあるものでも、科学的に正しくない場合があるという事実を、数種類の原因(研究者による故意の改ざん、思い込みなど)を示しつつ提示する一冊。

科学研究に着手している学生には特におすすめかも。

著者は心理学者ということもあり、その領域に対する厳しい視点を多く含む本書だが、じつは私も学生時代は認知科学を研究していた。
心理学や認知科学の研究は追試・再試実験が難しい。

要は被験者の心や認知といった「主観」を扱っているからであり、これらは被験者の外から「ふむ、6mgか」などと明快な定量指標で評価しづらいためだ。

人間の心は実験室内外の様々な要素に影響を受けており、これらを複数の実験間で完全に均一化することは不可能だ。
だからこそ、心理学や認知科学の実験は多くの再試追試によってその研究結果たる傾向性の確度を高めていかなければならない。
ところが、多くの論文誌では、再試に関する論文は受理しない場合も多く……などなど、科学界の問題も本書には列挙されている。

自分も品質が高いとは言えない研究で学位を貰ったので、恥ずかしい気持ちで本書を読んだ。
私はすでに社会人であり研究職には就いていないが、本書が提示する「結果へのハック」は、会社組織にも横溢している。

キャンベルの法則が示すように、任意の定量指標はそれ自体の向上を目標化してしまうことでハックの対象となり、指標の計測能力が劣化してしまう。

たとえば人事評価目標として「月に3つ企画を作る」と掲げてしまうと、「3つ」という数字をクリアするために、1つの企画を小さい3つの企画に分割して企画書を作るスタッフが現れるかもしれない。
数値目標の多くは故意によるハックが可能なのである。

私たちが誠実に研究や社会、組織と向き合い、本当に意義のある成果の積み上げをするためには、このような成果ハックの欲望を退け、検証性の高いアウトプットをいかに出すか考え続けなければならない。

養老孟司、東浩紀、茂木健一郎『日本の歪み』

解剖学者の養老孟司を、思想家の東浩紀と脳科学者の茂木健一郎が囲む鼎談。

「日本の歪み」とはまた広域を射程するようなタイトルだが、端的に言ってしまえば「これまでの日本」が時代を経るごとに深めてきた歪みを確認し、日本の将来への不安や見解を放談した記録である。
人文系の鼎談としては結構目にする体裁だ。

この手の書籍で、「日本の歪み」を緩和する銀の弾丸が提示されることはあり得ないため(そんなものはそもそも存在しないのだから)、主題としては「歪みの可視化と整理」になる。
誰がやっても同じような整理になるかというと、そうでもない。
話者の思想や背景によって、同じ問題を語っても整理の仕方や見解は異なる。

読者である私たちは、様々な思想に触れ、見識の外側へ向かってはみ出していくべきだ。

東浩紀『弱いつながり』

10年ほど前に刊行された本。
『観光客の哲学』上梓前であり、震災を経て現在の思想に近づいていく過渡期の本だ。

「ネットには接続すべき。しかし人間関係は切断すべき」という東の主張は、SNS中毒化が進む私たちがインターネットの情報的物量に翻弄され、サイバースペース上で生起した人間関係とどう向き合うべきかといった態度への処方である。

本書でおっ、と思ったのが、平野啓一郎が提出した概念「分人化」について、当時の東が興味を示しつつ同意できない旨を表明している点。

東は、様々なコミュニティにおいて「キャラ」を使い分ける分人主義は消耗を招くため、かわりに「キャラ」を使い分けずコミュニティにも染まりきらない(村人化しない)「観光客」になることを提案する。

本書において、東は平野の提唱する分人主義を意図的に誤読しているきらいもある。というのも、平野の言う分人とは、「本当の私」が使い分ける「キャラ(仮面)」ではないからだ。
彼の著書『私とは何か』では、分人化とは表面的なキャラ(仮面)を自覚的に演じることではなく、異なるコミュニティに触れた瞬間に自動的に切り出される自分として理解される。

つまり、私が特定のコミュニティにおいて市民化せず、コミュニティから常に逸脱し越境する観光客化しても、やはりコミュニティAとBそれぞれにおいて自動的に分人が切り出される。
本人にそのつもりがなくても、会社の同僚の前、趣味でつながる同好の士と合う時、実家に帰省した時では、やはり無意識に態度や口調が変わるだろう。
これが平野の言う分人であると思う。

とはいえ、東はその程度のことは了解した上で、「でも結局分人ってレトリックに過ぎず、あくまでキャラのことじゃない?」と暗に指摘しているのではないか。

平野は分人の表出をあくまで「自然」な表出(無意識的なもの)と考えているが、それは単に平野が無理せずキャラを使い分けることに長じているだけではないか?
(※東は過去にXにおいて、分人主義は平野の、また鈴木健の分人民主主義についてもあまり本質的ではないと思うと表明している。この「本質」が何を指しているのかは、X上でコンテクストが切断されており、分からなかった)

平野は分人化によって人はただ一つのコミュニティに拘束されないと考える。
これにより、たとえば対立するようなコミュニティにも参画可能(責任を引き受けられる)なのだと。

対して、東はコミュニティに拘束されないためには分人化でなく観光客化すべきであると考える。
分人化(キャラ化)によって複数のコミュニティに異なる顔を効かせても、それは各所から拘束されているわけで拘束から自由ではない。
そもそもコミュニティと距離を置き、コミュニティの責任を引き受けないことで拘束を回避するのだと。

しかし、ここで私が疑問に思ったのは、「プロの観光客」は存在できないのではないか、という点だ。

私たちは時に観光客に転じるが、一方でウチ(ドゥルーズ的に言えば「領土」か)を留保している。
つまり、観光客であっても有責任的な「市民」としての分人があるのではないか…?

浅田彰の逃げろや逃げろではないが、この「市民化」を拒否しあらゆる場所で「客」として傍観することは可能なのだろうか?
この答えを求めて、私は東の『観光客の哲学』を読んでみようと思う。

加藤典洋『村上春樹は、むずかしい』

80年代以来、村上に対して好意的な批評家だった加藤は、隣国である中韓の文壇において村上作品が外国文学として評価されていないという事実のもと、村上が単なるポップカルチャーの旗手でなく、批評に値する文学者の一人であると主張する。

正直、私はあまり村上の作品を読んでいない。
両方の手で十分数えられる程度である。

であるから、本書は知らないことや初めての知見に満ちており、そうか村上春樹ってそんな作家だったんだと膝を打つような内容だった。
無論、どこまでいってもそれは加藤の読解における村上春樹に過ぎないが、巷に流通する紋切り型な村上作品への認識(なんかオシャレ。いけ好かない主人公……)をあらためる良書だと思う。

宮台真司『宮台真司 interviews』

最近は、少々スキャンダラスな存在というか、報道でその名前をたびたび耳にする宮台。

彼は90年代、最近でいえば成田悠輔のような「言ってはいけない(?)ことを”あえて”言う」タイプの若手論客だったようだ。
ようだ、というのは私が90年代の宮台をリアルタイムに知らないからなのだが。

本書は94年から04年までに宮台が各誌で受けたインタビューの集成である。
ロールプレイしている面もあるだろうが、イケイケというか自信満々の宮台が「どんな質問でもどんとこい」と構えている。

たしか東浩紀がNewsPicksだかで語っていたが、批評家は「この時代で一番自分が賢いんだ」と観衆に思わせるゲームに興じている。
80年代であれば浅田彰が、90年代は宮台真司が、ゼロ年代には東浩紀が(比較的)若手批評家としてアカデミズムの外部へ、つまりメディアに積極的に露出し、時代の寵児的なポジションを獲る。

最近は落合陽一や成田悠輔がそのポジションだったのだろうか? 詳しくないのでよく分からないが。

とにかく、イケイケ宮台が援交から天皇まで、はたまたBMWや映画まで語る宮台ファンブックのような一冊。
アンソニー・ギデンズの第三の道を評価するなど、今となっては(宮台にとっても)いささかアップデートが必要な議論も散見されるが、西田亮介が言うようにポピュリズム再考の読書案内になったりするので、社会学系の読書手引として良さそう。

大森荘蔵、坂本龍一『音を視る、時を聴く』

後述の『Ev.Cafe』あとがきで坂本が「この時代、なぜか知に飢えていた」と書いており、そのようなモチベーションの延長で行われた対談なのだろうか。

80年代の対談あるあるだと思っているのだが、突然ヌルッと会話が始まり、方向性が示されず「知の放談」と言えるような会話が展開していく。
本書は大森に対して坂本が生徒的に接しているため、お互いが好きなことを話しているという感じではないんだけど。

大森荘蔵の哲学は、ピンとこない。
「まだ」きてない、というべきか。難しいと思う。理屈が難しいというか、納得するのが難しい。
ここであまり立ち入らないし、私にはその能力もないのだが、本書中では大森自身も、自分が考える哲学に「慣れようと」している様子がうかがえる。
どう考えても、そうとしか思えない……そう大森が語りつつ、どこか迷い、答えを探しているような状況。

大森が一方に坂本にものを言うのでなく、対話を編んで坂本が音楽的な側面から大森哲学に接近していく。

村上龍、坂本龍一『Ev.Cafe 超進化論』

村上と坂本が仲が良いとは知らなかった。

二人が毎回知識人を招き鼎談する企画本。
招待するのはいずれも80年代を代表する顔ぶれで、ちょっと面白いくらいだ。

古い本だし、80年代なので、いささかスカした(軽薄?)感じは否めないし、発言も現代基準で言えば差別的であったり短慮なものも認められる(この本に限った話ではないが)。

それでも、来る情報革命以降のテクノロジー時代に向け、坂本が音楽、村上が文筆における技術論を語るくだりなど、生成AIが勃興し混乱が生じている現在においてかなりアクチュアルに読めるのではないか。

しかし、現在においてこのような企画は可能だろうか。
可能だとして、誰が坂本と村上の立ち位置で、ゲストは誰になるだろうか?

アーティストが、いわゆる”知識人”と、ある程度のテンションを保って対談する。
今の時代、そのような試みはなされているのだろうか。

ローレンス・カトラーら『アートオブJ.C.ライエンデッカー』

ライエンデッカーという20世紀前半に活躍した画家がいる。
ノーマンロックウェルは彼の熱心なフォロワーだった。あのロックウェルが!

私は本書をアニメーターの松尾祐輔さんから教えてもらった。
恥ずかしながら、当時はライエンデッカーの名前も知らなかったのだが。

画集としても良書だが、ライエンデッカー本人についても紙幅を割いており、彼の弟やフォロワーであるロックウェルについても知ることができる。
やり手のロックウェルがライエンデッカーのフォロワーとしてキャリアを開始し、やがてライエンデッカーを上回る人気を米国で獲得していく様は、どこか物悲しく、イラストレーターの悲哀を感じる。

Xで検索していたら、LM7先生も同じような感想を昔投稿されていて、むべなるかなと思った。

マガジンハウス『WHAT'S NEXT? TOKYO CULTURE STORY』

BEAMS責任編集の一冊。
BEAMS40周年記念本であり、1976年から始めて本邦のファッションカルチャーを写真とともに振り返る一冊。

当時のアイテムを現代のモデルに着せて撮影した写真は、どこか着こなしも現代風で再解釈的だ。

まあ有りていに言えばグラフィカルなカルチャー史であり、文化批評ではなく記録本なのだが、実はこの手の本だと一冊目として最良ではないか?

もう少し踏み込みたい人は、日本服飾文化振興財団『ジャパンファッションクロニクルインサイトガイド』や、『ファッションインジャパン』が詳しい。

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