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私の風土記

 あ~あ、なんか最近刺激足りないなぁ…戦争が始まるニュースでも聞かされたいぜ。そんな風に思うことはありませんか?私はあります。私の生活は苦しく生きていけるという実感は薄いし、大好きな切り絵も飽きて来た頃合いに炭酸飲料を求めるように世界の不幸を気安く願ってしまう自分がいます。

 ハローハロー、皆さんご機嫌いかがですか。いくら戦争は良くない、日本は唯一の被爆国なのだから世界の平和を願う活動の先頭を切っていった方がいい、そんなことをどれだけ考えたところでこれらは美談のようにしか思えなくないですか?やがてくる不幸の中で決まっていることがあるならサッサとミサイルを打つなりなんなりしてくれ、こんなジリ貧の生活は嫌だ、私はそう思います。

 私自身は本当にちっせぇ人間で、両親の熟年離婚で腹の底から苦しみました。父の暴力的な言動、あるいは間接的ではあれど(私と母が作った切り絵をビリビリに引きちぎるなど)はらわたが煮えるような怒りを覚える行動の数々で本当に苦しみました。それでも続けてきた切り絵にも飽きてきた今、世界は一体全体どうなっちまったっていうんだろうと考えます。コロナ禍について思うことを今だから言えることを、書いてみます。このエッセイは100年後の未来への風土記です。市民の風刺を100年後の未来に向けて書くんだ、そういう意気込みで書いていますので読んでおられる皆々様、自分だったらこう書くな、こういう思いだったよな、というような視点で優しく見守ってもらえたらこれ幸いにございます。

 私自身、好きなアニメはAKIRAというぐらい、世の中終わっちまえというような心境になるのが好きです。そして、私の社会人としての生活はコロナ禍で一回終わりました。はい、無職になりました。コロナ禍の不幸っていろんなパターンの不幸を経験してきたと思っている私にとっても新鮮に野蛮な不幸でございました。
 スーパーに行けば列を間隔を詰めて並ばないように飛沫感染しないように印が足元に描いてある。マスクが配られたころには、マスクが足りない人は使い捨てマスクを消毒して2,3日に分けて使っている。マスクを着けずに電車に乗った男は降りろコールを浴びて電車から追い出される。あの生活は本当に苦しかった。人とすれ違うだけで悪いことをしているような気分にさえなった。最初は風邪の原因が一つ分かったぐらいの事だろうと甘く見ていたら全然終わらないコロナの感染率のニュース。ワクチンを打たないと保てない社会的人権。本当にひどかった…。私は双極性感情障害を患っていて、それでも障がい者枠から一般雇用になって頑張っていました。でも人と人とがコロナ禍の粛正に耐えている人、反対運動をする人、というように二項対立が深まっていたように思う。
 精神を大きく病んで、トイレットペーパーの買いだめさえしてたあの熱狂とも言えてしまいそうなコロナ不安はどこへ行ったんだろう。そう思うくらい、スーパーからはマスクをする人が減り、逆にマスクをつけていればなんの病気かな?と思えるぐらいに回復してきたように思う。でも人々の分断は進んだ。私の双極性感情障害はコロナ禍を過ごした職場にいては良くならないだろうと思うことが多かった。一体この先どうしたらいいんだろう、そう思うから、もう避けようのない大きな不幸を世界が私たちに与えるのなら、早めに痛みの少ないように社会からみんな平等に抹殺してくれ、そう思うことが多くなりました。

 私は曽野綾子さんのエッセイや遠藤周作さんのエッセイが好きで、特に遠藤周作さんのエッセイにはキリスト教的な二分立を捨てたい、とよく書いておられました。私個人の力で世界を変えることなんてできないというのは分かってはいるんだけど、下剋上をするべくインフルエンサーと熱弁をふるう論者が正しいのか、インフルエンサーが正しいのか、みたいな、そういう一本線を引いて綱引きをするような構図では社会は、世界は、悪くなる一方だと思う。かくいう私個人もどうしていいか分からないから世界が滅ぶような社会的な仕組みがもし私が知らないだけであるんであれば、サッサと爆破スイッチを押して楽にしてほしいと思ってしまう。苦し紛れに私が未来に希望を抱くであるのであれば一つの答えは宗教が気楽なものになること、です。
 海外に出たこともない私がこんなことを言うのは変かもしれないけれど、宗教があるから人間は強いと思いませんか?キリスト教を伝播すればそれに付随する政治的思想、コミュニティを共有して数の論理で強い人々の輪ができる。人々が集団を作って分業をして効率的に自然に立ち向かうから、人間から動物や植物たちは管理されても反抗してこないのでは?と思うこともあります。要するに人々の輪を作ることが宗教なんだと思う。信仰心が強ければ救われる、その信仰心が強いほど付随する政治的思想に洗脳と呼ばれるほど傾倒し、コミュニティへの忠誠が図れる側面があってキリスト教はきっと世界で一番流行っている。仏教にもいいところはあるけれどキリスト教徒からすればただの精神論。そんな風に、あの宗教はこの宗教と仲が悪い、あの宗教とこの宗教の教徒は交流を図らない、そんな風に分断の素も宗教にある気がしています。
 そこで、私が拙いながら作ったのが、この手に十字架をもっている仏像です。キリスト教徒からも仏教徒からも嫌われる、疎まれると思う。でも、仏陀でさえ登場以来何千年とたつ今、宗教同士が相成れない思想だったとしても、信じている我ら信徒というか一市民にとっては、そろそろ十字架で救われてみてもいいんじゃないかな?とか、キリスト教徒にしてみたらヨガで釈迦の境地を垣間見て楽しむ、とか、そんな風に気楽に宗教を考えられる世界がやってくれば、私たちはもっと楽になれるんじゃないかな?
 本当に悪い政治家は誰だ?みたいなそういう犯人探しとか、世界の不幸を真に予知できる人を見つけて信じることとか、そういうところを私たちはついつい目指したくなる。だって、刺激的だから。
 でも、大切なことはそこじゃないと私は思う。二項対立の隙間で消えていきそうな、私で言えば切り絵を続けたい気持ちとか、社会人に戻ったら職場のルールで苦しくなるだろうっていう不安な気持ちとかを抱え込みながらでもコレだけは譲れないっていう考えを持つことだとか、コロナ禍で考えが随分と離れてしまった家族と震災起きたらどう備えるみたいな深い話題を共有することとか、究極がキリスト教徒もイスラム教徒もヒンドゥー教徒も神道にハマってる人も別にいいと思うよう。なんなら仏が十字架持つぐらいのことがあってもいいと思う、みたいなそのくらいのゆるく、でも確かに相手を認められる寛容さというか無知であることを無知だとはっきりと認められる「無知の知」みたいな知性がこれからの時代では大切なんじゃないかと思っています。
 風の時代なんて言葉もあって、スピリチュアルにハマって現実が見れなくなっちゃったり、マインドセットを変えれば収入が上がるみたいな臭いものにはフタ的思想が一刻も早く薄らいでいけばいいなぁと思っています。100年後、私たちの子どもたちが、どうか私のように世界の不幸を簡単に願っちゃうような心の貧しい人にならないように切に願いながら、甘いものが飲みたくなってきたので冷蔵庫の炭酸ジュースを飲みたいのでこのエッセイを締めたいと思います。
 100年後には幸せであれ日本。というか、日本って100年後もあるのかな…。

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