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ひとりだって七草粥はつくるよ

さっきまでサバを絞めていたせいで、折角お風呂に入ったのに両手に心なしか米酢の匂いが残ってる気がする。にんにく切った後も、どんなに手を入念に洗っても似たような感覚に襲われるのだけど、これって皆そうなんだろうか。

とりあえず、2020年を振り返る代わりに今日noteを書こうと決めていたので、ちょっと寒いリビングで気にせずにパソコンをパチパチしていく。

七草粥、たべます?


今日、そう。1月7日。七草粥の日。
だけど、ネットニュースとかスーパーの流れてくる音声に対して、実際に七草粥を作って食べてる人って少ないんじゃないかと思う。
事実、わたしも東京の実家にいた頃は、お正月料理はおせちとお雑煮までで、七草粥を恒例で食べていた記憶というのは殆どといって良いほど無いし、食べたいと思ったこともなかった。
(このnote、もしコッソリ母親に読まれていたら「いやアンタが覚えてないだけで作ったわよ」と怒られることがあるかもしれない)

でも、2年前のお正月から、七草粥はわたしの体の中で「お正月に食べるもの」として認識されるようになった
その理由は、七草粥が去年まで住んでいたシェアハウスでは当然のお正月料理として当たり前のように認識されて作られていて、毎年開催する餅つき大会の話し合いのお供だったからに他ならない。
実家でなかったわけじゃないけれど、現代の東京では珍しいほどに季節の行事を大事に楽しむシェアハウスの空気がわたしはとても好きだった。

毎日つくる、がつづく理由

そんなわけで、きょねん、おととし、お正月、クリスマス、誕生日…懐かしいなあ、と少しずつ忘れているようで色褪せない記憶を辿りながら、今日は朝から七草粥を煮ていた。
蛍光灯を付ける必要もない朝の光の中で、次第に水分が減って泡を吹き始める白い粒を見つめていると、今日の予定とか仕事のこととか、細かいタスクみたいなもの達が頭から抜けていく。
驚くほどに完全に習慣化した毎日の自炊は、わたしにとって必要不可欠な時間になっていたことに気付かされる。
(この3ヶ月、忙しい時期でも一度たりとも一人のときに買い食だけで済ませた食事がなかったのは、一日坊主女の自分にとっては快挙と言っていい。。。)


豆腐、めんどくさいからパックから直接食べちゃおうかな、いやでも、やっぱり小皿に盛ろ。
ハヤシライス食べたいけど、一人分は勿体ないな…あ、こんど人集まる機会あるときに作って持ってこ。
頂いたさつまいもあったな…どうしよ、もうすぐお正月かあ、きんとんでも作るか。


毎日毎日、こんなことを思うときに思い出すのは、こっちに来る直前に突然亡くなった、お兄ちゃんのような、お父さんのような人だ。

本当にいつもいつも、皆にとんでもなく美味しいご飯を作るのに、誰かが作ったご飯をとても喜んで食べる人。
適当な食事をしてたりロクに食べてなかったりすると、「ちゃんと飯は食え」って言って好きなものを作ってくれる人。
どんなに大人数のごはんの場になっても、一人ひとりの好き嫌いを考えてメニューを決める人。

七草粥の話からきちゃったせいで、ごはんネタの羅列になっちゃったけど、とにかく、私にとっては「もう一つの家族」を与えてくれた人で、臆病なくせに頑固な私の背中を、誰よりも押してくれる人だった。
それなのに、バイトで夕飯を食いっぱぐれて一人遅れて映画会に来たわたしに、サッと作ってくれたカレー蕎麦が最後のご飯になるなんて、考えもしなかった。

ちゃんと、食うよ

結局、出発日ギリギリ、初七日法要も準備から携わって出席できたことは本当に良かったのだけれど、慌ててこっちに来て実質の一人暮らしを始めると、かえってその反動が来てしまった。
仕事がある昼間は良い。だけれど、夜になると、朝起きると、全く実感なんて無いのに、ただ忘れられない出来事として思い出して、苦しくなる。
混乱とか、戸惑いとか、共有できるものでもないけれど、ほんの僅かでも共有し得る相手が物理的には近くに誰もいない状況に一気になるのは、結構キツい。

でも、わたしよりも遥かにその人といた時間が長い人たちが、前向きに動いている姿を東京で見てからこっちに来たのと、何よりも「とりあえずちゃんと食え」って声が聞こえる気がして、とりあえず簡単にでも良いから自分でごはんを作る時間を一日の中で必ず作るようにしていった。
そうしたら、だんだん、少しずつ、体そのものは元気になっていくのを感じるようになったから、自炊を始めたことは多分間違っていなかったんだと思う。

そうやって毎日作っている間は、体調管理のためとか、節約のためとか思って作っていたけれど、今思うと、それはサブの理由たちだ。
たぶん、自炊が続いているほんとうの理由は、
わたしにとって、「ごはんを作って、いただきますと口にして、ごちそうさまと手を合わせる」時間は、本当に大事にしたいことを思い出す時間で、

どんなに簡単でも、少しでも、毎日自分の手で食事を作る時間は、いつも0か100かで考えてパンクして嫌になって、投げ出してしまいそうになる自分を、グッと制して「大丈夫」と落ち着かせる時間だからだ。

その、「大丈夫」は間違いなく、いつ帰っても、"おかえり!"って言ってくれる大好きな人達がいることも、その人達がわたしの背中を押してくれる人たちだってことも、身をもって知っているところから来ている。

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こっちに来てから、スーパーで見たこと無い魚とか野菜とかを使って料理するようになったり、割と基本のことが出来るようになったり、ちょっとだけれど確実に腕は上がったのに、一番食べてほしい人たち筆頭の一人がいないのは、やっぱりまだ全然消化できない。
正直意味がわからないし、実感も無い。
なんでいないの、が止まる日はまだ来てない。

だけど、「これからどんな大人になるか、マジで楽しみだよなあ」って、本当に楽しそうに言った声も、
「お前のnote、結構楽しみにしてるから、もっと書けよ」と初めて人に言われたことも、
「なんでだよ、とりあえずやれよ」と足踏みするわたしの背中をいつも押してくれたことも、

絶対忘れない。…な〜〜んて、バカみたいにこんなところで宣言しなくたって、既に身体には染み付いているのだ。
だから、まず、ちゃんと毎日飯は食いながら、後ずさりそうな足をグッと踏みしめながら、どんな風になるかはわからないけど、大人になっていけるんだと思います。たぶん。



バーっと書いてしまったせいで、サバは絞めたのにこの文章の締め方がわからなくなってしまったのだけれど、とりあえず、来年も、どこに住んでたとしても、七草粥はつくるよ、ということだけ書いておきます。ではでは。

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