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写真と自愛

僕の体感だと「写真を撮られるのが苦手」というひとは、とても多い。「きれいに撮れる」ことに大きな価値が生まれ、スマートフォンでさえも一級の撮影機材となったいま、誰もが手軽に鮮明な写真を撮れるからこそ、写真に撮られたくないという心情が高まることも事実だと思う。僕にしたって、できれば高性能なカメラでは撮られるのは避けたいと思ってしまう。それほど価値があるとも思えない、じぶんの姿をまざまざと見ることへの抵抗があるからだ。容姿への恐怖というのは動かし難くそこにあり、どんなに親しいひとがそれを肯定してくれても、自分がそれを実感できないのなら、じぶんを見たくないという気持ちが勝ってしまう。それが率直な気持ちだけど、たとえば写真家の友人が撮ってくれたじぶんのことは、そんなに悪くないように思えた。その経験が、僕が僕として誰かを撮るときの、大きな指針になっている。心をゆるしたひとが心を込めて撮ってくれた写真には愛が写っていると思う。それは「あなたは素敵なんだ」という言葉を写真に変えて差し出してくれるような行いだ。顔をしかめて必死にファインダーを覗き、どこかにいい瞬間がないかと精神を集中する、その様子に僕は救われ、そこまでして撮ってくれたのなら、どんなじぶんでもひとまず見てみようと思う。そして見たとき、なるほどなるほどと思う。相変わらず気の抜けた顔をしているけれど、まあいっか。じぶんを好きになったなんてことはやっぱり言えないけど、ここに写っているこのひとのことを、応援してやってもいいかなと思えたこと、忘れないようにしよう。

気づけば、それが写真を通して感じる「自愛」の感情ではないかと思う。じぶんのことを美しくて好きと思えることは、とてもよいことだと思うけれど、僕はそれはじぶんに向けるにはおこがましいと感じていて、でも、信頼しているひとが撮ってくれた写真を見たとき、「なんか冴えないけど、がんばって生きてるじゃん」と思えることが、写真によって生み出すことのできる、ひとつの祝福なんだろうと思う。僕が誰かを撮るときの気持ちは、そのひとの生に対する祝福だ。しかし写真は、撮った瞬間から過去に変わっていく。だから行為そのものは、弔いと言ったほうがいいかもしれない。シャッターを切るたびに、カメラのまえに立ってくれたひとを祝福し、同時に弔っていく。人の「生」はすべての瞬間が祝福であり、弔いでもある。命が尽きたときも、それは変わらない。それなら「今」を撮ることになんの恐れもないだろうと思ったりもする。

だから僕は、ひとを撮ることを続けている。写ることに恐れを抱いているひとが、それでも一縷の望みを託すように、恐れを抑えて、勇気を出して、僕に声をかけてくれる。そのとき、僕は生きて得てきたすべての力を使って、写真によって愛を伝えたい。じぶんを見つめることは怖いことだ。それを知っているからこそ、いま生きていることを肯定できないままでも、否定しなくてもいいかと思えるくらいの気持ちになるように、写真という魔法を使いたい。それは、そもそもは僕がじぶんのためにすることだ。それを実現できたことが、僕の生きる意味になるからだ。でも、僕がじぶんのためにしたことが、撮らせていただいたひとのためにもなるのなら、これほどしあわせなことはないと思う。そんなことはきれいごとで、幻想だと思うだろうか。でも僕はこれを1年間続けて生計を立ててきた。これからどこまで続けられるかわからないけれど、生がある限り、この営みを続けていきたいと思う。

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