藝大美術館「大吉原展」を観た

 

 東京都美術館で「デ・キリコ展」を観た後、まだ3時前だったのでもう一軒はしごをしようかと思い、トーハク常設展示、西洋美術館の企画展か常設展示、そして藝大美術館の「大吉原展」と四択、西洋美術館の企画展は5月12日までだが、一度観ているのと情報量も多くてとても2時間程度では難しいと思い、「大吉原展」は5月19日までということでチョイス。結果としてこれは間違い。
 「大吉原展」、これも情報が多過ぎた。とにかくキャプションというかテキストや展示物(模型)などを中心に読んだり見ていくだけでもかなりの時間を要する。そしてウィークデイの午後割と遅めなのに、凄い人なのである。おまけにどなたかVIPが視察されている。その後ろをお付きの黒服がゾロゾロと。高めのスーツを着たおジイサンが学芸員の説明を受けているのだが、どこかで見た顔である。あとで正門前のガードマンに聞いたところ、大臣だという。藝大だし、おそらく文科相。あの宗教団体の会合に出席したことも、協定書にサインしたことも記憶をなくされた方。そういう人は美術館で説明受けても多分覚えてないんじゃないかと、まあこれは余談。
 とにかくメチャ混みなうえにテキストが多くて、浮世絵作品が頭に入ってこない。そして2時間弱では全部無理ということで、途中から流すようにした。
 吉原という幕府公認の遊郭街とその歴史、様々なしきたり、そして吉原を中心に華開いたとされる様々な江戸文化、蔦屋重三郎と戯作文化や浮世絵版画などの関連をアバウトに把握することでほぼほぼ終了。正直、混んでるのと、テキストや再現された吉原の模型、街路の構成などをなんとなく頭にいれていると、絵の鑑賞なんてできない。
 仕方がないので分厚い図録を買いました。テキストもきちんと読み返す必要あるだろうし、なにより図録ということで展示作品をきちんと見たいとも思ったり。でも多分展示作品は前期、後期と半々みたいなので、なんとなくこれは観ていないな、これ観たな、多分みたいな感じだったか。実際デカイ。A4判変形(297×227mm)、約350ページで3500円もした(シクシク)。

『大吉原展』図録

 この企画展はなんていうのだろう、どっちかにすべきだったのではないかと思った。吉原という街と遊郭産業としての部分、文化としての浮世絵、戯作、狂歌や川柳、そして出版文化との兼ね合い、これをメインにするのであれば、浮世絵作品は最小限にしても良かったのでは。そして浮世絵をメインにするのであれば、吉原の全貌という部分に踏み込むのはどうだったのか。
 もとより当初の宣伝では「大吉原展 江戸アメイヂング」と吉原の遊興文化を謳歌するようなキャッチだった。それがSNSで炎上し、宣伝方法を修正した。当初は明らかに江戸文化を吉原という売春街をあたかも一大エンターテイメント施設、あるいはテーマパークのような形でみせることを意図していたのではないかと。実際、3階の展示室はあたかも吉原の繁華街を再現するような構成になっている。おまけに監視員の女性たちはハッピを着てたりとか。
 これはまあなんていうか、当初炎上したようにフェミニストだけでなくても、売春を強いられた女性たち、おまけにその多くは借金のかたに売られてきた女性たちであるという視点が抜け落ちているということなのだろうか。
 そこで主催者側も企画展の学術顧問、江戸文化史の権威でもある田中優子によるステーツメントを発表したという。なにか人づてに聞くと、このステーツメントが当初は入口に掲示なりされていて読むことができていたらしいが、少なくとも自分が行ったときにはそれがなかった。ひょっとして大臣視察との関連もあるのかしらと、ちょっとうがった見方も。ちょっと長いが全文を引用する。

大吉原展」開催にあたって:吉原と女性の人権 田中優子(本展学術顧問)
本日から開催する「大吉原展」は、吉原を正面からテーマにした展覧会としては初めてなのではないかと思います。もちろん、本日ご覧いただく喜多川歌麿の浮世絵などは、浮世絵展として展示されたことはありますが、それを吉原というテーマのもとに、遊女の姿や着物、工芸品、吉原という町、そこで展開される年中行事、日々の暮らし、座敷のしつらいなどを含めて、一つの展覧会に集めたことは、今までありませんでした。
 なぜかというと、吉原の経済基盤は売春だったからです。吉原を支えた遊女たちは、家族のためにやむを得ずおこなった借金の返済のために働いていたわけで、返済が終わらない限り、吉原を出ることはできませんでした。そのことを忘れるわけにはいきません。これは明確な人権侵害です。ですから、吉原をはじめとする「遊廓」という組織は、二度と出現してはならない場所です。
 江戸時代に「人権」思想はありませんでした。そして明治以降、解放令が出されたにも関わらず遊際は1958年に売春防止法が実施されるまで存続しました。その後も現在に至るまで、日本社会に売買春が存在する理由の一つは、吉原をはじめとする各地の遊廓が長い間存在し続け、それが、「女性」についての固定観念を作ったからだ、と認識しています。
 この展覧会では、吉原の町を満たす人々の声や音曲や唄が聞こえてきそうな賑わいを、絵から感じ取って欲しいと思います。一貫して丁寧に描き込まれているのは着物です。遊女たちは決してその身体を描かれるのではなく、むしろまとっている文化に絵師たちは注目しています。当時の人々が遊女たちの毅然とした品格に対して、ある種の敬意を持っていたことも、感じとって欲しいと思います。
 また、遊廓は書や和歌俳諧、諸道具、舞踊や音曲や生け花などの集積地でもありました。多くの文化人が集い、膨大な絵画や浮世絵、文学、各種の書籍などを生み出す場となりました。「吉原芸者」という一流の芸人たちも育ちました。遊女と芸者は正月、花見、灯籠が並ぶお盆、音曲と踊りがひと月の間毎日披露される祭などの年中行事を実施していました。吉原は日本文化の集積地だったのです。そこを拠点に、さらに狂歌や戯作など多くの文学が生まれ、出版されました。江戸時代の出版文化を支えた一つの拠点になったのです。
 遊廓を考えるにあたっては、このような日本文化の集積地、発信地としての性格と、それが売春を基盤としていたという事実の、その両方を同時に理解しなければならない、と思っています。そのどちらか一方の理由によって、もう一方の事実が覆い隠されてはならない、と思います。本展覧会は、その両方を直視するための展覧会です。
 ところで、この4月からは「女性支援法」が施行されます。これは、売春女性を「更生させる」という従来の考え方から、女性たちを保護するという「福祉」へ、制度の目的を変える法改正です。しかし女性が人権を獲得するには、それだけでは足りません。女性だけが罪を問われることは、一方的すぎます。北欧やフランスでは、「買春行為」をも処罰の対象とする法律が制定されています。日本もまたその成立を目指すべきだと思っています。
 私はこの展覧会をきっかけに、そのような今後の、女性の人権獲得のための法律制定にも、皆様に大いに関心を持っていただきたいと思っています。

「大吉原展」(東京藝術大学大学美術館)開幕レポート。吉原で育まれてきた文化を通じて、遊女たちの生き方や置かれた環境に目を向ける|美術手帖

 このステーツメントで、今回の企画展がとりあえず売春とそれを強いられた女性たちへの人権侵害をけっして肯定するものではないということを明確化させたということなのだろう。でも展示コンセプトはやはり江戸の遊興文化の華、その情報発信基地としての吉原を明らかに肯定的に扱っている。
 もっとも田中優子が言うように、当時「人権思想」はなかったのである。そして吉原という江戸遊郭は歴史的な事実でもある。それを今の基準、モラルに基づいて批判し、否定するのはどうかというような声があるかもしれない。これはよく喧伝されるものだろう。でも、やはり人権侵害は人権侵害であり、女性を賤業に追いやり続けたのも歴史的事実なのである。それを文化と称して肯定的に扱うことはどうか。 
アニメと実写を融合したディズニー映画『南部の歌』は、少なくともディズニー社によって封印され観ることができない。1930年代に流行した白人が顔を黒塗りして面白おかしく踊ったり、歌ったりするミンストレル・ショーが現在テレビや舞台で演じられることはあり得ない。それはアメリカの悪しきポリコレのまん延であり、歴史の否定なのかというと、多分違うだろう。
 なんにしろ女性に売春を強いた遊郭という産業、それを肯定的にとらえる視点は絶対に否定されなくてはならない。なんならこの国は明治の近代化にあっても廃娼運動が起きても、名前を変えて存続し続けた。公設が私設に変わっただけのことだ。戦争中は軍の公設慰安施設(業者が代行したという名目で)もあった。
 そして現在でも性風俗産業は普通に存在する。吉原というかっての遊郭が栄えた街は、戦後も風俗産業のメッカであり続けている。我々は吉原といえば、トルコ、あるいはソープという入浴施設という名の遊郭があることを知っている。例えばネットで、「吉原 ソープ」と検索すれば、店舗の一覧が簡単に検索される。そこで働く女性たちが、みんな自由意志で務め、大金を稼いでいるのかどうか。たいていの場合は他にする仕事に恵まれないとか、多額の借金を背負ったため、やむなく売春を業としているのではないのか。
 そうした連綿と続く性風俗産業への視点もなく、江戸時代には「人権思想」がなかったからという理由で、吉原という遊郭街にフォーカスするのはどうか。実はそんなことを考えながらこの企画展を流し見することになった。
 しょせんは藝大美術館である。芸術バカによるお目出たい企画なのかもしれない。一方で同じ上野の西洋美術館で開かれている「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?——国立西洋美術館65年目の自問|現代美術家たちへの問いかけ」では、内覧会において出品作家たちが、イスラエルのガザで行っている虐殺行為への抗議を具現化させた。そして西洋美術館のスポンサーであり、また西洋美術館の元になった松方コレクションの松方幸次郎が経営をしていた川崎造船所を母体とした川崎重工業が、イスラエルの軍事ドローンの輸入代理店をしていることにも抗議を行った。
 現代の最先端をいく芸術家たちの問題意識と、藝大のお気楽な江戸文化賛歌のギャップ。芸術の社会性、歴史意識ということについてのもう一度考えなくてはいけないのかもしれないと、そんな小理屈的なことをずっと考えさせられてしまった。
 一つの解題は、今の展示内容のままで、さらにもう一章をもうけて当時の遊女たちの生活のリアル、その後の人生のありよう、病気と死について、そういう負の部分、裏の部分についての展示コーナーを設けるべきだったのではないだろうか。江戸遊郭文化の表裏、あるいは光と影、そういう部分が必要だったのではないかと思ったりもした。

以下、気になった部分及び遊女の基礎知識

妓楼で働く人々 『図録』P129より

  • 妓楼主(忘八)・・・・・・見世(妓楼)の経営者。経営のため非常な行動や仕置きなど遊女への冷酷な行いもした。文雅に通じる者もいた。その妻とともに妓楼の1階の帳場にいて、その場所を内証と呼んだ。

  • 遣り手・・・・・・・・・・・・・・客を取らずに遊女や禿の世話をする女性。年季の明けた遊女が務めた。遊女の躾から取り締まりまで一切をまかされていた。脱楼(遊郭を逃げる)が発覚した場合は遊女に折檻などを加えた。

  • 見世で働く男たち・・・・年齢にかかわらず若い者と呼ばれ、若衆、喜助、楼丁などともいった。職種によって番頭、妓夫、行灯の油をさす不寝番(ねずばん)、風呂番、不払いの客についていき遊興費を取り立てる付け馬などがあった。

  • その他・・・・・・・・・・・・・・・女芸者、男芸者(幇間太鼓持ち)、喜の字屋(仕出しの食事を運ぶ者)、髪結い、住み込みの御針(衣装を整える)など。

吉原遊女の身の上(境遇) 『図録』P63より

  • おおよそで3千人いた吉原遊女たちは自由意志で働いていたのではない。吉原の経営は女衒による人身売買や前借金の縛りの上に成立していた。

  • 遊興経営者たちは家屋敷と同じく遊女を担保にして資金調達した。

  • 幕府による買売春の統制のため、多額の上納金に対する見返りとして、吉原での遊女の身売りは黙認されていた。

  • 幼い年齢で売られてきたり、吉原内で生まれた女子は、禿(かむろ)として花魁・遊女の世話をしながら成長し、将来を見込まれた者は読み書きや芸事を仕込まれ、才能に秀でた者は新造出しというお披露目を行い高級遊女となっていった。

  • 遊女の通常の年季は27歳までとされ、見請されれば吉原を離れるが、見請されず、親元に帰れない事情を抱えていれば、そのまま遊女としてとどまり、下級の切見世で働くことが多かった。

  • 切見世は吉原内の東西の外れにあった長屋で働く下級遊女で、過酷な労働を強いられたが浮世絵などに描かれることは少なかった。

  • 遊女が病気になった場合は、廓外の寮に移されたり、親元に返されたりした。亡くなっても親元に引き取られることなく、多くは近くの寺に埋葬された。

吉原の一日

『図録』P191より

 図表にすると下記のような感じであり、遊女の一日はかなりシビアかつハードである。泊まり客がいればその相手をしなければならない(セックスワーキング)。おまけに相手は一人だけとは限らず、何人もの相手をすることもある。朝4時過ぎには客を帰すことになるので、朝6時過ぎから10時までが就寝時間である。そして昼の営業に出ることになれば、14時から客を取らなくてはならない。

                     「遊女の一日」

切見世

 吉原の周囲をめぐる板塀-通称お歯黒溝(おはぐろどぶ)に面した河岸と呼ばれる路地には、下級の長屋見世が軒を連ねていた。こうした河岸見世のなかで最下級とされていたのが切見世であり、局見世、銭見世、鉄砲見世、長屋見世と呼ばれた。この鉄砲見世という呼び名は、病気持ちの遊女が多かったため、河豚の毒に例えられたともいわれている。
 棟割り長屋を仕切った狭い部屋には一人ずつ遊女がおり、遊女が自ら戸口で客引きをし、客がいる時は戸を閉めて錠を落とした。揚代は時間制で一切五十文から百文を相場とし、線香をともして時間を計り滞在時間の長さによって金額が加算されていく仕組みだったが、一切(五十文)ですむことはなく、たいていは数倍がかかった。
 室内の様子は襖で仕切られた長屋の各部屋は表間口が約1.4メートルで入口は約60センチ。土間をあがるとわずか二畳ほどの広さに布団が敷いてあるだけの粗末な部屋で、調度は小さな鏡台と煙草盆がある程度。遊女はこの部屋で暮らし、客の訪れを待ったという。
 切見世で働く遊女は、もとは大きな見世で働いていたが、病気などで客がつかなくなったり、不品行で追い出されたり、年季が明けたがほかには行くあてのない者、岡場所(吉原以外の私娼窟)で客をとり摘発されて吉原に送られてきた私娼など。年齢層も三十代が中心で、五十代の遊女もいた。
 切見世に入る時の身代金は10両から15両程度、年季は3年から5年と短期で、衣食は抱え主が持ち、歩合制で抱え主に稼ぎの何割かを納める契約だった。ここで働く遊女は低価格の揚代と歩合制により、強引に客を呼び込んだり、一晩に何人も相手をし、この狭い空間で稼ぎ続けなくてはならなかった。

『図録』P134より

 結局、我々が華やかな花魁ショーだの、浮世絵によって見る遊女はというと、それは高級遊女たちのことであり、遊女=売春婦のリアルではないということだ。本展覧会でも紹介される蔦屋重三郎による出版ネットワークなるものも、一つは吉原のガイドブック、どの見世にどんな花魁がいるかということを紹介するものである。そして多色刷りの浮世絵版画に描かれる遊女たちは、今でいえばグラビア雑誌に相当する。そうかっての高級遊女たちは今でいうアイドルであり、美人スターのような存在だった。
 金があれば売れっ子のアイドルや美人スターに会うこともできる。もっと金を積めば彼女たちを酒席で侍らせ、夜を供にすることもできる。そういうシステムだったのだろう。
 今でも会いに行けるアイドルがある。アイドルが金を積めば寝てくれるかどうかは知らないが、地下アイドルにはそういうシステムもあるという話もチラホラある。そういうものではなくても、例えば飲み屋に通い詰めてホステスをどうにかする、そういうのは連綿と続いている。昭和の時代でいえば、その頂点は銀座の高級クラブだったりした。
 おおきく括れば性風俗である。しかしその前提として売春行為、身を売る、金でセックスの相手をする、女性が男性の欲望のはけ口となる。それは望んですることなのか。吉原の遊女のほとんどが人身売買や借金によって身を売っていたのだ。進んで金が儲かるからといってセックスワーカーになったのではないということ。
 話は戻る、今の基準、モラルで歴史を断罪することは慎重でなくてはいけないかもしれない。でも現代であれ、過去であれ、女性(もちろん男性の場合もある)が金のためにセックスワーカーとなるのは明らかに人権侵害なのだとは思う。セックスが好きだから、不特定多数の相手をして金を稼ぐ。そういう例外もあるかもしれない。でも他にきちんと金を稼ぐ仕事があれば、すすんで不特定多数の相手をすることはないと自分は思っている。
 華やかな江戸文化、そのある種の具現化された祝祭的空間が吉原という遊郭であり、そこで働く美しい遊女たちのきらびやかな生活、そんな表層部分はたぶん切見世長屋で二畳という狭い生活空間で、寝食と客をとるセックスワーキングを行う。それが延々と休みなく続くというリアル。そういうものにきちんと目を向けるべきだろうし、美しい浮世絵を見ていても、その実相をけっして忘れてはいけないのかもしれない。
 「大吉原展」、再現される江戸文化の表層の中で、ずっと考えていたのは多分そんなことだったかもしれない。浮世絵に描かれる遊女たちを観ても、これからはちょっと見方を変えることになるかもしれない。そういうことの契機になるという意味でいえば、自分にとって「大吉原展」は意味があることだったかもしれない。
 最後にもう一度思う。この企画展には別章が必要だった。そう遊女たちのリアリズムの日々である。それはハードにしてシビアな生活だったということだ。来る日も来る日も上に男たちがのしかかり、欲望の処理をさせられるというリアル。病気になるリスク、多分今では想像もできないような劣悪な衛生環境もあっただろう。それを想起させ、見せる一章が必要だった

 《青楼十二時 続き 巳の刻》 喜多川歌麿 1794年頃 大英博物館

 巳の刻(午前10時)、6時頃客を見送った遊女たちはひと眠りして起き出し、まず入浴をする。中見世以上のの妓楼には内湯があったという。入浴は居続けの客に続いて高位の遊女から順番に入ったという。花魁は入浴中に髪型が崩れぬように鬢の生え際をしばっていたという。そして吉原での髪洗いの日は毎月27日と決められていたので、普段は櫛で梳いて汚れを落として髪型を整えていたという。
 今とは感覚が違うのだろうが、髪洗いは月に一度という。あのセットされた髪は鬢付け油を用いているだろう。多分、遊女のいる周囲はそういう匂いで充満していたのだろうか。ちょっと気になるところだったり。

そして浮世絵のあのキャラ絵とは異なる遊女たちのリアル

《格子ごしに並ぶ遊女(幻燈原板)》 明治時代 東京都江戸東京博物館
《写真絵葉書 新吉原遊女の一日 引付(其の二)》 1907~1918年頃            台東区立下町風俗資料館
《写真絵葉書 新吉原花魁道中 稲本楼(小紫)》 1914年 台東区立下町風俗資料館
《写真絵葉書 新吉原花魁道中 角海老楼(白縫)》 1914年 台東区立下町風俗資料館
《花魁》 高橋由一 1872年 東京藝術大学 

 近い将来、浮世絵美人画が必ず当時、人身売買によってセックスワーキングを強いられた女性たちであるというキャプションが必要になるのだろうか。そうなると西洋画でもハーレムを描いたアングルやドラクロワの作品、ロートレックやマネ、ルノワールの作品などもある。そもそも貴族の公妾がフランス文化の華サロンを牽引したなんてこともあるし、ややこしい。
 でも、現代のポリコレによって芸術作品の鑑賞にも従来とは異なる見方を提示されることになるとしても、それはそれで社会の変化でもあり受容していくべきなのではないかと思ったりもする。

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