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私とラジオのおつきあい 第4回

連載みたいになってきた「私とラジオのおつきあい」。
第4回の今回は、1981年に私がアメリカ生活を終えて日本に戻ってきてからのラジオ生活について書こうと思う。

久し振りの日本

私が日本に戻ってきたのは1981年、中学3年のときであった。2年前まで住んでいたところに戻ってきた形になったので、転校した学校には小学時代の友達も多く、一般的な転校生よりはいろんな意味で恵まれていたと思う。
とは言え、みんな少しだけ大人になり、また高校受験を半年先に控えていたこともあり、昔のように毎日のように遊ぶということは難しかった。

一方で帰国直後のラジオ生活はというと、アメリカで浴びるほど聴いた音楽をずっと聴ける放送局がなく、FEN (現・AFN) のチャーリー・ツナの番組を聴いたり、American Top 40やAmerican Country Countdownと言ったヒットチャート番組を聴くことが多かった。超有名だったウルフマン・ジャックも夜に放送されていたが、ちょうど食事時間かなにかでほとんど聴いたことはなかった。そう言えば、ソウル・ミュージックのヒットチャート番組もやっていたな。おかげでこの時期にヒットした曲はジャンルに関係なくかなり覚えることが出来た。

ちょっと話がずれそうになったので元に戻す。
日本に戻ってきたは良いものの、アメリカの文化から抜けきることはできなかったということなのだろう。
という軽いアメリカかぶれ状態だった私だが、いつまでもそんなはずがないことはお分かりだろう。中学3年生になっていた私は、いつしか若者向け夜の帯ワイド番組を聴くようになっていた。そう、4-5年前はTBSラジオで「夜はともだち」、ニッポン放送では「大入りダイヤルまだ宵の口」が放送されていた、あの枠である。
この2つの番組とも、まだ放送はされていたものの、明らかに昔の勢いがなかった。そこで私が聴き始めたのは、小学生の時には聴いていなかった文化放送。「吉田照美のてるてるワイド」であった。
この番組は1980年にスタートして、聴取率でも「夜とも」「宵の口」に追いつき追い越していった番組。当時まだ20〜30代と若かった吉田照美のハイトーンで攻めまくるトークが、昔の小島一慶を彷彿とさせ気に入ったのだ。番組もゲリラ的な企画をやったりと、かなり自由なことをやっていたと記憶している。

そして、コサラビ…

1982年9月だったと思うが、とうとうTBSラジオの「夜はともだち」が放送終了。後番組は「るんるんナイト」という番組で、松宮一彦がメインパーソナリティとなる放送となった。当時は相変わらず「てるてるワイド」を聴いていた私だが、とある木曜日にTBSラジオに浮気してみたところ、なんか大騒ぎしている番組に出くわした。これがコサラビ(小堺一機、ラビット関根)の「るんるんナイトコサラビワオ!」であった。
「るんるんナイト」は松宮一彦の番組だったのだが、毎週木曜日はこの時間帯にTBSテレビの超人気番組「ザ・ベストテン」が放送されており、松宮一彦は「追っかけマン」として出演することになったため、木曜日はコサラビの2人が放送することになったのだ。(この経緯は後日知った)

もうとにかく意味のないハガキ投稿。なのにめっちゃ面白い。私はコサラビの好き放題な放送に夢中になり、以降コサラビ(のちにラビット関根が本名の関根勤に芸名を変えたため「コサキン」)の番組を1993年まで毎週聴き続けることになり、令和に入っても年1回程度放送されるコサキンの特別番組も欠かさず聴いている。
この頃は高校にも入学し、別のクラスの同級生のなかにもコサキンファンがいたので、毎日のようにコサキンネタで盛り上がっていた。

コサキンの話は、また別の機会にゆっくり書きたいと思うが、この番組で「リカちゃんトリオの歌」とか、舟木一夫の「太陽にヤァ!」とかバーブ佐竹の「青いゴムゾーリ」と言った、多くの「コサキンソング」を知ることが出来たのは、私の音楽の幅を広げる大きな要素となっている。

1982-1984年ころの深夜番組

高校生ともなれば、いよいよ深夜番組を聴くお年頃となる。
とは言え、私はあまり深夜番組は聴いていなかったのである。聴いていたのは水曜日のタモリと土曜日の笑福亭鶴光のオールナイトニッポンくらいであった。ただ、週1日、24時から25時の間はTBSラジオでコサキンが「日産ミッドナイトステーション ザ・欽グルスショー」をやっていたので、これは必ず聴いていた。
笑福亭鶴光のオールナイトニッポンは、ご存知の通りほぼ下ネタだったわけで、高校生だった私はドキドキしたものだが、朝5時までずっと聴いてみると、最後の30分くらいは失恋して悲しいとか、そういったハガキを読む時間があり、雰囲気のある音楽を流したりしていたことを思い出す。ちょうどその時間帯は太陽が顔を見せ始めたりもしていたので、夜明けの時間帯に下ネタトークは似合わなかったからかも知れない。
まあ、この番組については、おそらく多くの人がブログなどで思い出を語っているだろうから、ここではこれ以上詳しいことは書かないことにする。

(なお、この頃、毎週火曜日の25~27時に所ジョージのオールナイトニッポンを欠かさず聴いていた記憶があったのだが、Wikipediaを見ると、所ジョージが第1部を担当していたのは1981年10月から1982年3月までの半年だけだった。中学3年生のときだったのか!と驚いた次第。)

禁断のあの伝説的な番組…

1982年から1984年あたりのラジオと言えば、知る人ぞ知る「あの番組」に触れないわけに行かないだろう。今ではちょっとあり得ないレベルの「お色気ラジオ番組」。
そう、ラジオたんぱ(現・ラジオNIKKEI)で土曜の深夜に放送されていた「セクシー・オールナイト」である。
鶴光のオールナイトニッポンと被る時間帯だったので、あまり聴かなかった(つまり裏を返せば時々聴いていた、ということになる)番組であったが、当時から昼間は証券市場の株価情報をやるようなお堅いラジオ局が、鶴光もびっくりのお色気番組を放送していたのである。
エッチな小説を雰囲気たっぷりに朗読したり、今風に言うとアダルト動画の音声だけを切り取ったようなものを放送したり、若い女性がいろいろな経験を赤裸々に語るコーナーなど、今のラジオでは到底放送できない、かなり強烈な内容となっていた。
あとご存知の方も多いだろうが、短波放送というのは電離層を反射しながら電波が遠くまで届く。そのため、恐らく中国や韓国、北朝鮮でも聴くことが出来たんじゃないかと思っている。
短波放送独特の、微妙なフェージング現象も相まって、私は聴いてはいけない番組をこっそり盗み聞きしているんじゃないかという背徳感というか、そういうものを感じた。だが、個人的にはちょっと露骨過ぎて、やっぱり鶴光のような笑える番組が良いと思い、ニッポン放送に戻っていったのだった。
しかし、この番組は実に衝撃的な経験であった。後にも先にも、ここまでお色気に振り切った番組にはお耳にかかったことがない。


さて、今回はセクシー・オールナイトのことをとうとう初出ししてしまって疲れてしまったので、1984年以降のことは次回書こうと思います。
毎回できるだけ3000字くらいで書きたいと思っているので、ここで終えるのはちょうど良い塩梅のようです。
多分、次回かその次が最終回になるので、どうかもうしばらくおつきあいください。
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