目白村だより17(ニューヨーク/アンジェロ・バダラメンティ①)  


バダラメンティとのアルバム(RUBY DRAGONFLIES)

昨年は、多くの知人が亡くなったが、作曲家のアンジェロ・バダラメンティが、12月11日に亡くなったニュースは悲しかった。
私は、彼と縁が深い。パリから友人が送った、たった一本のカセットテープを彼が聴いたことからCDを創る事になったのだ。
そのカセットには、私がパリでクラブ歌手になる意図(オーディション)で、録音したコール・ポーターの歌が入っていた。

まるでモノクロのギャング映画から、飛び出してきたような、ちょっとアーネスト・ボーグナインに似た、巨漢。アンジェロは、1937年ニューヨークブルックリンで生まれたニューヨーク児である。御両親は、シシリーから移民した魚屋さん。大成功し、息子にはクラシックを学ばせた。

アンジェロのオフィスは、ブロードウェイ、メーシー百貨店(チャップリンの映画で有名)の真ん前、30階ぐらいの場所で、窓を開けると風がビュービュー吹いている。彼はSONYの会議用の安価なカットレコーダーでこの風の音を録音して「ツインピークス」の中で使ったという。
バダラメンティは、遅咲きの大家と言われたが、デビッド・リンチの「ブルー・ベルベット」(1986)で脚光を浴びたとき、既に50歳。その後、同じくリンチの「ツインピークス」シリーズ(1990~1991)で、人気爆発。一気に世界的作家になった。
私と出会ったのは、それから数年後、世界中から殺到する依頼を待たせている状況、その上、優先順位が一番の監督デビィッド・リンチが、沢山仕事をした時期で、録音は、その合間でも良いか?という条件つきであった。
机の上には、山のように、有名アーティストの参考用CDやカセットテープが積まれていた。(当時はまだカセットの時代だった!)彼は、私の音色と、歌い方(比較的クールナースタイル)が、一遍で気に入ったという。パリにいる日本人であることも、キッチュだったのかもしれない。とにかく、当時高音を張り上げる歌い方や、つぶれた太い声が全盛の中、時代遅れかもしれない私のスタイルを、あのバダラメンティが好きだと云ってくれた事は、一人の歌手を勇気づけてくれた。
パリで滞在証の問題もあり、日本に戻ろうかとも考えていた私が、その後、何とかやれたのは、彼が、認めてくれた事実が大きかったと思う。

その後、5回ほど、ニューヨークに行っただろうか。結局レコーディングには、たっぷり2年かかり、私は、フランス語を学びながら、英語の発音を本格的に、学ばなくてはならなかった。バダラメンティから最初に、云われたのが「英語の発音」口の開け方が、狭くて母音がネイティブに届かないのだ。
バダラメンティは、謙虚で苦労人、そしてアメリカ人の良さをたっぷり持っていた。
アメリカ人のフランクさは明らかにフランスとは違うフレンドリーであり、それが私を癒し、小さは確信をくれたのは確かである。(・・・つづく)*3月30日(木)青山ZIMAGINEで、バダラメンティを特集します。

 アンジェロ、筆者、ルイス(発音の先生)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?