目白村だより20(パリ通信5)


ベルビルの街角。


ベルビルに一月暮らして、サン・ジェルマンにもオペラにも、ほとんど行かなかった。
ベルビルと言う街は、パリの中でも、異質である。何十年も、見知った都市でも、こんな処があったのか?と言う想いであった。
アラブ人、アフリカ人、中国人、インド人、それにトルコ人…ここに世界のアーティスト系の人々が加わるので、カオスそのものとなる。サンドウィツチも、中に入るものに、異国の香辛料が混ざる。
この街で、忘れられないのが、エディト・ピアフ。通りを歩いていると、いやでもその生家が目に入る。ピアフの産まれた1915年と言えば、第一次世界大戦のさなかであり、現在とは、比べられないが、それでも街の気のようなもの残っている。
この街の(雑多感と混沌)は、パリコレなどの、ファッションの街パリとは、あまりにかけ離れている。だが、バルベスあたりの荒んだ感じはない。弱い移民者同士が、仲良くやっているサンパな街であった。
6月のパリは、異常気象で、街の雰囲気もあり、なんだかアルジェリアにいるようだ。
とにかく暑く(扇風機一つ)眠れない夜が、多かったが、助けられたのは、アパートホテルの大屋のYさん。
見るからに、アート系の若い可愛い人で、自らはサンマルタンにいて、何かあると、自転車で、汗だくでやって来る。
たまたま、ファッションからアートクリエーションにシフトチェンジしたところで、彼女の話の面白いこと。外に出たがらない今の若者の少し前の世代で、気持ちの良い程、前向きだ。苦労してるにきまっているのに、クリエイティブを優先している人は、そのように見えない。
その彼女と、話していたら(ベルビルでは貴重な冷房BAR)アジア系の若い女の子に、声をかけられた。
「日本人ですか?」急に日本語だったので、こちらが、びっくりしたが、彼女は、まったく物怖じしていない。
スペインのトレドに長く住んだ経験があり、東大でフランス哲学を学んでいるという。
ちょっと意地悪かなと思ったが、「何でフランス哲学なの?」と尋ねたら、驚くべき答えが帰ってきた。
「私は、3.11で日本のふるさとと、多くの友人を、一気に失いました。すぐに、現地へ出かけた時、外国にいて逃れたくせに、何故来たといわれ、大きなショックを受けました。
その苦しみや悩みを救ってくれたのが、アンリ・ベルクソンでした。日本では、美大にまず入りましたが、どうしても彼の哲学を、学びたく東大に入りました。しかし日本には、あまりベルクソンの本はなく、休暇を利用して、本を探しに、パリに来たのです。」
ちょつと見、今風日本のギャルの口から、こんな言葉が、飛びだそうとは。 
彼女は、自分の恵まれ立場故に、あのような言葉を投げられたと、今は理解して、次のステップに立ち向かっていた。
映像と哲学に興味が有り、特にアラン・レネとゴダールが好きだという。ここで、私は、座布団一枚!の気分になり、ビールを驕る伯父さんになった。

今、フランスは、映画館へ行く人が、どんどん減り問題になっているが、代わりに本屋が増えているという。活字離れの日本から見ると不思議な現象だ。
だが、ベルビルで、偶然出会った日本の女の子が、(本に救われた)といったことは、私を驚かせた。
大屋のYさんも大喜び。
ごった煮のようなベルビル滞在の、ちょつと、良かった話である。
(今回の、パリ通信は、これにて終了)


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