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松本人志のヴィジュアルバム「古賀」について

好むと好まざるとに関わらず、私たちは人間が意志でもって物事を進めていく物語に慣れてしまっている。だから、松本人志のヴィジュアルバム「古賀」という作品を観ると、ちょっと奇妙な感じがする。主体的な人間が出てこない一方、物語は全く停滞しないからだ。むしろ、瞬間、瞬間に立ち上がってくる現実というものを現代進行形で体験しているような、生の感覚に襲われる。「古賀」の主人公は、言ってみれば、私たちが日々感じている名状しがたい場の「空気」そのものなのである。

「古賀」の冒頭、松本、東野、今田、板尾の4人がスカイダイビングをしようと飛行機の中で高度が上がるのを待っている。なんともない場面なのに、その空気はどことなく不穏だ。「おまえが一番にいけよ」とつつかれたり、「パラシュート出したろ」などと背中に背負った装置をさわられたり、今田が松本と東野にいじられている。今田は「落ちたらどうすんねん」などと笑って受け流し、3人とも楽しそうなのに、見ているほうは何だか笑えない。「今行け」「今行け」と背中を押されたりもしていて、次の言動次第では、うっかり飛行機から突き落とされたりしないか、とちょっとヒヤヒヤするのだ。でも、3人のやり取りよりもずっと怖いのが、会話に入らずにただ成り行きを眺めているだけの男、板尾演じる古賀の存在である。表情からはいまいち感情を読み取れず、何を考えているのかよく分からない。ただ、古賀のふるまいがその場の空気を乱す行為である、ということは何となく分かる。
 
私たちの間には、いつだって「こう振る舞うべき」という同調圧力というか、見えない空気がある。空気を読めない人間が日本社会でどういう扱いを受けるのか知っている身としては、「とりあえずもう少し会話に入ったほうがよいのでは」と勝手に空気を読んで余計なアドバイスをしたくなってしまう。そうでないと、コミュニケーション能力のない人間として早晩に排除されかねないよ、と。いじりの矛先が古賀に向いた時、この人はいじりでは済まなくなる、という直感が働くのだ。

実は子供の頃、松本人志のコントが嫌いだった。最後までちゃんと見たこともないのに、「いじめ芸」だと思い込んでいたのだ。「古賀」の冒頭部分を見て、その理由が分かった。子供の頃の私は、意志や愛なんか噓っぱちで、人間関係やその行動は空気によって決まるのだってことに薄々気づいていたのだろう。「古賀」は、見たくない現実的な不条理、当時から私を脅かしていた「空気」の中にある暴力性を突きつけてくる。 

しかし、「古賀」の真骨頂は、第二幕とも言うべき、4人がスカイダイビングをした後の場面に描かれる空気の変化の方にある。
 
第二幕では、行方不明になった古賀を心配した3人が、家族に現状を説明しようと自宅を訪れる場面を中心に描かれる。墜落事故を予感させる深刻な展開ではあるものの、ここには逆に、深刻になりきらない微妙な空気が漂っている。まず、3人の服装がおかしい。パラシュートを抱え、派手なウイングスーツを着た格好のまま、友達の家まで来ている。それだけ焦っていたのかもしれないが、脱いだほうがよいと思う。さらに、家族に状況を説明しなければならないのに、「どういう状況?」と自分たちにも理解できていない様子におかしみがある。チャップリンの言う「近くから見ると悲劇だが遠くから見ると喜劇」の典型のようにも思えるが、本人たちの混乱には何となく身の覚えのあるような、妙なリアルさがある。さらに言えば、古賀は家の中にいるんだろうな、と次の展開が何となく予測できてしまうから、余計におかしい。

実際、3人が呼び鈴を鳴らすと、口元にソースをべったりつけた食事中の古賀が現れる。3人と古賀との空気のズレが極まり、おかしみは最高潮に達する。古賀は「スカイダイビングをする」という意志に従って行動しただけ。むしろ、普通に見えた3人こそが、空気に翻弄されるだけの滑稽な存在にスライドしてしまっている。場の空気についていけない3人は、「何この状況」とさらに混乱。「食事中」だと言って引っ込んだ古賀をもう一度呼び出して対話を続けようとするが、ズレは埋まらず、3人は首をかしげて帰るしかない。

コント作品にも関わらず、「古賀」には最後まで面白い話をする人間が出てこない。4人はそれぞれに、割と大真面目に自分が置かれた状況を説明しようと言葉を重ねているだけだ。3人は基本的に「分からない」を繰り返すが、古賀だけは自分の状況を「分かっている」。だからこそ、笑われる存在ではなく、笑わせる存在としての古賀の存在が浮き彫りとなる。その場に笑いを起こせるかどうかが、わけの分からない状況をどのように受け止めるかという、一人一人の受容の力にかかっているのだ。

ここでもし、多数派の3人が古賀に「コミュ障」とか「KY」(死語か)とか何らかのレッテルを貼り、古賀こそが「おかしい」のだと説得ないし恫喝をはじめたら、状況は理解可能なものに変わる一方、笑いは失われるか、人を馬鹿にする嘲笑へと堕していただろう。「古賀」の笑いを支えているのは、徹底的な人間観察にある。だから、少し切なくもある。理解しきれないものに出会った時、私たちは何かしらの評価を安易に特定の人物に押しつけて「理解できた」と言ってしまうことのほうが多い気がするからだ。

言うまでもなく、松本は関西出身だ。私は社会人になって初めて関西に住んだが、当初は面白いことを言えない自分は馴染めないのではないか、と恐れていた。でも、実際には杞憂だった。関西には、私が失敗したり、間違ったりした時こそ、「あんた、おもろいな」と笑いに変えてくれる空気がある。笑いは発見するものだと教えられた。笑いに価値を置く。それは、大和民族の中心地として多様な人間を受け入れてきた都会人の生きる知恵なのだ、と感じる。「古賀」には、関西の洗練された笑いの感性が息づいている。

私たちは、弱者や少数派を理解しなければならない、と考える。でも、本当は逆なのではないか。理解できないものを理解できないまま、分からない状況と向きあい続けることで、支配と服従ではない、対話と笑いの余地が生まれる。「古賀」が示した、普通と異常、あるいは権力関係を反転させる笑いの力は、昨今求められている「誰も取り残さない」社会を実現する上でのヒントにもなりうる。

と、ここまで書いて逆のことを言うようだが、笑いと嘲笑は紙一重である。笑いはやっぱり恐ろしい。一堂に会する人々を強制することなく、ただ笑わせることによって一瞬で支配する力を秘めている。かつてお茶の間を賑わせたお笑いコントが、ポリティカル・コレクトネス(PC)の観点から批判されることも少なくない現在、笑いと嘲りの境界をどのように見極めていくか、というところに、お笑い芸人の真価が問われている、と言うこともできるかもしれない。「古賀」はそのぎりぎりを攻めた先駆的な作品であり、今となっては、PCという新たな空気に翻弄されている我々を挑発、いや、むしろあざ笑っているかのようにも感じられる。見る者にとって全く毒のない笑いなど、面白くもないのだ、と。

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