見出し画像

スカートをはく自由、はかない自由。

少し前になるが、「僕がスカートをはく理由」というNHKのWEB特集記事を読んだ。広島県安芸太田町の県立高校で、ある男子高校生がスカートを着こなして登校しているというものだが、そのとき素直に、こういう若い人たちがいるのは救いだな、と思った。筆者自身がもやもやと違和感を感じてきたことに、少し輪郭を与えてくれたような気がしたからだ。

日本でも「多様性」「ダイバーシティ」の重要性が叫ばれて久しいが、突き詰めると「多様性」とは一体何なのか、という問題にぶち当たる。ざっくり言うと、世界には様々な国、文化があって、どれも等しく尊重されるべきである、ということはもちろん頭では理解している。しかしこの「等しく尊重される」という言葉が、どうもぼんやりとしているのだ。
歴史的に古いダイバーシティ問題は恐らくは「人種」、「身分」、「宗教」、「女性の権利問題」あたりだろうか。特に「女性」に関しては、世界の半数いるのだから、マイノリティの中のマジョリティであることは間違いない。というより現在は「女性=マイノリティ」ではなくなっている、とは思う。ただし、ダイバーシティというと「女性」が筆頭で取り上げられると感じるのは、やはり数が多いからだろう。
少し前の「Me too」もグローバルで大きな潮流となった。世界のダイバーシティ推進をリードするのが、かつてのマイノリティの中のマジョリティ、現在はマイノリティですらなくなった「女性」であるのは当然、と頭では理解しているがふと「?」となることがある。
例えば件の「Me too」ムーブメントも、「me too」と言いたいのは何も女性だけではないはず、とずっと思っていた。性的虐待やセクハラの被害者は男性だっているし、その加害者も男性・女性両方いるはずだ。数が多いからフィーチャーされるのは仕方がないと思いつつ、少々腑に落ちなくて、個人的には少し引いて見ていた感が否めない。
(※ 海外のニュースでは男性が声を上げた例もあると見たことがあるが、日本ではどうだったのだろう。)

この違和感を簡単に言うと、本来目指すべき理想は「マイノリティの中のマイノリティも多様性の一つとして同等であるべきではないのか」ということ。そこにたどり着くまでの長い道のりのまだまだ途上にいるのだと、自分に言い聞かせたりもしているが、マイノリティの中の数の多い方からひとつずつ、かつての選挙権獲得時のような運動をして、少しずつ認められていくって途方もないな、とゲンナリしてしまう。何故ってそれは時間的な問題だけでなく、なんだかまるで非マイノリティに仲間入りしたくて努力しているように見えてしまうからだ。(努力の方向性、違っていないか?とふと思ったりして)
それぞれに、「上下」とか「正誤」がある前提で、「上」とか「正」のグループに「所属することを認められたい運動」のようなイメージ。
マジョリティが「上」とか「正」でマイノリティは「下」あるいは「誤」、という発想があるから、あるいは「認められている」と「認められていない」の間の一線を越える超えないという概念があるから、選挙権獲得運動みたいなことになってしまうのではないかな、という気がする。じゃあ他に方法があるかと言われれば、筆者の少ない脳みそを絞っても思いつかないし、何もしないよりは少しでもこの運動を継続した方がいい、というのも理解はできる。

ただ、彼らは本当に非マイノリティになりたいのだろうか?
ちなみに、この「彼ら」には、私もあなたも、全ての人が含まれるはずだ。マジョリティとマイノリティを分ける事柄・分類は無数に存在する。分かりやすい「人種」や「性別」、「年齢」、「セクシャリティ」だけではない。何なら、人数的にはマジョリティなのに、なぜかマイノリティ的な扱いを受ける逆パターンの「経済力の有無」や「能力や学歴」というもっと複雑な多様性だって存在する。我々は皆、何かのマイノリティだし、何かのマジョリティなのだと思う。
ということで言いかえれば、「我々は本当に全ての事柄で非マイノリティになりたいのだろうか?」 筆者個人の答えは「NO」である。

前置きが長くなったが「僕がスカートをはく理由」。「僕」はマイノリティだからスカートをはきたい、と言っているわけではない。本当のところは分からないし、本当のところなどどうでも良いのだ。つまり、マイノリティかどうかなんてどうでもいいのだ。
女性がパンツスーツやショートパンツをはくように、男性が女性の服を着たっていいじゃないか。このような制服は「ジェンダーレス制服」と呼ぶらしいが、トランスジェンダーの方々が生まれた性別の服の着用を強制されないためだけでなく、誰がどの服を着ても良いのではないか?
女性がスカート着用を強要されるのは差別、これは同意。
トランスジェンダーが生まれた性別と違う服着用を選択可能、これも同意。
じゃあさ、男性がズボン着用を強要されるのも差別、なのじゃないのかな?ポイントはトランスジェンダーやLGBTQかどうかではなく、虐げられているマイノリティを認めてあげる、でもない。
全ての人があらゆる固定観念から自由になることが、本来目指すべき場所なのじゃないのか。この「僕」はスカートをはくことで、しかもかなり保守的傾向の強い「制服」で、それを示してくれているのだと感じた。「僕」のコメントが全てを語っていると思う。

「男性なのにスカートをはいているから、女性なのにズボンをはいているから、LGBTQ+なのではないかという意識が世間に埋め込まれていると、無理に性自認をカミングアウトすることになってしまうのではないでしょうか。そういう社会だと自分がはきたいほうを選びづらくなってしまいます」

男女関わらずいろんな人がスカートをはくようになったら、スカートのデザインや構造ももっと多様になって、男性に似合うスカートのシルエットとか、可能性が広がるんじゃないかな、とか思ったりする。女性に似合うズボンやジャケットのシルエットが男性用と違うように。そして、少なからず存在するであろうスカートをはくのが嫌だと思う女性にとっても、「スカート=女性」という既成概念から解放されて、選択肢の一つになれば楽しいんじゃないかなと思うのだ。

選挙権獲得運動みたいなww ダイバーシティ推進活動はまだまだ道半ば。そこでは男性はやっぱりまだマジョリティのど真ん中で(ホントは男性だっていろいろいるのにね)。
そんななかから「上とか正とか、意味なくね?」と声を上げた若人がいることがとても嬉しかった、という話しです。


<筆者について>
はじめてnoteに公開したのが本記事となります。ニュースや時事ネタだけでなく、日々思うことなども書いて行きたいと思いますが、興味のあることはかなり雑食なので、様々なコンテンツの感想等も書いていく予定です。
また、今回の記事内容とも多少関連しますが、記事を書く上で注意していきたい点を記載させてください。

人種や出身、性別や年齢やセクシャリティ、容姿や身体能力やはては学歴や年収なども含めて、それらが自分自身の価値観や考え方に影響を与えていることは決定的ではあります。それを根拠にした議論は説得力はありますが、書き手も受け手も思考が制限されてしまうなとも思っています。
「あなたは経験がないから、私の気持ちがわからない」で、議論が止まってしまう。日常でもよくあることです。でもそれでは理解し合う努力を放棄することになってしまうのではないか。よってここでは敢えて必要以上に自分のバックグラウンドを表明せずにはじめてみようと思っています。もちろん、多かれ少なかれそれらは無意識的に文章に反映してしまうと思いますが、それらを根拠にした推論は出来るだけ、意識的に避けてみようと考えています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?