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圧倒的な効果を出すアウトプット『惨めな自分を眺める』


オンライン英会話をしていた時、フィリピン人の女の先生がとってもHAPPYそうだったので、

「なんかあったの?」と聞いたら、ひどく怪訝な顔をされた。

「HAPPYなことに理由なんている?」

全くその通り。


人はきっと本来すごくHAPPY。
というか、決して「不幸」なんて持って生まれてきてない。

それが、いつしか理由がないとHAPPYになれなくなる。
退屈で、息苦しくて、なんか違う・・・「惨め」な自分を生き始める。


子どもは、成長するにつれて、何かをできるほどほめられる。

歩けたね、喋れるね、字が読めたね、走るの早いね、満点だね、モテるね・・・etc


さらに、誰かがほめらるのを見ると、

「認めてもらうには、自分には何かが足りない」と思い始める。

そして、足りないものを埋めようと努力するか、悪口を言い始めたりする。

努力をすればさらにほめられるわけで、努力し続ける。

好きなことじゃなくても。やりたくないことでも。

テストで80点を取ることは、20点足りないことを思い知らされる。
(もちろん、80点で満足できることもあるわけだけど)

皆勤賞がすごいと言われれば、病気で休むことさえもいけない気がする。

そして、資本主義は、「理想の姿」を提示することで、「あなたに足りないもの」を教えてくれる。

理想の身体、理想のパートナー、理想の子ども、理想の日常・・・・。

さらにさらに、TicTokで子どもたちは、可愛くない子の投稿はめちゃくちゃに悪口言われる。

社会は、私たちに「あなたは不完全である」ってことを徹底して教えてくれるのである。

(もちろん自分は完璧だと知った上で、自分を受け入れた上で、さらに上を目指すことは素晴らしいよね)


自分の性格とは

子どもは、自分のやりたいことをすれば、批判される。

授業中に、窓の外の雲が流れるのを見ていれば、「集中しろ」と注意され、

学校帰りに自販機でメッツをのグレープ味を買って飲んだら、生徒指導の先生に見つかって怒れた。(めっちゃ喉乾いてましたけど)

なんかのイベントでつまらなそうにしてたら、やる気がないと親に連絡され、

仲良い友達とめっちゃ盛り上がってたら、他の子達から陰口言われた。

友達と話してたら、部活の先輩とすれ違ったのに気づかなくて、「挨拶しろ」と怒られた。

ありのままの自分でいることは、常に周りから批判される。危険なのだ。

ありのままの自分は「不完全」であり、非難される。

その結果、本当の自分を出すことは危険すぎるから、偽りの自分で生きるようになる。

軋轢を生まず、受け入れられやすい自分を作り上げる。

そもそも自分の性格なんて、育ってきた環境の中で「受け入れられやすい自分」を組み合わせただけに過ぎない。

目立ちすぎて叩かれたら、控えめになる。
お金のことえ親が喧嘩してたら、お金は使わない方がいいと思うし。
ぶりっ子してる子が、仲間外れにされてるのを見たら、クールを演じる。
率直に意見を言って、友達と険悪になったら、思ったことは言わなくなる。

そうやって、過去の経験から、自分がもっともラクに受け入れられやすい自分を作り上げてきた。

「受け入れられるため」の代償は、「我慢」

本当の自分を我慢すること、押さえつけること。


アウトプットで自分の惨めさを眺める


私は瞑想を始めて、2年ちょっと。
瞑想にハマりまくって、1年ぐらいで50冊ぐらい瞑想関連の本を読んだ。

その中で、私に思いっきり刺さったのはOSHO。

あなたは全て教えられているが、自分自身でいることだけは教えられていない。
この世界では唯一の幸せしかない。それは自分自身でいることだ。

本当の自分でいられない時、人は惨めである。

『JOY』


「不快」と思うことは、不安であれ、焦りであれ、劣等感であれ、不完全さであれ、それは本来の自分ではない。

そういう時の自分は「惨め」なのだ。

解決法は「不快」に思った時の状況を1つ1つアウトプットしていく。

何が嫌なのか? どうしたいのか?  どうなったらしあわせなのか?

まずは、それを丁寧に丁寧に拾い上げていくこと。

一旦、自分の感情を文字にして、自分の外に出して眺める。

「受け入れられるために飼い慣らされた偽りの自分」を、檻の中にいる自分を眺める。

そうすると、いかに窮屈な自分に留まっているのかがわかるから。

自分を惨めにさせておきたくないと強く思える。

そこから、解放された自分が始まるよね。


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