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まさかの(マッチ)ヒストリー第2回配信の追記

 前回のレノファ山口FC公式YouTubeチャンネルの(マッチ)ヒストリーをご覧くださった皆様におかれましては、誠にありがとうございました。
 一回で終わるかと思いきや、なんと広報T氏が「もう少し続けましょう!」と仰ってくださったので、図々しくもまたもや登場させていただきました(テヘペロ)

 さて、今回は無理矢理感が否めないなと思われた方もいらっしゃるかもしれませんが、私の中では意外にしっくりきております。

 動画の中では触れることが出来なかったことを今回も文章にします。

 さて、吉田松陰はどうして東北旅行をしたのか。
 そもそもは、清がイギリスに敗れてしまったアヘン戦争が間接的なきっかけだと謂われています。アヘン戦争に敗れた清はイギリスとの間に不平等条約を結ばされ、半植民地化されてしまうのですね。
 「眠れる獅子とも謂われる清が…」と、西洋列強の力を間接的でも目の当たりにし、「このままでは日本も同じ目に遭うかもしれない」と危機感を募らせた松陰は、西洋列強に対抗する力を得ねばと強く思うようになります。勉学の幅も広げなくてはならない…そこで江戸へ遊学します。
 日本の中心で色々な人から様々なことを学びますが、松陰はそれでも満足できません。次第に、自らの足で歩き、目で見て、人から直接話を聞きたい―――これが彼が大切にした『飛耳長目』の考え方です。松陰は日本全国を見聞きして歩き、情報を収集します。
 その旅の一つが、東北旅行なのです。

 現在は、国内であれば自由に行き来できますが(今はある意味行き来できませんが)、当時は国内でも通行手形、所謂パスポートのようなものが必要でした。
 藩に届け出を行い受諾されたら通行手形が発行されるのですが、いつまで経っても届きません。
 “友人”との約束の日が刻々と近づいてきます。それでも届かない。
 皆さんだったらどうしますか?通行手形が届くのを待ちますか?それとも―――

 松陰が取った行動は『脱藩』。簡単に言うと、通行手形を持たずに藩を出ることです。これは罪です。下手したら投獄されてしまうほどの、です。(この後、江戸に帰着した松陰は罰を受けます。それがわかっていての行動です。善い行いではないかもしれませんが、日本を憂いてのこと。松陰らしいですね)
 脱藩をし、先述した“友人”(親友とも伝わる)、宮部鼎蔵と共に、東北旅行をすることになります。

 さて、宮部鼎蔵とはどんな人なのか。
 熊本で代々医師の家系に生まれましたが、山鹿流兵法に長けていた叔父に就き、熊本藩の兵学師範にまで成った人です。
 江戸に赴いていた際に松陰と出会い、意気投合した二人は親友に。
 日本の行く末を語り合い、語り合うだけではなく実際に行動に起こしていきます。
 この実直さが後に悲劇を生んでしまうことにはなるのですが、賢者であったことには間違いありません。
(幕末の歴史は悲劇の連続です。歴史とは見る角度によって全く感情の振れ方が変わりますが、今“歴史”になっているだけで、それは人ひとりの人生なのです)

 動画本編では山形県米沢市に立ち寄った際の話をしました。何かの幕末長州藩を扱うドラマ作品で、この東北旅行を描く際に山形県に立ち寄ったシーンを見たことがあるような。

 実はこの東北旅行では青森県にも赴いています。
 青森県と言えばサッカーの名門、青森山田高校。思えば池上選手は、中学までは地元熊本で過ごし、高校はまず国見高校に進みますが「自分の成長を感じられなかった」と青森山田高校に転校。
 このような人生の選び方は、なかなか普通の高校生にはできないと思います。かくいう私がその一人です。
 確固たる自分の意志をこの頃から持ち、その意志に従って行動し遂にはプロに。山口をプロ出発点として、数々の知識・経験を持った名監督達の元で奮闘する様は、松陰先生の『飛耳長目』のみならず『華夷弁別』をも体現しているようです。
※華夷弁別…自分が生まれたところを、世界の中心と考えること。

それでは、また逢う日まで!


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