守られた平穏、引き裂かれた天才

プロレスを好きになって20年、
私の人生はプロレスなしには語れない。

プロレスとの出会いは幼稚園の頃だった。
テレビの録画機能を「僕も使いたい!」と
親に告げたことが全ての始まりだった。
新聞のテレビ欄に番組の番号が書いてあり、
それを録画機器に入力することが必要だった。
テレビ欄をくまなく見て、
興味を持ったのは「ドM時間」と「プロレス」
家族はプロレスを必死に勧めてくれた。
私の純白な心と、お茶の間の平穏は守られた。

録画した番組を再生すると、
永田裕志と鈴木みのる、天山広吉と高山善廣の
シングルマッチが流れた。
鈴木という選手の悪党っぷりと、
悪を成敗する永田の強さは衝撃だった。
鈴木は爬虫類ヘアーといわれる奇抜な髪型をしていて、母に「この髪型になりたい」と懇願して頭を抱えさせてしまった。
天山という選手は、ダイヤモンドよりも硬い石頭を武器に不屈の猛牛という通り名で活躍していた。190センチ以上ある高山を、その硬い頭から繰り出す頭突きでなぎ倒すという斬新な闘いに感銘を受け、洗濯物を干している母に「天山の頭はダイヤモンドよりも硬いんだって!」と報告をしたが、信じてもらえなかった。

誕生日にはプロレスのゲームを買ってもらった。ほどなくして、プロレスは日テレから姿を消した。実家はテレビ朝日系列は5年生まで視聴できなかったため、4,5年間の別れであった。

小学5年生になり、再びプロレスが帰ってきた。実家でテレビ朝日系列が視聴できるようになった。久しぶりの新日本プロレスは、天山は故障をして一線を退き、鈴木と高山は全日本プロレスに移籍をしていた。棚橋、中邑、後藤、真壁という新日四天王と呼ばれる選手たちが中心に立っていた。

学校の図画工作で「今年一番の感動したことを描く」という授業があった。スポ少で野球をしていたものの、ベンチが居場所だった私にとっては、社会活動での感動は微塵も浮かんでこなかった。そんな私が鳥肌を立て、その魅力に衝撃をうけた男がいる。プロレス界の天才、武藤敬司だ。
ちょうど彼が新日本で王者だった頃、
私はプロレスから離れていた。
彼はゲームでは常に最強の立ち位置で、
レジェンドであることだけは知っていた。
蝶野正洋という選手の25周年試合で、
彼は新日本プロレスにやってきた。
一挙手一投足が、私の常識から逸脱していた。
全ての技が観客を駆り立て、
主役の蝶野よりも目立ってしまった。
必殺技のシャイニングウィザードを見たとき、
完全に虜になり、すぐに彼を授業で描いた。
しかし、絵心を履修してこなかった私の画力では、スキンヘッドの上裸の男という情報しか先生には届かなかった。優等生の権化とも言える私の、突然の奇行に先生は怒鳴るという大技に出た。完全にカウント3、私は泣きながらその絵を引き裂いた。

この涙は特殊すぎるが、
何度かプロレスで涙を流したことがある。
最も印象に残っているのは、
2018年大雨の横浜赤レンガで開催された
「鈴木みのるデビュー30周年記念大会」の、
鈴木みのるのマイクパフォーマンスである。

時代の寵児、オカダカズチカとの試合は
30分ドローで引き分けた。
そして大雨の中、彼はこのように話した。

惜しかった、がんばったなんてどうでもいい。
勝たなきゃ意味がねえんだ。ガキども、世の中出たら勝ち続けなきゃ上にいけねえんだよ。
俺が言いたいのは世の中そんなに甘くない。
オイ、しょぼくれた中年ども。俺は50になったが、相手が20でも30でも誰にも負けねえ!
お前らが指くわえてプロレス見てるだけだったら、お前らが欲しいもの、全部俺が持ってくぞ。

この言葉は、大学生の頃に聞いた。私にとってのヒーローは、今でも闘いを続けている。その事実があまりにも嬉しかった。子どもの頃から応援していた彼が話す「ガキども」には私も含まれているはずである。社会人になった今でも、仕事を投げ出したくなった時にふと聞き直している。彼がリングにいる限り、私は何度でも立ち上がる。鈴木みのるの髪型にはなれなくてもいいから、鈴木みのるみたいな男でありたい。

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