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100回記念!!『ミャンマー言いたい砲台ラヂオ』支援有料記事

2021年11月23日に第1回放送を始めたミャンマー言いたい砲台ラヂオもついに100回を迎えます!

100回記念にMC二人が今伝えたいことをそれぞれ綴った記事を有料にしました。
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100回記念エッセイ

「僕とミャンマー」

石川 航


 
はじめに
 
さて、今回は100回記念エッセイということなので、普段の放送後記とは少し違う雰囲気で書いていきたい。
です・ます調ではなく、である調に変えているのは、なんとなく格式高いエッセイっぽい感じを演出するためである。
高飛車な感じが出てしまっては、自分でも嫌なのだが、御免被りたい。
 
さて、今回の記念エッセイのタイトルは「僕とミャンマー」とした。
我ながらボヤっとしたタイトルだが、いい題名が思いつかなかったのだから、仕方がない。
 
ただ、この文章を読んでいるのは、「言いたい砲台」というラヂオの理念に共感しわざわざお金を出してくださった皆様のはずである。
そんな篤志家の方々に対して、中身までボヤっとしたエッセイでは申し訳ない。
というわけで、ここでは普段なかなか話さないような、「ここだけ」のエピソードを書きたい放題させていただこうかな、と思っている。
とは言え、誰かの悪口を山のように書いたりと、爆弾発言を投下する気はない。
 
今回、僕がテーマにするのは、自分とミャンマーとを結ぶ現地の友人たちである。
僕はミャンマーの友人たちが大好きだ。
正直に言うと、僕は文化や歴史を愛するミャンマーマニアというわけではなくて、彼らがいるおかげで今もミャンマーと関わり続けている面が大きい。
授業で習ったというサザエさんの歌を大声で歌っていたNL君(大学生)や、ファミリーマートで仮面ライダーのミニチュアを棚買いしていたAM君(大学生)や…。
絶対に大丈夫じゃない場面に遭遇しても、「ヤバデー、ヤバデー(ミャンマー語で、大丈夫)」と不敵な笑みを浮かべて連呼する彼らと話していると、大抵の悩みなど小さなものに思えてくるのだ。
 
だから今日は、そんな僕の大切な友人たちについて、書いてみようと思う。
3人の友人とのエピソードを気ままに紹介していくので、その中から僕がどのような背景や想いを持って活動を続けているのか、少しだけ感じ取っていただければ幸いである。
 
その前にまずは、ミャンマーでクーデターが起きた2021年2月1日直後の話をしていこう。
 
クーデターが起きた時
 
2021年2月1日、僕はもうすぐ大学4年生になろうとしていた。
遠方から僕の大学の編入試験を受ける他校の後輩のために、大学に行って問い合わせやら過去問のコピーやらをしていた。
我ながら面倒見のいい先輩である。
そんな時、「スーチー氏が拘束」という速報が入ってきた。
情報源は、ミャンマー研究界隈の独自ネットワークなどというカッコいいものではなく、ネットニュースである。
半信半疑でTVを付けると、普段は地上波から聞くことのない「ミャンマー」という言葉が流れてきた。
 
これは只事ではないと気づき、とりあえず手当たり次第にミャンマー人の友人たちにメッセージを入れた。
大半の友人から返信が届いたが、あまり実感なく呆然としている人も、敬愛するスーチーさんが拘束されたことで怒りを露わにする人もいた。
幸い、まだネットが繋がっていたので、数人がビデオ通話をかけてきてくれた。
僕は「すぐ平和になると信じているよ」と、祈りに近い励ましの言葉をかけるしかなかった。
当時はまだ、「クーデター」という単語も「デモ」という単語もビルマ語で知らなかったので、やり取りに苦労した覚えがある。
(クーデター以降、ビルマ語を使う機会が減った僕の言語力はますます低下する一方であったが、普段使わないような物騒な単語の語彙だけは、悲しくも身に付いてしまった。)
 
その日、知り合いの在日ミャンマー人女性、Sweさんから連絡があり、署名の拡散に協力してほしい、と依頼があった。
Sweさんは、数年前から一緒にミャンマーと日本の若者交流団体を立ち上げた仲間であり、(その当時の)僕にとっては数少ない在日ミャンマー人の知り合いだった。
彼女は、仕事を切り上げ、さっきまで国連大学前で国軍に抗議するデモに参加していたという。
後に、Sweさんは在日ミャンマー人界隈を率いていく若者リーダーとして活躍していく。
日本に住むミャンマーの人たちは、ミャンマー本国よりも早く、声を始めたのだ。
 
クーデター発生から4日ほど経つと、ミャンマー国内でもデモが始まり、抗議の動きは次第に全土に広がっていった。
「デモが起こるたびに軍が弾圧する」というビルマの歴史は認識していたので、自分にとっても落ち着かない日々だった。
 
いま思うと、有事の時のミャンマーの人たちの行動力、そして覚悟は、日本人とは比べものにならないものがある気がする。
「考えるより、走り出す」「考えながら、走る」を彼らは体現していた。
 
僕はというと、この急な出来事に驚き、どうしたらいいものか、と混乱していた。
日本に住むミャンマーの人たちがデモを開催しているのを知っていたが、ミャンマーに深く関わっている日本人の中では、「まだ行動は起こさず、様子を見た方がいい」「日本人が参加すると趣旨がずれるのでは?」などという声があがっており、自分自身も何かしなければと思いながらも、動きを憚っている部分もあった。
 
ミャンマーにいる友人たちがデモに参加する様子をFacebookにあげたり、抗議の写真を送ってくれたりするのを見ると、友人を危険に晒したくない気持ちも強くなっていった。
ただ、デモ参加を止めるよう忠告することは、したくなかった。
それは、彼らの尊厳を奪う行為のように思えたからだ。
少なくとも、何もできていない外国人に、そんなことを言う資格はない。
 
少しでも何かできることを、と大学の有志でミャンマーに関するオンラインセミナーや署名活動を企画したり、現地の声を日本語で発信する翻訳ボランティアをしたりした。
こうした活動をしていくうちに、日本で暮らすミャンマーの人たちと知り合いになり、支援の輪が広がっていった。
一方ミャンマー国内ではら軍が市民に銃口を向けることを厭わなくなっていた。
ミャンマーの人たちは次第に街頭から消えていき、SNSで声を上げる自由すら奪われた。
僕は、彼らの代わりに日本にいる自分が声を上げなければならない、と思い、デモや募金活動などにも積極的に参加するようになった。
自分より数倍もリスクを背負って活動している在日ミャンマー人の仲間たちの姿は、戸惑いの中にいた僕の背中をいつも押してくれた。
 
お喋りは大の苦手だったが、時にはメディアでインタビューを受けたり、イベントで登壇させていただく機会もできた。
(ちなみに、苦手とは言っても、実はそういうのが嫌いなタイプではない。
テレビカメラを向けられたりすると嬉しくなる人間だし、ロケ車に乗せてもらった時のワクワク感は忘れられない。
いま思えば、撮影機材とタバコ好きなおじさんを載せた普通のワンボックスだったが…)
 
顔と名前を出して発信することで、支障も出た。
たとえば、当局から政治活動をしている人間とみなされるので、当面、ミャンマーに行きづらくなることだ。
僕の渡航については、「叶えるためにも早くミャンマーを平和にしよう」とすぐに決心がついたのだが、周りにいる人たち(特にミャンマーにいる僕の親しい友人達)が、自分のせいで危険な目に遭ったり不利益を被らないかだけは気掛かりだった。
 
ミャンマー関係の日本人の中にも様々な立場の人がいるので、民主化運動に参加しているということで距離を取られたり、時には嫌味を言われることもある。
(もちろん大半は温かい人ばかりだが)
 
それでも、僕が今のスタンスで活動を続けているのは、ミャンマーで出会った友人たちの存在が大きい。
彼らがいるからこそ、僕はミャンマーが大好きになったし、いまもミャンマーに関わり続けている。
今からそんな、僕とミャンマーとをつなぐ友人のエピソードを紹介していこう。
(なんだか振り出しに戻ってしまった。
いよいよ、ここからが本編です!)

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