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僕の心臓は右にある。


僕の心臓は右にある。2万2千人に1人の確率で発生する。5歳まで生きれる確率は5%-13%。成人まで生き残れる可能性は5000万人に1人の確率とネットには転がっていた。僕は今年で28歳になる。生まれた瞬間から僕は特別な人間だと優良誤認していた。景品表示法違反だと自覚したのは24歳の時だ。

一般人の心臓はどうやら左にあるらしいことは、小学4年生の時に知った。そのころから僕は他人とはちょっぴり違う人間だと思って生きてきたし、同時に成人まで生きれる可能性がほとんどないことも自覚した。どうせ短命なら、おもいっくそ生きてやろうと思った。

幼い頃から水泳を習っていた。小学生の頃思い出す匂いは塩素だ。夏の水泳の授業の時だけいきいきしていた。小学4年生になったタイミングで通っていたスイミングスクールで選手コースに入ることになった。専門は50m&100mのバタフライとクロール。バタフライが得意で、コーチに褒めてもらえる唯一の形でした。

小学5年生になった。夏休みは朝練して、昼練して、夜練がありました。しかしながらどれだけ努力しても越えられない壁がありました。年下の中から自分より速い子たちが現れました。同じ練習をしているのに、その子らは尋常じゃない速さで成長していってました。小学6年生になりました。

6年生になったタイミングで、学校では歴史の授業が始まりました。日本古代史がとっても好きでした。特に勉強ができないわけではなかったけど、勉強の中で好きになるのは珍しかったです。歴史の中では古代史が一番好きでした。

近代に近づいていくと、いろんな書物が残りすぎて古代ほど面白くありませんでした。今考えてみればなぜなのかわからないけど、未確定なものや曖昧なものに魅せられていたのかもしれません。古代史の中でも惹きつけられたのは邪馬台国です。

所在していた場所すらわかっていないこと、江戸時代から本居宣長をはじめとする国学者がどれだけ研究しても九州説と機内説にわかれていて現代でも判明できていないこと。これだと思いました。僕が人生を賭して判明してやる。だって俺は何者にでもなれると、その頃はそう思ってました。

水泳は県大会「小学6年生の部」で金メダルをもらってからというもの、あまり面白くありませんでした。あの子たちが「5年生以下の部」にいたからとれたメダルであることを自覚していたからです。水泳を辞める理由を探していました。古代史しかないと思いました。

邪馬台国の所在は九州説派だったので、九州大学文学部に入って、邪馬台国の研究をしようと決めたのはこの頃でした。中学受験をすることを両親に伝えました。水泳を3月まで続けることを条件に受験を認めてもらいました。受験日は1月27日でした。鮮明に覚えています。受験番号は33でした。

合格しました。倍率は3倍くらい。その中等部には水泳部はなかったけど、九州大学への道が見えた気がしました。受験番号の33は、それからメールアドレスやSNSのIDなどに使いました。人生で初めて成功した証でした。3月3日生まれではありません。

ほとんど中等部の記憶はありません。2年生から生徒会執行部に入りました。生徒会長選挙には落ちました。高校の時は応援団長もしました。僕の心臓は右にあるので、非凡な人生は嫌だと言わんばかりに色々やってましたが、九州大学には落ちました。その年の合格者は127人でした。倍率は2.4倍でした。

受験番号は覚えてません。1週間は泣いていた気がします。滑り止めで受かっていた関関同立に行くことになりそうでしたが、後期日程で受かってしまった四国の国立大学に入ることになりました。法文学部というとても曖昧な学部でした。この大学と慶應にしかない名前みたいでした。

大学時代はほとんど覚えていません。ほとんど大学に行かず、昼はスポーツジムで小学生たちにバタフライを教えていました。夜は賄い目当てで居酒屋バイトしていました。程なくして就活が始まりました。考古学者になりたかった右胸心の人間は人生の目的意識を無くしかけていました。

ある日地元の友達とカラオケに行っているとあきらかにお酒のせいじゃないお腹の痛みで死にそうでした。自分で救急車を呼んで、病院に運ばれました。実際には盲腸でした。手術で摘出か散らすか選んでくださいと言われ、散らすってなんだよって思いながら再発リスクを考えて摘出することにしました。

手術する前に問診されると、心臓が右にあるので、手術できる人がいる病院に移動しますと言われました。数日後無事終わりました。数日間の入院経験は、それはそれは退屈でご飯も美味しくなく、二度としたくないので健康に生きようと決めました。

就活の自己紹介にはスポーツジムでアルバイトでの子どもたちとのコミュニケーションの取り方をガクチカとしてベラベラ喋ってました。一番評価してくれたのは都内に本社を構える食品メーカーでした。大学を平凡に卒業し、東京に引っ越しすることになりました。新卒で入社した同期は46人でした。

僕はとあるアルコール飲料を扱ってくれる居酒屋を増やすための部署に配属されました。気が狂うほど個人の居酒屋を回って毎日飲酒していました。同期の中で早く上に行かなきゃとがむしゃらでした。2年目の健康診断で肝機能障害の疑いがあると診断されました。

毎日居酒屋3,4軒回ってお店にお金を落として自社飲料を置いてもらうという鉄板のやり方。自分の金と身体をささげるやり方しか知らない営業だった僕は、自分は無能であることを、健康診断の結果を通して目の前に突きつけられました。でもこれでやっていくしかない。数ヶ月は惰性で努力しました。

大学の友達が旅行で東京に来ました。友達は公務員でした。ノルマもなく、怒鳴る上司もいないと聞いた時、何をやっているのかよくわからなくなって帰宅して辞表を作った。退職代行サービスに辞表を送って10万円ほど振り込んだ。その日は久しぶりに自社以外のアルコールを飲んだ。


僕の心臓は右にある。2万2千人に1人の確率で発生し、成人まで生き残れる可能性は5000万人に1人の確率。最初の会社を辞めて4年が経った。僕は奥多摩の酒造で働いている。昨年有名な賞を受賞した。あの会社の同期は今15人にまで減ったらしい。今の酒造は全員で20人で35歳以下は僕だけだ。

他人のことを下げるわけではないが、自分は特別だと思わせてくれた右にある心臓はもちろん今でも右にあるし、嫌でも毎年の健康診断で申告しないといけない。今年の健康診断は右に心臓があることを事前に言ってたのに、心電図のコーナーで看護士さんがバタバタしていた。「反応がない」。

これまで心臓が右にあって70歳に達した人は全世界で2人しか確認されていないらしい。僕には全世界でたった3人に入る確率がまだあるということ。それは果たして特別な人間になれるということだろうか。

人生における何かを成し遂げることが、生まれた瞬間から決まっていたことなんて虫のいい話があるのだろうか。それでも成し遂げないと生きた意味がないのではないかと昔からずっと考えて生きてきた自分にとって、成し遂げることは義務だと思ってしまうように遺伝子にインプリンティングされていた。

健康に長生きすることが人生の目的になってしまった。
たまたま心臓が右にあるだけなのに。

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