あり触れた日常が交差する場所

交差点の横断歩道にて見かけた光景。

まだ年端もいかない少年と母親と思われる大人が真剣な眼差しで対峙していた(単に、「少年」「母親」と表現して先に進める。)。

状況としては、どうやら少年が信号無視をして横断歩道を渡ろうとし、それを母親が強めの語気で叱っているようだった。

少年は、信号無視の常習犯らしく、母親の堪忍袋の緒が切れた、といったところ。

立ち聞き(正確には、歩き聞き)をしていたというのもばつが悪いので、詳細な会話の内容は記載しないが、つまるところ、交通事故にあったら取り返しがつかないのだから、横断歩道は、一緒に手をつないで渡ろう、ということのようだった。

これ自体は、誰しもが経験し、あるいは、目にする光景。

問題はその後である。

その少年と母親が会話をしているのを脇目に、別の少年(仮に「全速力少年」としておこう。)が、何かを叫びながら、赤信号の横断歩道を走って渡っていった(自動車が来る気配はなく、そこはかなり短い横断歩道なので、全速力少年の行動もまた、よく目にする光景である。)。

母親から厳しく言い聞かせられていた少年からすると、①母親と手を繋いで(もちろん青信号の)横断歩道を渡らければならない世界線と、②全速力少年が赤信号を走り抜けていく世界線が同時並行で目の前に広がったわけで、これはなかなか状況・感情の整理が難しかっただろう。

おそらく、自我が芽生え始め、母親と手を繋ぐという行為に何らかの心理的葛藤が生じ始める年代にも見えた少年。

社会のルールの意味を認識できるようになり、それを自発的に守ることを求められると同時に、同年代の子供が適度にルールを破るということも認識するようになり、社会のルールとの距離感を模索し始めている少年。

その少年が母親からきつく言い聞かせられているところにお構いなしに、元気よく駆け抜けていった全速力少年。

横断歩道というあり触れた空間も、タイミング次第では、人間が成長する物語を紡ぐのである。

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