価値(バリュー)があるか、という問いの問題点ー時間軸による限界ー 醸造#4
その仕事に価値(バリュー)はありますか、という問いは、とある業界ではよく言われる問いのようである。
その業界に限らず、仕事をするすべての人に向けられた問いでもある。
価値のない仕事ではなく、価値のある仕事をする。
では、その価値とは誰目線での価値か?
通常は、顧客にとっての価値、顧客目線での価値を指す。
顧客にとって価値がある仕事をし、価値のない仕事はしないということだ。
では、顧客とは誰か?
こういった話の文脈で想定されているのは、目の前の顧客、関係性のある顧客である。また、潜在的な顧客が含まれている場合にある。
ここまでをまとめると、価値があるか、という問いは、関係性のある当事者(関係性を持つ可能性のある当事者)にとって、価値のある活動かどうか、ということである。
ここまでは、今やありきたりな話であるが、この問いをあらゆる社会的活動に当てはまるのはまずいだろうという感覚が、ここで書き残しておきたいことである。
あるいは、その活動に価値があるのか、という問いを行動原理として採用することの危うさである。
勿論、価値(バリュー)があるか、という問いを立てるときには、ある程度シチュエーションが限定されているのが通常であるし、いかなる活動に対しても価値を求めているわけではないというのは理解できる。
ただ、価値があるか、という問いは、そのときそのときの当事者の価値観に縛られる問いである。つまり、暗黙の了解として、価値に時間軸が設定されている。
今、価値があるとされるものに将来価値があるかはわからない。
そのことは、過去に価値があったものでも今は価値がないもの、または価値が見直されているものあげると、枚挙にいとまがないことからもわかる。
逆に、今、価値がないとされるものが、将来的にとてつもない価値をもつこともある。
その活動に価値があるか、という問いは、往々にして、その活動に「現在」価値があるか、という問いとして受け止められることが多い。
つまり、「現在」という時間軸に縛られている問いということだ。
人間の生は短いし、企業の中期経営計画は人間の生に比べたら長いが、オリンピックを1・2回やればその期間は終わってしまうし、個別のプロジェクトの期間はもっと短い。
そうすると、どうしても、その活動の価値とは、「現在」価値があるかどうかで図らざるを得ないのである。
そもそも、現在価値がないものの価値を、どう推計すればいいのか、という問題もある。
別の視点で、とある活動を、「現在」価値がないと切り捨てることは、現在の大多数のもつ価値観を、押し付けることにも繋がる。それは現状維持には役に立っても、まだ見ぬ価値、まだ見ぬ世界への扉を叩き壊すことになりかねない。
その活動に価値があるか、という問いの有用性に何らかの異議を述べるつもりは毛頭ない。
ただ、「現在」価値があるかという時間軸を通じて、その活動を「現在」という時間軸に縛り付ける問いであるということに、注意書きを付しておきたいだけである。
ときに肩を張らずに、今、価値があるかどうかではなく、気ままな活動をする余裕を残しておく。
この余裕が(そして、この余裕を許容する余裕が)、常に価値を求められる社会において、緩衝材の役割を果たすことになる気がしてならない。