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【オンライン公開講義メモ:その①】“立ち止まって、考える” ~亡き母が見ていた世界と見えていなかった世界を私が見つけたかもしれない件~

”立ち止まって、考える”、大切なことだ。

コロナ禍において様々な情報があふれ、40歳も過ぎ自分自身の人生やキャリアにおいても考えることも多く、どのように行動していこうかと思い悩むことも多い。多動性の私はついつい動きながら、考える。

でも、ときには”立ち止まって、考える”ことも必要だ。動くことをやめ、立ち止まることは難しい。機会やキッカケ、インセンティブがないと立ち止まれない。何かをやめるときに、他の何か(機会やキッカケ、インセンティブ、代替品など)を準備することが必要だ。それは最近やっている体質改善と近しいものがある。たとえば、食事の在り方を変えるとき、大好きで食べていたポテトチップスをやめるという習慣をやめることは非常に難しい。でも、そこに代替品としてナッツがあるとポテトチップスをやめやすい。「俺にはポテトチップスの代わりにナッツがある!」、そんな気持ちでポテトチップスの穴をナッツで埋められるのだ。

ということで、動くのをやめるための、ひとつのキッカケがオンライン講義だ。動かない代わりにすること(代替品)、立ち止まるキッカケとして今回の京都大学提供のオンライン講義がある。これがあるから動かずにいられる。そして、立ち止まて考えることができたのだ。

5回シリーズの第1回をすべて視聴した。内容は4つ(①哲学、②環境史、③倫理学、④地域研究・メディア学)。立ち止まって考えるには最適なテーマだ。

今日は4つある中で哲学をnoteしてみたい。

①哲学:出口康夫教授「⾃⼰とは何か:「われわれとしての⾃⼰」とアフターコロナ」

出口先生は今回のオンライン公開講義にメッセージを寄せており、そのメッセージが素晴らしい!”自分なりのソリューションを描く”、ここが私の好きなポイント。講義中でも出口先生は人それぞれ皆さんで考えていきましょう的な雰囲気で話されていて好感が持てた。私の好きな感じであった。

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そんな出口先生が第1回は「自己」について非常に興味深い講義をしていただいた。そもそも自己は存在するのかという話から、デカルトを引用し「考える主体・実体」としての「私」の存在は確実だという主張を紹介。その後に、ヒュームは自己は単なる「知覚の束(統一性のない集積物)」と捉え、「心的活動の主体・実体」としてのデカルト的自己は存在しないという主張であることを紹介された。

そこから出口先生は、自己は一人称の自己だけでなく「われわれとしての自己」もあるんじゃないだろうか、「私」としてではなく、「われわれ」として生きた方が良いのではないかという非常に面白い提案をされた。

まず、実存的苦悩/事実のことを話された。世界と人間存在そのものに根ざす苦しみ(実存的苦悩:Existential Suffering)がある。私も小学校くらいから自分って何やろうとか、え?自分で自分を考えると何かよう分からんな~という感情を持ち始めていた。それの延長線上にあるような苦悩のことだと捉えた。皆さんも一度は考えたことがあるのではないだろうか。

似たようなことがWikipediaの「スピリチュアルケア」の項に記載があった。

▼Wikipedia

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%AA%E3%83%81%E3%83%A5%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%B1%E3%82%A2#cite_note-kippes_p.170-2

「なぜ生きているのか」「何のために生きているのか」「毎日繰り返される体験の意味は何か」「自分はなぜ病気なのか」「自分はなぜ死ななければならないのか」「死んだあとはどうなるのか」「人間に生まれ、人間として生きているということはどういうことなのか」などの問いは、人間誰しも抱えている。スピリチュアルケアというのは、こういった問いに真正面から対面し、探究し、健全な解決へと向けて、絶え間なく働きかけることである。

▲Wikipedia

そして、個人、一人称としての自己、個人的自己観であるために実存的孤独(Existential Solitude )を抱えると出口先生は説明する。”「私」は、世界の只中にあって「同一性の壁」に囲まれた「独房」に閉じ込められている” と。その「孤独」を緩和する方法として、自己を複数化・「われわれ化」し、生を「対話化」するという方法があるのではないかと提案する。

健康、経済、社会環境、人間関係などの問題とは異なる問題や苦悩を抱える人がいる。さらに自己が個人となり孤独を感じている。これまではそれらの苦悩は宗教的救済・非宗教的救済の対象になってきた。私は宗教的救済よりも非宗教的救済(世界観・人間観の提示・変更による救済:広い意味での実存哲学:Existential Philosophy)に関心が高い。

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この話を聞いた際に、亡き母のことを思い出した。彼女はきっとこのような苦悩を持っていたと感じる。母が苦悩を持っていたのは40歳過ぎだったと思う。私も今、40歳過ぎ。同じ年齢で私は母の苦悩の正体を知り、いくつかの救済方法を知ったことは価値がある。彼女が見ていた世界を見ることができた。一方で哲学的なアプローチでその苦悩の解決・救済方法があることを知れたことは良かった。

われわれとしての自己、それは自己を複数化すること。「複数」の中には生きている人も死んでいる人も含むみたいだ。これから母としての自己も取り入れながら、生と対話し生きていきたい。


2020年7月11日(土)

新宿にて、40歳過ぎに思い悩んでいた母の気持ちと寄り添いながら

大角知也

次回以降は②や③、④をnoteしていこうと思います。

②環境史:瀬戸口明久准教授「「災害」の環境史:科学技術社会とコロナ禍」

③倫理学:児玉聡准教授「パンデミックの倫理学」

④地域研究・メディア学:山本博之准教授「メディアとコミュニティ―東南アジアから考える





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